「作家、俳優は卒業すべき」機動戦士ガンダム ククルス・ドアンの島 加藤プリンさんの映画レビュー(感想・評価)
作家、俳優は卒業すべき
映像技術は時代なりに進化しており、美しく、見応え充分である。が、画が古い。
安彦良和という作家が相当に古いまま、アップデートしていないのだと思った。
かつてのテレビまんがの時代、セルアニメの時代性にはとても良くマッチしていて、
素晴らしい作家として、一時代を築かれたレジェンドであることは間違いないのだが、
現代において、彼のアニメーションの演技演出は軽すぎ、漫画すぎる。
人間はどこまでいっても滑稽な存在だという人間哲学があるかとお見受けするが、
オリジンにおいてもそうだったが、氏の漫画家ゆえの作家性と言うのならば、
今日日こんな演技をつけさせるということが、もはや古いとしか言いようがないし、
意図的なのであるとすれば、古い作品のリメイクという虚構に、自ら、踊らされた「作為」が過ぎる。
その作為は声優の演技も乗っ取っており、
アムロ、カイ、シャアのレジェンド声優の演技も、相当に難しい・・というか無理がある。
自分でかつての自分を再現しようとして、逆に違和感が強い。(セルフカバーの悪い輪廻に憑りつかれているように思える)
やはり声優も俳優なのだから、身体性に沿った歩みがあるはずなのだが、それがない。
(そして今後、こういった分野は、AIの仕事になってゆくのでしょう。
今の古谷徹よりも当時のアムロらしい、劣化のない、誰もが聞いても違和感のない声が宛てられるようになるだろうが、、それは別のお話)
本来、俳優に古い役を、50年経っても同じ声、同じ演技を求めること自体がナンセンスなのですね。
卓越した技術で(ある程度)再現できる事ははあるだろうが、
俳優には歳相応の役を、今の古谷徹には今の古谷徹に、相応しい仕事があるはずで、
それを用意しないのは、起用側の罪であろう。(オールドファンの執着も理由のひとつである)
(40になっても50になってもアイドルをアイドルのまま卒業させないと、おかしなことになるのと同じで、
人にはそれぞれ、年齢に応じた相応しいステージがあるように思う。
その年齢、その時代、その瞬間にしか創り得ない 掛け替えのない仕事があるはずなのだ。
その俳優の技術や特性が、成長した結果、リメイクにマッチしているならば、それもまたOKなのだ。
それを無視して、ただただ同じ俳優を起用することがナンセンスなのである)
そういう意味では、安彦氏にも今の安彦氏に相応しい仕事があるように思う。
ご本人には、後輩へ伝えたい想いが強くあると思うが、観る限り、この仕事はそうでないだろう。
また、これも監督の作家性に依るものと思うが、
モビルスーツに人間の演技をつける必要はない。
ガンダムという作品において、モビルスーツには兵器という役割があるはずなのだ。
(メカ設定上にも、パイロットの感情がフィードバックされるような技術はなかったと思う)
そこを乗り越えてしまうと、ガンダムという作品性を自ら否定してしまう。
原作の1エピソードをうまく膨らませ、キャラクターの深掘りをさせることで、作品性は非常に良かった。
とても面白かった。
WBクルーのキャラクターも活きていたし、ブライト、マ・クベなど、いちばん株を上げたように思う。
とはいえ、ガンダムという作品テーマからは当然、逸脱できる事はなく、原作の最終回をそのまま落とし込んでいて、
アムロに仲間ができ、武器を捨て、還れる場所があることに彼自身が気づく物語なので、
ジオン側の兵士にもまた、
自ら戦いを捨てる事ができれば、還れる場所は作れるはずだということに
ドアン自身が気づき、自らザクを捨てるという選択ができていたら、
よりテーマは明確になったように思う。
が、そのあたりは、原作との兼ね合いで、どちらを優先するかという事になる。
当然、メインの客層としてのオールドファンへのサービスも必要であるのだが、
個人的には、原作をもう少し離れ、破綻があっても、一本の映画作品としての自立が観たかった。
とはいえ、それはそれで炎上するのが、火を見るよりも明らかで、
現代において、名作のリメイクというのは、非常にヤリヅライものだなあと、強く感じた。