名付けようのない踊りのレビュー・感想・評価
全28件中、1~20件目を表示
場踊り
田中泯は言う。自身の踊りを。
それは泯の思う自身の踊りを言葉にした表現である。
また、泯の言うダンサーはダンスに為に身体造りをする。
それは違うんじゃないかと思った。と言う意見は
その場踊りの表現にも一致する。
つまりは、言葉で表現する譜
音で表現する囃子
身体で表現する舞と言うように
感じたことを表現するのに、
泯は自身の踊りをそう表現しただけであろう。
だから、名付けようのない踊り。であり
すべてが本作で完結できる泯の表現なのだと思った。
まぁ、そう言う位置付けだから
田中泯さんって?ってなった時には、この作品を
オススメするんだろうけど、
人の話をしっかり聴いて、相手の価値観を咀嚼して
対話できるような人でないと、正直辛いんだろうなw
と思う。
万人向けではないが、優れた芸術作品として評価する
ドキュメント📃◎
哲学者
まだ言葉を人類が取得していない太古の昔は、ジェスチャーが主流だったかもしれないですね。ジェスチャーがダンスになり、発声が言葉になった。ゴリラのジェスチャー、鳥のダンス、猫言葉(猫は飼い主に話しかけてきますよね)などなど。田中さんの表現は、動物の様にシンプルで、心が身体を使って訴えかけてきます。ダンサーも絵描きも演者も哲学を言葉ではなく身体で表現するんですもんね。
【”踊りの求道者”踊りとは何かを独自のスタンスで極めようとする、70歳を超えても衰えを見せない、田中泯の姿を追ったドキュメンタリー作品。】
■世界中のアーティストとコラボレーションし、ダンスの公演歴は3千回を超える田中泯。好きなことを極め、心のまま生きる境地にどのようにたどりついたのか。子供時代を描いた『頭山』の山村浩二によるアニメーションを交え、生き方の根底にある思いを紡ぐ。
◆感想
・田中泯を知ったのは、多分と同じであろうが「たそがれ清兵衛」である。剣の達人、余吾を演じ、真田広之との屋内での切り合いには、釘付けになった。
その切り合いのシーンは、このドキュメンタリー作品でも描かれるが、”たそがれ・・、眼が暗くなってきた・・。地獄だ・・。”と言いながら死にゆくシーンは、正に死の踊りであった。
・その後、興味を持ち彼が田舎暮らしをし、自ら米、野菜を作る中で身体を作ってきた事も知った。今までのダンサーには無い生き方であると思った。
・更に、「るろうの剣心」シリーズで、御庭番を仕切る"翁”を演じた際の剣術アクションスピードの凄まじさにも、度肝を抜かれたモノだ。
・今作では、彼が全身の毛を剃り、ペニスに布を巻いて独自のダンスを”場躍り”として長年披露してきた姿や(当然、捕まっている・・。)フランスで、漸く世界に認められる存在になった過程が描かれる。
何より驚いたのは、彼が心酔していたのが、ロジェ・カイヨワであったことである。
ー そして、彼は晩年のカイヨワに実際に会い、”名付けようのない踊りを続けてくれ・・”と言われている。-
<今や、邦画界の重鎮と言っても良い田中泯の本業は矢張りダンサーであり、70歳を超えても農作業で鍛えた身体のしなやかさは健在であると思った、ドキュメンタリー作品である。>
犬堂監督のトークを聞いて☆増えました
目黒シネマにて『アメリカン・ユートピア』との二本立て+犬童一心監督のティーチインイベントに行ってきました。
田中泯さん、カッコいい。語彙力アレですけど、ほんとに。ダンスのためのトレーニングをするのではなく、畑で鍛えた体で踊るとかね、ほんと憧れます。使える体、本能的なしなやかさ、存在美。
下駄や素足も似合うけど、コンバースもむっちゃ似合うというね。
自分がしたいのも、ジャズのような施術で、その時のその場でその人との関係で生まれる、正にセッション。場踊りならぬ、場セラピーとでもいいますか。
コンティニュアムをするようになってから、余計にその感が強くなっています。目指すはシームレスで流動的な体。。
そして、上映後の犬童一心監督のトークがとっても良かったです!
「こういう人がいてすごいでしょっていうドキュメンタリーにはしたくなくて、ただ踊りの映画が撮りたくて。もともと踊りの映画が好きなんです。」
そういうとこ好き。そういうスタンスだから泯さんも撮らせてくれたんじゃないでしょうか。
観客の質問にもたくさん答えてくれたのですが、あまりの回答力の高さに、思わず私も質問してしまいました。
・・・
Q、泯さんの言葉があって、そのイメージをアニメーションとすり合わせていくのは大変な作業だったのではないですか?(山村浩二さんがイラストレーションを担当している)
A、とりあえず2年間動画を撮りためて脚本を考えたのだけど、その時すでにアニメーションのイメージがありました。山村浩二さんは大学からの付き合いなんだけど、泯さんも山村さんも、似てるんですよ。面倒くさいんです、2人とも。自分ならもっと簡単に済ませてしまうようなことも、あえて面倒くさいことを選んでまでやると言うところがあって。
一部、シネカリという技法が使われているのですが、シネカリってやり直せないんです。直接フィルムに傷を付けて描きこんでいくので、失敗したら終わり。それが泯さんにも繋がるという事で、どうしても山村さんがやりたいって。
・・・
ものすごいリスクと時間をかけて作られたのを知ると、また印象が全然違います。
今のCGはすごいなー、かっこいいなぁ、で終わってた所でした。
本来ドキュメントなら、インタビューがあるものですが、この作品にはありません。
泯さんは、今でこそ芸能人ぽくなってきましたけど(←監督の言葉を拝借)、本来は経歴を並べるのも好きじゃないし、自分で教えたり、学校作れみたいな話を「嫌悪の極み」と言ってしまうような人なので、映像を残せた犬堂監督との信頼関係はすごいと思います。泯さんも犬堂監督をリスペクトしているのがわかります。
田中泯さん一白水星(酉年)×犬堂監督 四緑木星(子年)
うんうん、なるほど、合ってます。
泯さんの持ち味を殺さず、邪魔をせず、たんたんと撮り溜めた2年分の動画から、魅力的な表情を厳選し続けた監督も、充分面倒くさい人だと思いますよ(褒めてます)!!
実際にメゾン・ド・ヒミコ後の15年前から泯さんの踊りは見続けていたそうですから。
サインをもらいながら(ミーハー笑)、もう一つ質問しました。
Q、泯さんが真っ赤なハイエースで自然道を走ってくる場面は、待ち構えて撮ったんですか?
A、あれは僕たちが先に到着してたから撮れて、西部劇をイメージしてるんです。笑
と、答えてくれました!
あーーー、ずっと聞いてられる!笑
ちなみに、公式サイトの大泉洋さんとの対談はめちゃめちゃチャーミングな泯さんが見られるので、是非見てほしいです。
ちなみに、私は本編観た後に見て正解でした。
しあわせで何より
まぁ、半分も理解できていないだろうけど、
ただただ、心は奪われますわな。
脳みそが沈んでいく感じは、どんなんだろう。
そんなダンスのあとで、笑顔で「しあわせ」と言える、
そんな素晴らしいことはないですね。
羨ましい限りです。
予想してたよりも理解でき、味わえました。
「アルキメデスの大戦」を観てから気になって検索した時、肩書きが俳優よりもダンサー・舞踊家だったことに興味を抱いた田中泯さんを堪能してきた。「HOKUSAI」もすごく魅力的だったし、田中泯さん自体の表現も観てみたくて。
方法や形態は違っても、人が感じたり考えたり想像したりする脳内活動の表れとしての踊り、独特で異色だけれど全く理解できない事柄ではなく、ある意味多くの振り付けのあるダンスよりも精神表現の芸術だと感じた。一人一人の人間が持つ外見や個性や思考や感情みたいに、名前も形も決めない表現。生きている時間と実感に全力で浸り、自分を表現して人や世界と繋がる、一つの生命としての無垢なストレートさ。とっつきやすくはないと思うけど、触れてみるとまた少し脳が拡がった気がしました。
言葉では表現できない芸術のようでいて、今日の映画内で説明やルーツとして語られた言葉や概念はとても理解できるものだった。田中泯さんの外見的な肉体美を堪能できるだけじゃなく、その内側の思考や感情を説明してくださる作りだったのでとても嬉しい。アニメーションの挿れ方や絵柄も良かったです。
退屈だとか理解できないと感じる人と、一人の表現者に触れる面白みを感じられる人とに分かれる映画であるとは思います。
人類が言葉より先に持っていたもの
世界が真っ赤だった日に生まれた男の話
田中泯さんの演技は好きだったけど本業の舞踏家としての姿が見たくて視聴しました。
これが田中泯か!
途轍もない人物だったのですね。
踊りとはなんなのか、表現とはなんなのか少しだけ解った気がします。気がするだけですけど。
田中泯さんの半生、生まれや活動を踏まえ、感覚や生き方などを上手に映像に収めてたと思います。静かな映画でしたがとても刺激的でいろいろな発見やとらえ方を教えてもらいました。
芸術になる前の踊りがしたい
踊ることで自分と相手との間に生まれる踊りを見出す
哲学的だけれど泯さんだからこそ説得力のある表現方法。
なにがよくてなにがわるいのかとか超越しただただ感じたもの湧き上がるものを表に出す
ってことなのかな?
言葉よりも前に生まれた踊りの表現を文字にするのは私にはできそうにありません。
原初の純粋な、何かを見れた気がします。
面白いとか素晴らしかったとか以前に凄い勉強になった作品でしたね。
これからも田中泯さんの演技や表現に注目したいと思います。
------------------------------------------------------------------------
劇中セリフより
「雲が消える瞬間を見た」
雲が消える瞬間を最後に見たのはいつだったろう?
たまには、ぼーっと空を眺めるのもいいかも知れないですね。
表現者の生き様を観る
予告が軽快なサンバだったし、世界中で独創的なダンスを見せながら旅をするロードムービーだと思ってた
実際は己の表現を生涯かけて探し続ける男のドキュメンタリー
ずっと緊張して集中して観た
ちょっと世界観変えられる程
ポップコーン頬張りながら楽しく観るような作品ではないけど、なにか新しい世界は開けるかも
素晴らしいドキュメンタリー
密度の濃い素晴らしいドキュメンタリー作品だった。
撮影、脚本、編集、音楽など、それぞれの要素がバランス良く機能していた。
構成も、アニメーション(これも素敵だった)を挟み込んだりと、観客を飽きさせないような様々な工夫がなされていて、さすが劇映画の監督が撮ったドキュメンタリーだなと思った。
以前、映画『HOKUSAI』の中で田中泯の踊りを観たが、彼のオリジナルの踊り——というか身体表現、すなわち「場踊り」を観るのは初めてだった。2時間、僕の目はスクリーンに釘づけになった。田中泯という、強固な意志を持ったひとりの人間から放たれた鋭い矢は、僕の弛緩した精神にピシピシ当たった。
実を言うと、僕は田中泯という役者が嫌いだった。とっつきにくいような、気難しそうな、それに少しウサン臭そうなところもあるし……と。要するに、彼が、ほかの役者にはない何か暗く固い、名状しがたい雰囲気、まさしく名付けようのない雰囲気を持っているように感じられたからだ。
本作によって、僕は、彼が醸し出すその独特の雰囲気がどうやってつくられたのかということを、少し垣間見ることができた(やはりその土台には、土方巽という大きな存在があったのか、とか)。
そして気が付けば、僕は田中泯という役者を、いや、そこを通り抜けて、田中泯という人間を、好きになっていた。
泯さんのことをカッコ悪いと言う人はいないだろう、泯さんのようにカッコいいジイさんが増えれば日本はもっとマシな国になるはずだ、と思うまでになっていた。
活を入れられたような気がした。カンフル剤を注入されたような気がした。野良仕事でつくったカラダ、美しい~。
アルシオーネの『愛のサンバは永遠に』が胸に響きます。
観てよかった。
たそがれ場踊り
ダンスと聞いてイメージするのは、4拍子とか8拍子とか、一定のリズムに乗って、体を動かして表現すること。でも、田中泯の場合は、内なるリズムで動くので、見ている側はどんなリズムか、想像するしかない。そこを受容できるかどうかで、彼への評価は変わってくると思う。私は興味深く見た。
作物を育て、自然の声に耳を傾ける。田舎暮らしに猫がごろごろ、田中泯にまとわりついて、かわいかった。羊は草刈要員かな。意外にも犬がいなかった。
場踊りの収録が多く、資料としての側面もある。水戸芸術館とオイルプールが好きだな。少年の頃の思い出をアニメにしたり、映像加工は良かったが、歌はどうなんだろう。別に下手なわけじゃないけど、そこまでする必要があるかなぁ。ちょっと疑問。
踊りとは・・・田中泯の熱量ある思想に触れる。
ただただ、田中泯さんの唯一無二の熱を浴びる2時間です。目が離せなかったです。残念ながら僕はダンス、舞踊のこと、芸術のことはさっぱりわかりません。田中泯さんの言ってることもわかったようなわからないような。いや、わかってないな(笑)わからんです、万物との一体化なんて。けど、ラストの田中泯さんのON -OFFが切り替わる姿を見て、あぁ選ばれた表現者なんだろうなぁって痛感しました。全身全霊で踊っている(表現している)姿に魅せられます。
「踊り」ってたくさんの形があるんでしょうね。正直、泯さんの「踊り」は初めて見ました。これが「踊り」なのか?と・・・・理解に苦しみました。しかし、作品を見進めるとちょっと感じ方が変わっていきました。僕が認識している「今の踊り」は姿を変えてきたものであって、泯さんの踊りに対しての考えや思想は、もしかしたら太古・・踊りが生まれた頃・・は当たり前のことだったのかもしれないのではないか?と。
なぜなら、泯さんが人を含め万物に寄り添い、自然と共に在り表現しようとしているものはそれらの思いや気持ち。・・・それ伝えるための言葉として「踊り」と言う表現方法がある・・・思いの可視化(言語化)しているのかもしれない・・・そんなことがぼんやりと頭の中にひろがっていきました。泯さんの言葉や、犬童監督の映像を見て。
なーんて、わかった風なことを書いていますが、わかっちゃぁいませんww。感じただけです。でもそれでいいんじゃぁないかなぁ。表現されたものをどう受け取るか?ですからね。ただ、言語を表現されているってことであれば、それを理解したいなぁって思いました。
底知れない存在感がある泯さん。本作でそれを少しでも感じることができてよかったなぁって思います。一度は生で「泯さんの踊り」を見る機会があればと思いますし、その時僕はどんな気持ちになるのか?を知りたくなりました。なんの脚色もなくそのままの田中泯さんを見ることができたからそう思えたのかも知れません。
芸術のことも踊りのこともよくわかっていません。ですから絵画を見たときの感想は作家の著名、無名に関係なく、いいなぁ、やだなぁってくらいの感想しか持てない僕です。そんな僕は、泯さんの「波打ち際での踊り」と「オイルの踊り」が好きになりました。
記憶と記録と静かな歩み
ダンサーとしての彼を知らなかったと思いきや、夢の島の写真で思い出した。というか土方巽の名が出てきた時か。当時の自分に何があったかは今や定かではないのだが、「山海塾」という暗黒舞踏集団にワクワクしていた時期があり、そこに紐付いて両者を知ったわけだ。懐かしい。
「たそがれ清兵衛」の頃にはそんな事もすっかり忘れて「なんか凄い人出てきたな…」位だったのだが、自分の記憶も掘り起こされながらの鑑賞となり、人生の影の部分を辿る素敵な旅路となりました。邦画にしては珍しく録音も本気なので、印象的な画面や田中泯とそれを取り巻く人達(観衆含む)と共に、音響の良い映画館で堪能させて頂きました。
70越えてもあれだけの熱量を発し続ける事が出来る。それは誰にでも成し得る事であるのだと教えられた様な、生きる力を貰える時間でした。
映画
犬童監督と山村浩二氏のアニメーション、そして音楽。田中泯氏は良い役者としてしか知らなかったが、本作で彼の軌跡を知ることとなった。ダンスは跳んだり跳ねたり派手さはなく、泥臭い、舞踊とは違う芸大学生のような臭いを感じ苦々しく思う部分もあったが、映画が飽きさせず上手に見せてくれた。佇まいが美しかった。
帰り道に思ったこと
田中泯しか出演していないのに田中泯の魅力が感じられない映画だった。
なぜ?と帰り道に問う。
迫ってないっていうか、なぜ踊り続けるのか踊らずにいられないのか、言葉で説明されても迫っていないから心に来ない。
とても残念だった。
芸術家の記録
テレビやスクリーンに写る度、強いオーラと存在感を放つこの方、ダンサーだと知ったのはHOKUSAI公開時だった。「場おどり」というものがあるのか。それはその場の空気や土地、物や時間と会話しながら全身全霊で反応していく作業のようだった。それを世界中の人がじっと見ている。評価や理解は無用、何かを感じようとしている、芸術観賞なのだということがわかった。
この映画そのものは、この方を理解するための情報を伝える構成が工夫されていて、監督の力量を感じた。ご本人の時々入る言葉やナレーション、「私のこども」のアニメーションがとても効果的。畑仕事などの日常の様子が踊り中よりずっと若々しい。ひたすら踊りだけだったら、眠くて見続けることは出来なかっただろう。どうやって踊りを、終わらせるのだろう?と考えていたところで、その瞬間が映し出され、穏やかな光の中で「幸せです」と語った表情が印象的だった。
この方の生き様が上手く切り取られた作品。
ただ、ただ、人は、田中泯を見ている。
人は、踊りを見ているのではない。
人は、田中泯を見ている。
なぜ、見ているのか?その理由もない。田中泯が、そこにいるから見ている。
世界中、どこへ行っても、人は、田中泯を見ている。
こうして、私も、真っ暗な空間で、田中泯を見ている。
おもしろいとか、おもしろくないとか、それは、どちらでもいい。
田中泯の映画をやってるから、見に来たのだ。
田中泯とは、そんな存在だと思う。
ポルトガルの人も、フランスの人も、同じだと思う。
これが、田中泯の言う、言語以前の世界なのかもしれない。
この映画を見たとき、あなたも、ただ、ただ、見ていたという思いで満たされることだろう。
劇場でお確かめください。
【踊りとは何か】
「踊り」や「ダンス」でイメージされる音楽やリズム、或いは、一定のルールに合わせて身体を動かす動作は、考えてみたら沢山ある。
本当に沢山ある。
この作品は、踊りやダンスとは何かを改めて考えたくなる作品だ。
田中泯さんを知ったのは映画「たそがれ清兵衛」だった。
この作品でも映される「たそがれぇ〜」の場面は、ものすごく印象に残るシーンだ。
その時はダンサーだとは知らなかった。
その後、田中泯さんのダンスを初めて観たのは、もう随分前なるが、Eテレ「Switch」の挟土秀平さんとの対談で、挟土秀平さんの作品の土壁の前での踊りだった。
それは、事前に用意されたものではなく、作品から受けた印象や感動を、その場で身体で表現したもので、伝統的な舞踊とはもちろん、より自由度の高いと考えていたヒップホップ、コンテンパラリーダンスとも異なり、人間の感情の奥底から湧き上がってくるような、なんとも言葉では形容し難いものだった。
当然、音楽やリズムに合わせたものではない。
それは、この映画で田田中泯さんの踊りを初めて見た人も同じような感覚を持つのではないかと思う。
この作品で明らかになる農作業を通じて獲得した肉体で表現することの意味は、人間が太古の昔に肉体を使って言葉の代わりに何か重要なことを伝えようとしていたという、田中泯さんの考えを裏付けるものだと思うし、更に、パリでの対話の田中泯さんの話を聞くと、僕でもちょっと理解できたような気になる。
田中泯さんの踊りをみた後に、ひとりのパリの女性からの「一緒に踊り出す人はいるか」という問いに、「子供の中にはいる」と。
すると、彼女は、「私たちも心の中では踊っている」と。
田中泯さんが、「それこそが重要だ」「ダンスは踊ってる自分と観ている人たちとの間に生まれるものだ」と。
音楽がなくても、リズムがなくても、ルールがなくても、成立する踊り。
そして、観る人々の心を掴み、揺さぶるもの。
名付けようのない踊り。
それは、ダンサーと観る人々の間に生まれる目に見えないダンスなのだ。
そして、これは多くの人々を踊りに導くのだ。
「自由」で「在る」事
前衛とか孤高とか、恐らく呼ばれていたであろう前半生の活動から、農業に軸足を置き、商業エンタメの世界に立ち位置を築き、地球上の色んな場所で、そこで観る人との間にオドリなるものを立ち上がらせ、そこに「在る」自由を会得したマスターと言うべき人が田中泯氏なのだと思います。マスクを必要としなくなった世界で場踊りを体感したいなと思いました。「お前ももっと自由なんだよ。」と語りかけてくれそうな気がして。想像もしないような可能性が自分の生命にも在るような、心に爽やかな風が吹き抜けたような、そんな気持ちになりました。
心、共に踊る
あの朱色なハイエースは、尖った時代の生き証人を物語るに相応しい。見えない謎に包まれていた、いや、深く理解が出来ていなかった私にとって、田中泯の生き方の正体をやっと知り得た作品となる。“言葉より先に踊りがあった”ー。印象的な言葉の数々は、森羅万象の連なりを言い当てている様で、自由な時の流れを生み出し、場内を包んでいた。生立ちと出立ちとは静かに物語る。畑仕事で作られた身体を利用し踊るという考え方は、物事の前後が如何に矛盾に満ちているかも体現しているのだ。新しい発想は求めるが、新しい物質は不用。削ぎ落とされた美に、神秘は宿る。名のなき芸術表現こそ究極なのだ。
全28件中、1~20件目を表示