土を喰らう十二ヵ月のレビュー・感想・評価
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もういいかな、これ系は。
初見。
もういいかな、これ系は。
田舎に静かに一人、
四季が流れて山菜を食べて、
死生観の描写アリ系は。
この二人だから何とか見ていられる系。
退屈な程尤もらしい系。
要するに全然面白くない。
まあ美味しそうだけれども。
犬にはバカという称号が多く与えられる
田舎で山菜などをとってのんびり暮らす人の話。
料理や食事のシーン多め。訪れ人を変えたり、ギャグを入れるなど飽きないように要素が混ぜられているようにも思われる。哲学よりな部分もあり。
良い点
・美味しそう
・ユニークな人々
・失敗した料理は犬が喰らう
・業者任せにしてボッタくられる
悪い点
・終盤少し元気すぎる
・終盤がやや単調。ギャグがもっと多くてもよい
数々のお料理が美味しそうでした。
四季の移ろいの映像が美しかった。
身土不二、地産地消、四季折々、自らの畑と近くの山で採れた食材で作る、素朴だけれど手間をかけた料理や、かまどの羽釜で炊いたご飯が美味しそうだった。
彼女に一緒に暮らそうと言い出した主人公、心筋梗塞で倒れた後、やっぱり独りが良いと変わったのは、彼女に対する優しさだったのか、倒れて死生観が変わったからなのだろか。
映画であり,フィクションでも有り…。
そう,シツコイようだが、映画だから許されちゃう世界観!なんて大袈裟かもしれないが、誰もが語ってる事で重複する事になっちゃってる事はお許し願いたい処(トコロ)…。
4季折々の料理を謳(ウタ)?と共に読み上げ、私にとって本格的な料理を披露して来れたり…。(有名な?私自身が知らないだけ?料理研究家の土井善晴が手掛けてくれてるようだ!)
内容は至って単純かと思っては居たが,何故だか?後から後から非常に気になり始めた次第で有りまして…。
ラストシーンでは「アレっ?未だこのキャストでもっと観たいのに…もう終わっちゃうの⁈」と想わせて終わって行く事って、実は1番理想的なシナリオ&キャスティングだったんじゃ無いかなぁ〜(╹◡╹)♡
勉さんは 扉を閉めないのですよ
北アルプスのふもとの映画館に行きました。地元で撮られた映画です。
勉さんは 扉を閉めないのです。
信州白馬。
雪が積もっています。
勉さんは玄関を出て、庭の雪囲いの里芋を調達に行く。扉は閉めない。
雪を掘って大根を収穫する。扉は閉めない。
誰かが白菜を届けてくれた。戸はあけたままで手を合わせる。
チエさんの小屋を訪ねる。ここでも勉さんは玄関の戸は閉めない。開け放ったままだ。
寒い禅寺で育ったゆえに彼は寒さは平気なのだろうか? お行儀が悪いのだろうか?
囲炉裏ひとつ、かまどひとつの昔の家だ。その室内に冬の冷気が入り込んだって、彼はお構いがないのかもしれないが、
【この映画では印象的に 必ず扉が開いたままにされるのだ】。
なるほど、人間の生活の場と畑とが開け放った空間で繋がっている映画。
そして妻の死と義母の死と 自分の心筋梗塞の入院で、命の扉とあの世の扉は繋がっていて、そこは開いていたのだということを、勉さんが、その様子で教えてくれる。
「生まれてくれば死ぬのは当たり前なのに」
「死ぬのが何故怖いのかを独りで考えてみたい」と語る74歳 沢田研二の表情の長映しが、またすごく良いのだ。
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禅寺そだちの勉さん(沢田研二)が
道元禅師の言葉を唱えながら
ほうれん草の根を洗う。
キュウリを漬ける。
筍を掘る。
豆を撒く。
米を炊く。
そういう映画です。
一世を風靡したあの大スター・ジュリーをしょぼい老人役として起用してくるとは、この企画には驚きです。
お正月の映画館は中高年でいっぱいでした。
”映画館での雑音問題”は当サイトでもしばしば俎上に上がりますね。今回僕の近くの席に陣取った御婦人お二人も
いちいちスクリーンに相づちを打ったり、「あらあら」と応えたり、「水は冷たいはずよ」「まあ、あれを見て」と囁き合ったり返したり・・
でも彼女たちの声が今日はそんなに嫌じゃなかった。
ジュリーと同年代の、老年期を共に生きる者同士の、スクリーンのこちら側とあちら側との素朴な共感と相づちに感ぜられて、小声で話し続けるおばちゃんたちと僕は、なんだか一緒に映画を楽しめたのです。
そしてあの「大きな遺影」やら「かっこ悪い巨大な棺桶」やら、みんなで爆笑も出来たしね。
ほら、信州の女たちはみんな、味噌や野沢菜は自分で作るのが普通なんですよ。だからあの祭壇に並べられていく御供物の「手づくり味噌」、「手づくり漬物」、「手づくり農産物の数々」に客席の我々は共感ができて、頷けて、胸が熱くなるのです。
出演者と観客の境の扉も開いたのですね。
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滋味深い俳句があるのです、
それは、生きて・畑を耕し・野菜を食べて・命を終える、
その姿を五·七·五でこんなにも端的に謳った句が。
大根褒め
悔やみの客の入り来たり
(だいこほめ くやみのきゃくのいりきたり)
今となっては作者がどなただったか存じ上げないが、
その農家のおじいさまかおばあさまかが亡くなったのだろう。
お宅への道はその大根畑。
近所の人たちが立派に手入れされた畑の中を通って、喪中の家の母屋の玄関を開ける。
開けたままで振り返って指を指し、遺族と挨拶が交わされる。働き者だったことがよくわかる。
大往生なさったに違いない・・という句。
思い出したこの俳句も、今日のこの映画も、
人間の生と、死と、畑とが、直通している秀作でした。
勉さんは開け放った入り口をくぐり、窯業の窯と火葬場の釜の間を生きつ戻りつして考えます
生きるとは、死ぬとは。
水上勉の自伝的小説。
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付記:
この映画は中江裕司監督との嬉しい再会でもあった、
24年前に「ナビィの恋」でおばあ=平良とみさんを青い海原の彼方に解き放った監督は、
今作品では、見事に年を取ってくれた沢田研二を美しい里山へと還してくれた。
京都出身の沢田にとっては、あの和食への傾倒や、素材の香りへの郷愁は身に覚えがあるはずだ。
高齢者との同居の経験がおありなのだろうか、シニアの中にふつふつと息づく本能の疼きと命の呼び声を、この若き監督はなんとも温かく見守り、みずみずしい観点で描くのだ。
前作「ナビィの恋」以来どうしているのかと心に覚えていた中江監督が、こうして脚本及び監督と二足のわらじを続けてくれていて、若者と老人を繋ぐいい仕事をしてくれていたことが、62歳、初老の僕は何だか嬉しくてたまらない。
観て良かった。
(お正月映画第一弾)
生きることは食べること。
2022年を締めくくったのは、こちら。
美味しいものは、好きな人と食べたい。
なんと素直な告白。
この誘いを断るなんて!
それにしても、湯気が伝わって来るような、もう、お腹空きます!
世界遺産・和食の原点
笑いも泣きも、手に汗握ることもない、盛り上がりが全くない。にも関らず、最後までスクリーンに引き寄せられる。愉悦も歓喜も感動も、つまり何ら感情を昂らせてくれなかったにも関わらず、映画館を出た時に清々しく豊潤な満足感に包まれ、日本人で良かったという思いが自然に湧き上がってきました。
本作は、幼い頃に禅寺で精進料理を学んだ作家・水上勉が、その記憶をもとに一年にわたって季節の野菜を自ら調理し、料理と日本の食文化について思いを巡らせたエッセイ本を脚色して映像化したものです。従いそもそも“物語”になっておらず、恰も滾々と流れる水のように、沢田研二扮する主人公の作家・ツトムの一年に亘る自然と共生する日記、それも誰でも一日三度摂る“食”を記録した、いわば“映像食日記”です。
当然、映像はツトムの一人称で描かれ、ツトムの視野のみで展開します。
食材は、庭の畑や近くの山や川で獲れたものや自家製の漬物を、塩、砂糖、醤油、味噌で味付けして仕上げられ、質素で見栄えはしませんが、しかし、一つ一つに手数を掛けていて、誠に豊かでぜいたくな食生活です。
太陽と水があれば、人は如何ようにも生きていける。寧ろ、自然に己を投げ出し、委ねることで生きる、その清らかさ、その美しさ、その尊さを切々と訴えます。
一年を二十四節季に区切ってその時々のツトムの食を描いていきますが、四季の変わり目にはBGMにアルトサックスのやや甲高いバラード調旋律が響き、冬から春、春から夏、夏から秋、秋から冬への気候の変化、そしてそれに伴って変わっていく食を象徴的に奏でます。日本の四季の華麗で鮮やかな変化が、強く印象づけられました。
ここは管弦楽器では荘厳過ぎ、ピアノでは優雅過ぎ、況してやテナーサックスでは完全にジャズになってしまい、本作には似合いません。
またツトムと松たか子扮する編集者の真知子が二人並んで食事する、やや引いた固定カメラのカットの長回しが所々に挿入されます。殆ど会話や動きのないシーンですが、特に冒頭のシーンは、その静謐な中で物言わず互いの感情が滲み出てきて、嘗ての『駅 STATION』(1981年)の、高倉健と倍賞千恵子が雪の大晦日に紅白をテレビで見ながら銚子を酌み交わすシーンに匹敵する名シーンであるように思えました。
自然の中で自然と共生した生活のようですが、よく見るとあるがままの自然ではなく、人が引き寄せ人の手を加えて食しています。
実は、これこそが、世界遺産に認定された「和食」の原点ではないかという思いに至りました。
それでも人生は続き、また土を食み人は生きる
雪深い長野の山村を舞台に、畑と山で採れる食材を食して暮らす作家の、とある一年を描く
竹に吹く風、流れる雲、目を射るような雪の白、澄んだ水に映える芹の緑、土から這い出す亀の生命力
心が豊かな生活を送る主人公にも、生きる上では難題が降り掛かり、咀嚼しきれない重い塊もある
それでも人生は続き、また土を食み人は生きる
そんなしみじみとした気持ちになれる良作
あと、劇中で松たか子が「いい男ねぇ」と言うシーンがあるんだけど、畑で野菜を育て、山で山菜を摘み、米を研ぎ、梅を漬ける、そんな姿がいちいち様になる
素朴なストーリーの中に、ジュリーはスターだな、と圧倒的な存在感と華を感じさせる映画でもありました
映画に流れる静かな時間
旬の食材と向き合う、丹精を込めて料理を作る、季節の移ろいを眺める
水上勉がそこにいました。
画面には沢田研二さんもいて、土井善晴さんもいる。
犬もお通夜の訪問客も、現地の人びとだから、信州の風の匂いもするわけですね。
ゆっくりもう一度、観たい映画です。
92歳とは思えない奈良岡朋子さんの遺作となりました。
大女優の確かな演技が見れて良かったです。
水上勉さんは、紳士服のモデルをしていたこともあるイケメン。
自分の役を、美形スターの沢田研二さんが演じた事を、心のどこかで
喜んでいると思います。
70代男性版の『リトル・フォレスト』
ずっと気にしていた作品ですが、11月の大作の公開ラッシュに4週遅れでようやくの鑑賞です。
まずは何はさておき、予告編から目が釘付けになる土井先生監修の精進料理。子供には理解できないけど、大人になってみれば大枚叩いてでも食べてみたい料理のあれこれ。作品内でも真知子(松たか子)が完全に胃袋を掴まれていますが、さもありなんと言わざるを得ない説得力でお腹の鳴りが止まりません。そして、こんな調子が1年分続いては「リアル垂涎」しそうだと感じている中盤、物語は動き出します。
そもそも観る前に抱いていた本作への印象は『リトル・フォレスト 夏・秋(14)&冬・春(15)』ですが、概ね間違ってないと感じました。これらはまさに「死生観」のお話です。二つの作品の違いは単に主人公が「20代女性」か「70代男性」であり、若い時に思い悩む「生きる意味」と年齢を重ねて逃れようのない「死ぬということ」という、一見真逆の話のようでありつつ結局は生と死は表裏一体なことを「自然」と相対しながら気づいていく物語で、どの世代にもこういう生活に憧れる理由がまさに「生きている」「例外なく死ぬ」意味を直感的に感じられることが想像できるからなのだと思います。
一般論として、「死」には当然のようにネガティブな印象がありますが、劇中で亡くなり送られるある人物の「葬式」という儀式で、集う人たちが笑い合って故人にいて語らう様子を見ると、やはり重要なのは「生き方・生き様」なのだなと思いつつ、やはりツトム(沢田研二)が仕切る「通夜振る舞い」にまた涎が止まりません。あぁ、美味しいそう。。w
お腹は空いたけど心は満腹になりました
2022年映画館鑑賞69作品目
12月4日(日)フォーラム仙台
リピーター割引1100円
原作未読
監督と脚本は『ナビィの恋』の中江裕司
13年前に妻を亡くし長野の山奥で自給自足の生活をしている老作家の話
老作家は口減らしでまだ幼い頃に禅寺に預けられ13歳で脱走した
時折仕事で尋ねる女性編集者とは男女の関係になりつつあった
老作家は食生活の1年間をエッセイで書き記すことにした
地元には妻の母が一人暮らしをしている
ある日義弟夫婦に頼まれ義母を家を訪ねると義母は亡くなっていた
義母の葬儀は筋違いだが老作家の自宅で行われることになった
老作家は遺影も棺桶も地元業者に頼み女性編集者に助けられ料理を作り義理の弟夫婦が坊さんを呼んでないのでお経を読んだ
そのうえ遺骨も預かることになった
冒頭のジャズっぽい騒々しい音楽はいらない
車と自然の音だけで良かった
タイトル出しが好き
主人公が作家という設定を有効活用している
殆ど吠えない大人しい犬が愛らしい
一般的には室内で飼うタイプじゃないが豪雪地帯なら当然
馬鹿犬とも言われるが実際は賢そうでユーモラス
後ろ姿にも悲哀を感じた
いるといないとでは大きく違う
身勝手な義理の弟夫婦が面白い
かかあ天下なところも相まって
主人公が決して怒らずお人好しな点もなかなか
真知子が乗ってくる車が松本ナンバーから最後は横浜ナンバーなっている
芸が細かい
昼飯食べないで昼過ぎに鑑賞したので空腹感が半端なかった
小僧時代に禅寺で精進料理を覚えた作家のツトムに沢田研二
担当編集者の真知子に松たか子
ツトムの亡くなった妻の弟の妻・美香に西田尚美
ツトムの亡くなった妻の弟・隆に尾美としのり
チエの遺影を作成した写真屋に瀧川鯉八
ツトムが小僧時代にお世話になった禅寺の和尚の娘・文子に檀ふみ
チエの棺桶を作ってくれた大工に火野正平
ツトムの亡くなった妻の母・チエに奈良岡朋子
必見!仙人ジュリーの自給自足お料理教室!! 人はやがて対人関係を卒業し、自然と一つに...シニア版"リトル・フォレスト"映画
少年時代に京都の禅寺で精進料理の作り方を教わった著者が、記憶をもとに1年間に渡って身近な食材で作り続けた料理について綴ったクッキングブック兼味覚エッセイを原作とした自給自足の食生活映画。
雪深い山荘で気ままに暮らす初老の男の一年の食事、それに連なる他者と自然との交流を通して研ぎ澄まされていく彼の死生観。
自分の身の周りの自然と向き合い、土と格闘しながら何か月も前に仕込んだその実りを喜びとともに口にする…そこにある些細な現実に一つ一つ感謝しながら生きる生活は素敵ですが、それと同時にほぼ自己完結して人と人との友愛・軋轢と対立する生き方でもあり、ただそこに在ろうとするのかそれとも我を撒き散らし合いながら爪痕を残すのか、その相克とバランスを問うた作品でもあると感じました。
何はともあれやぱりジュリーファンがその客層の大半ではあるかとは思いますし、その向きに決して不興を買うような内容でもないと思いますが、そうではない層にもそうではない層それぞれにそれぞれの形で刺さる作品ではないかと思います。
門前の小僧習わぬ経を読む
この作品が水上勉のエッセイが原作という理由だけで観に行きましたが、中々興味深い作品でした。
私の中での水上勉という存在は、高校時代(半世紀前)に日本映画の名作を見漁っていた頃の名作映画の原作家という印象が強く、それで原作も釣られて読み好きになった作家さんでした。
その水上さんが一時期でもこういう生活をしていた事に驚きましたが、大正・昭和前期生まれの人ってこういう根本的強さをまだ持った人が多くいたような気がします。
更に、少年時代の禅寺での修行によって“三つ子の魂百まで”ではないが、そこで習った“生きる”ことの原点を身に付けていた人だからこその達観なのでしょう。
私らの様な昭和中期以降生まれの人間には環境が揃わないと中々出来ない様な自給自足生活で、個人的には非常に羨ましかったです。
ただ、同じエッセイが原作の作品だと『日々是好日』の方が映画自体の面白さは感じたな。
人は達観した人生より、自分に近い未熟(不完全)からの成長の方が見たいですからね。
土を喰らう 旬の膳の映画
水上勉の晩年に書かれた生活と旬の料理のエッセイ、を原作にし中江裕司監督と料理家土井善晴氏が脚本にしたフィクション
原作はずっと昔に読んだ記憶があるけれど、歳の離れた恋人で編集者の真知子(松たか子)とやり取りする物語は記憶にありません。
自然の光の中の撮影が美しく、旬の素材が土から芽吹く存在感が素晴らしい。
ちょっと暗い家の台所。昔あった土間にタイルの洗い場が懐かしい。自給自足の生活には土を流せる洗い場は必須。
とにかく旬のものを損うことなく食す膳がこの映画の魅力。
土に根ざした生活、自分のありのままに生きているツトム(沢田研二)は全てに達観している様に見える。
恋人?という設定の真知子を旬の美味いもの、本当の精進料理でもてなし自分の皿のものまで与える。
それを美味しそうに食べる真知子の姿にご満悦。
時にはマチコ、マチコと呼び手伝わせる。
自分との距離感がパートナー(伴侶)というよりも
愛犬のサンショとかぶって見える。
人恋しさもありマチコと共に生活するも家族ではなく、ただ時を過ごしているように見える。
ツトム自身が倒れ自分の健康が損なわれてからは
「独りで生まれて独りで死んでいく」と言う、このくだり。
世捨て人の義母の葬儀を取り仕切り、
やはり人は人と生きていることを感じたはずなのに…
迷惑をかけたくないという思いもあるだろうけれど
ちょっと最後が独善的に見えた。
「昔の人は旨いもん食ってたんだなあ」と言う火野正平が素直。
旬の料理で日本酒が飲みたくなる。
贅沢の極み
四季の移ろいと旬の物はなんと贅沢なものだろうか
もちろんそれだけの苦労はかかるわけだけれど、こんな生活が送れるなら悪くはないか
生きるという事は動く事、だから腹が減るし腹が減るから飯を食う
飯を食うとはすなわち生きる事で生きる事は死ぬ事
毎日死と隣り合わせだからこそ美味しくご飯を食べたいものだ
地に足のついた、土の匂いのする映画
生命が今まさにそこにあり、強くあり儚くもあり、といった情感に溢れていました。
丁寧に四季を追った美しい画も素晴らしい。
観終わってお腹がすいていたけれど、ちょっとメニューに妥協は出来ず(笑)
一つ、観た方にご意見お聞きしたいんですが、松たか子さんの手皿の所作って演出上の狙いなんでしょうかね?
あと犬が!
犬がもう可愛くて可愛くて。いいお芝居してます。ロケハン中についてきた、白馬在住の犬、だそうです。
全108件中、21~40件目を表示