あのことのレビュー・感想・評価
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正直、凄まじすぎて、きっつい内容に─
ありがちな、できちゃった話。それがこれまで以上に強烈でグロく、しかも男女の差というのも強烈に感じさせる、相当深い作品だったように思います。
正直、キツすぎて、何度歯を食いしばって手を握りしめたことか─。内容もさることながら、この女優、スゴすぎます。本当に演じているのか、本当に快楽や苦痛を与えられているのか・・・本当だったらやばいんですが、演じているだったらスゲぇと感嘆するしかありません。
決して見ていて気持ちの良い作品ではありませんが、見る価値はあるかと─。
若き日の過ち
2022年度ノーベル文学賞を受賞したフランス人作家
『アニー・エルノー』の小説〔事件〕を基にした、と
エンドロールで触れられる。
劇中の主人公は1940年の生まれとの設定で、
作家本人も同年生まれなことから、
おそらくは自身の若き日の実体験をもとに綴った
半自伝的作品であろうと察しは付く。
望まぬ妊娠をした若い大学生が
中絶をするための孤軍奮闘。
1960年代初頭のフランスは
人工妊娠中絶が違法とされていた時代。
ありがちな他のケースと同様、
主人公の『アンヌ(アナマリア・ヴァルトロメイ)』は文献を調べ、
独力で対処しようとするが、どれも有効には機能しない。
こんな時に相手の男性は頼りに成らぬのが世の常。
また、女子寮の親友達も、罪に問われる可能性を恐れ、
積極的には助力しようとはせず。
あまつさえ、妊娠の心配がないことを
都合よく利用しようとする輩も現れ・・・・。
もっとも彼は、
それなりの対価を払ってはくれるのだが。
直近のアメリカでの上・下院の中間選挙で争点の一つとなったほど、
人工妊娠中絶については今でも、各国で大きな論争の的。
とりわけ西洋の国々ではキリスト教的倫理観が絡んで来るので、
更に旗幟が鮮明になりがちな傾向。
〔17歳の瞳に映る世界(2020年)〕でも
同様のテーマが扱われ、
これはたまさか米国が舞台も、
二人の少女は親に知られることを恐れ、
また、自分達が済んでいる州は人工妊娠中絶が非合法なことから
認められている州迄移動し、処置を望む。
その経緯で、大人たちの搾取に合うのも
やはり同様の流れ。
古くからある、明快な是非を付け難い命題も、
少なくとも選択権お保証や
不当な行為が横行する可能性だけは排除すべきなのだろう。
とは言え本作での『アンヌ』の姿はあまりに痛々しく、
観ていて胃の腑をぎゅっと掴まれるような寒々しさを覚えるのも
また他方面の事実。
時代とは言え、女性が自身の道を選択するためには、
これほどの代償を支払わねばならぬのか、との。
他の方が書かれていないことを中心に&字幕の説明不足など
今年352本目(合計627本目/今月(2022年12月度)5本目)。
まず、この映画ですが、映倫のサイトを確認しましたが「R15」で正しいです(および、鑑賞したシアタス心斎橋でもR15扱いされている)。このサイトの表記漏れと思います。
さて、こちらの映画です。
一個人の行政書士合格者レベルの考え方と道徳観での見方です。
映画の内容そのものに関しては他の方が多く書かれている通りで他言を要さないし、それを同じこと書いても仕方がないのでそれはカットします。
確かに主人公のとった行動が許されないとかみっともないとか、そういう考え方はあろうかと思うし、その考え方も理解はできるし否定はしません。
ただ個人的には、「そこまで非難される案件か」というとそのようには考えられないというのが個人の見方です。なぜなら、「単純堕胎罪」(この映画で描かれているもの。便宜上、日本の名称。以下断らない限り同じ)は、その性質上、「望まない妊娠」で起きることはもちろんの通り、その性質上、「若者の軽はずみな行動で起きて、起してしまう」罪になるからです。また、女性「のみ」が客体(罪に問われる対象のこと)となるため、あまり厳密に罰すると男女同権の考え方では問題になってしまうこと、また、その性格上「道徳上おかれている類型」であるにすぎません(ほか、日本では同じような「道徳上おかれている罪」としては、礼拝所不敬罪など数個あげられます)。また、時代の背景上、国(ここでは、フランス)の宗教との考え方がどうしても干渉していたという考え方も可能です。
さらに進めると、「望まない妊娠か、若者の軽はずみな行動で起きた妊娠」に対して刑法(に相当するもの。以下同じ)で威嚇するのみで、国(行政)の保護(援助)制度がないか、少ないか(この映画の当時の時代のフランスなので、今ほどではないのでしょう)という中では、逆に「刑法で威嚇して、出産した直後にあやめてしまう」パターン、つまり、保護責任者遺棄致死等との比較考慮も論点になってきます。結局「母体にいる胎児」か、「生まれてきた(望んでいないない)子」をあやめるかという論点で、そこは日本でも「基本的には」よほどの事情がない限り後者のほうが非難程度は高い問題です。
しかも日本をはじめとして現在/当時のフランスその他でも、「刑法にも存在したし罪にも問われる」が、基本的には「道徳を乱す類型」として刑そのものが軽かった事情として、フランスでは「宗教の力が強かった」上に、さらに、「望まないか、若者の軽はずみな行動で起きた事情である」こと、さらに、このように「妊娠にいたった理由がよくわからない」事情で起きる出産はその性質上、「何らかの肉体的な問題を持った子」(表現をぼかしています)が起きる確率が高いことは明確に言うことができ、結局、「単純堕胎罪を厳格に適用して威嚇すること」と、「(そうした罪を明確に問わないことで結果的に起きる)福祉行政の充実のさせ方」(もちろん、当時のフランスなので十分ではなかったのは推知可能)との比較論になるため、いかんともしがたい論点もあります。
結局のところ長文になってしまうものの、上記のような論点があるため、「当時のフランスの福祉行政その他の水準で、明確な「被害者」がいるものでもない単純堕胎をどこまで問うのか」という複雑な議論(道徳や宗教論が入ってくる)になり、映画はその一つの考え方を示したに過ぎない、というのが個人の見方です。
…とはいえ、この映画、このような論点があることは明確なものの、実は変な減点材料もあったりします。ただ「フランス映画あるある」な「フランス映画でよくある、趣旨がよくわからない突如登場するマニアック過ぎるセリフ」の類で、すべて減点対象は下記の通りでそれほど大きくありません(補足は入れてます)。
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(減点0.3/一部のセリフが理解しがたい)
・ 「動詞の直説法現在の活用は言える?」→それぞれの動詞の活用を暗唱している部分
→ この映画でこれが出てくる(主人公は文学部の大学生の子)というのがとにかくわかりにくいです。「直説法」というのが日本の中高の英語では意識されないからです。要は平たくいえば「仮定表現(英語では、仮定法)など、特殊な表現以外の一般的な表現」、もっとわかりやすく言えば「中学2年までのすべての英語の表現」といった方がわかりやすいです。
ただ、日本で一般的に外国語として習う英語では、「法の概念」(ここでは、直説法、仮定法、接続法…等)が薄く、したがって「動詞の活用」という考え方もほぼ存在しない(基本的に、三人称単数に-sをつけるといった簡単なルールしか存在しない)ため、「主語ごとの動詞の活用」(1人称~3人称に、その単数複数で、合計6パターン存在する)という考え方が「存在しない」ためです(フランス語、スペイン語その他では普通に存在します)。
・ 「与格や主格が…」という部分(大学のセミナーの部分)
→ 英語ではこのような表現をしないのでわかりにくいですが、与格や主格などがある言語もあります(映画では特定できないが、わかりやすいのはドイツ語。ほか、ロシア語、ラテン語など)。
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すっげぇものを観せられた気がする。“あの”映像は一生目の裏に焼き付いて離れないだろう。もう一度観たいと思わないだろうけど、死ぬまで(あと20~30年位?)忘れられないと思う映画。
①終始一貫してアンヌの視点で語られるので、正直最初の四分の一ほどは少々かったるい。この歳になると女子大生の日常などには興味がない。それで⭐半分だけ減点。
しかし、時が進みアンヌも焦りだして決断・実行を迫られるようになってからは俄然スクリーンから目が離せなくなる。
②この映画は決してアンヌを非難し弾劾するのが本意な映画ではない。
中絶が犯罪だった1960年代のフランスでうっかり妊娠し挙げ句コッソリと中絶した女子大生の話に過ぎなければ、“今度からもうちょっと気いつけや”で終わる話だし。男にとってはそうでも女性にとってはそうではないだろうけども(考えてみれば重荷を背負わされるのは女性だけ、というのもジェンダーレスの現代から見れば不公平な話だ。)
③なのに、ああそれなのに、それなのに、男なのに、女性の生理もわからんのに、あまりの臨場感に、だんだんアンヌの後悔・絶望・誰かに助けて欲しいという渇望・勉強も手につかない焦り・何とかしなきゃという気持ち、そして決断、実行に対する不安・恐れにまるで自分のことのように同化していく。
そして、それと同時に、自分にも若いときに私生活や仕事で軽はずみな言動や行動、考えなしの言動や行動でドツボに落ち込んだり、にっちもさっちも行かなくなって、自分だけで或いは誰かに助けられて苦境を脱したことが同時に脳裏にフラッシュバックする。
そういう意味では人間が人生のどこかで遭遇し経験したことを共有できるユニバーサルな映画体験とも言えるだろう。
④堕胎が良い悪いという問題提起型映画でも、堕胎が犯罪だという法が正しいのかどうかを問う社会派映画でもない。もちろん映画を見終わった後でこの問題について考えたり誰かと議論するのは構わないけれど。
これはあくまで、原因はどうであれ人生における二者択一を迫られて今現在の自分の人生で大事だと思う方を選ばざるを得なかった人間の話。自分で選んだ道だから後悔はないだろうけど恐らくアンヌにとっては後々の人生でも忘れられない出来事だっだろう(だから原作者も自伝的小説にしたのだろうから)。
⑤命の重みという問題ももちろん出てくるだろうけれども、個人的には人の命と動物の命と植物の命と、命の重みにどう違いがあるの?という考え方の持ち主なので、ここではこれぐらいにとどめておきます。
⑥あそこまで突っ込んだ映像表現が出来たのも女性監督ゆえだろう。
トイレでの、降りてきた胎児(の形にもなっていないのかな?)を映したところは殆ど正視出来なかった。アンヌもすぐ目をそらしたので、あれ以上見なくて済んだが。へその緒をアンヌが自分で切れなくて友人に切って貰うところでは、切らされた友人も災難だなと気の毒になったけれど。
ニュースで時々報じられる一人で堕したり産んだりする女性は、あれを一人で行うわけで、ホント女性は大変というかスゴいなぁ、というのが正直な感想。
⑦アンヌの母親役がサンドリーヌ・ボネールだと後で知りました。映画では分からなかった。
モグリの堕胎医(というのかな)を演じたオバチャンは最初あまりに声が低くて男かと思ったくらい。若い時はシャネルのミューズに選ばれたくらいの人だったらしく、やはりここでも女性ってスゴいわ、と思わされる。
⑧アメリカで再び人工妊娠中絶(堕胎)の禁止が叫ばれるようになっている現在、結局罰せられるのは女性だけというこの問題、男としてもっと感心を持たなくてはいけないな、と少し思わされた。
望まぬ妊娠
倫理には強くないですが胸糞な殺人なのでしょう。
もしも性知識や人生経験の不足で、このような悲劇が起こるのであれば社会が我がこととして考えた方が良いと思います。
親のエゴで間違いを犯さない社会にしていきたいです。
先週アマプラで「Swallow スワロウ」、今日はオデレイ・ディワ...
中絶が禁止されていた当時のフランスを舞台に描かれる非常にスリリングでサスペンスフルな作品
個人的に優れたストーリーには優れた制約とタイムリミットが設定されてると思ってるんですが、その点で言うとこの「あのこと」はそのどちらも兼ね備えてる作品だと思いました。
まず制約に関しては当時のフランスにおいて中絶が禁止されていたという点、そしてタイムリミットに関しては中絶が出来る期間が限られているという点が、この作品のスリリングでサスペンスフルな雰囲気を作り上げていたように感じます。
ただ中絶という非常にセンシティブなテーマだったので見ていてとても複雑でした。
女性の人生という観点から言えばたしかに中絶という選択肢を奪うべきではないと思いますが、ただ生まれてくるはずの子供の権利はどうなんだろうって思ってしまいました。
最初から選択権すら与えられることなく堕胎をさせられてしまう胎児のことを考えると、やはり妊娠を望んでいないのであれば主人公はもう少し考えて行動をしなければいけなかったように感じました。
あとまさかあそこまでガッツリ中絶のシーンを描くと思ってなかったのでかなり衝撃的でした。
正義というナイフ
見終わったあと何とも言えない、ズッシリとした感じがお腹に残る映画でした。ある意味ホラー映画以上の怖さがありました。街並みの天気の良さと、映像の綺麗さと反してアンヌが何とも言えない表情をしているのが忘れられません。
最初はアンヌがただただ自分勝手で悪いやんと思いましたが、見ていくとそれ以外の事が見えてきた気がしました。アンヌや友達など誰にでも好奇心などあるし自分の知らない事えの好奇心は誰にだってある。それは男女関係なく。いや、それでもやる事はしかりしてやろうよとも思いましたが、見ていくうちに色々と感じ方が変わっていきました。
この映画はアンヌの視点で描かれているのでそう思ったのだとは思いますが、自分で選べない事や女性は子供が出来たら自分の事が出来なかったりするこの時代にたいしての怒りではないかと。もちろん子供を堕すと言う事簡単にしてはいけなし、そこで一つの命がなくなっているのでそんな簡単に言うなと思うのも凄くわかります。しかし、たまに正義や正解と言うナイフを突きつけて、がんじがらめにされてもう何も選べない状況を作り出している状況があるのも事実だと思います。
コロナの時代になって思ったのですが、もしコロナになったらどうする、誰かにうつして命を落としたらどうすると、ライブ、映画館、劇場、など命と言う言葉で動けなくされたあの時の気持ちになんか似ているなと。もちろん命は大事だし、それは誰もがわかっていますが、命を賭けて色々な事をやっている人達もいるのにと思ったあの感覚に似てると自分は感じました。
映画はアンヌの視点で描かれているので他の人の視点のどで見ればもちろん色々言いたい事があるのはわかりますし、アンヌの自業自得と言えばそうなのかも知れなませんが、自分は映画を観てそう感じました。
確かに今は子供はいらないけど、いつかは欲しい言う発言など言いたいことはありますが。
映画を観たあと帰ろうと思ったら丁度スラムダンクの公開日でみんなワクワクした顔とは真逆の顔で映画観を後にしました。
遠いようで近くにある痛みと傷み
主婦になる病
そう言い放ったアンヌの一言に
彼女の〝今〟が詰まっていたと思う。
だから中絶しようと思っている間に躊躇するような揺れ動く気持ちはなく、ミッションのように実に淡々と行動している。
邪魔する感情があるとしたら自分の肉体的な痛みと代金に対しての心配のみに見えるほど。
元をたどれば子供の父親に対する愛情がないスタート。
おそらくそれは相手も同じで…。
あぁ、こんな展開、、自分の娘とか友達の話だったらほんとに嫌だし悪夢みたいだなぁと思いつつ暗めのスクリーンをななめに観る。
予告で痛そうなシーンがあるのは知っていたが、カメラアングルが自分目線でなんども迫り〝それは気絶もんでしょー。いや、痛すぎ、怖すぎ〟で、結構厳しい。
思わず目をつぶってしまったり、胸苦しいような感覚になったが…すべて作り手の望むところなのだ。
しかし、1番辛くて怖かったのはアンヌでもなく、もちろん、観客でもなく……。
私の涙はじんわり溜まったまま落ちる元気もない。
ただ、ラスト辺りで、へその緒を自分できれないと口ばしるアンヌ。
あれ?!この場に及んで初めて一瞬の母性が働いたのかもしれないと感じた。
感じたかった…のかも知れないな。
正しくは。
担架で運ばれた病院でのアンヌは、薄い意識の中でも自ら選んだ中絶が、書類上で流産と処理されることを聞き逃さなかった。
カメラの効果発揮か。。。いつのまにかアンヌに気持ちを投影していて、彼女の安心を同時にこの胸で感じた時、ドキリとしてはっとした。
流産か中絶か…場合によっては罪になる時代のフランス。
しかもキャリアを積みたい彼女にはまさに紙一重の気がかり。
そして、その望まなかった妊娠はアンヌにしてみれば〝主婦になる病〟なのだから、まさに病からの解放。
そこで、私までもが解き放たれようとは。。。
理由により全ての中絶に頭から反対するわけではないのだが、アンヌに関しては、その成り行きから自業自得の要素が半分ととらえていた私が。
思わずため息みたいな呼吸が漏れた。
まんまとやられてしまった。
この作品、実話を設定にあてたそうだが、現代になり状況違えど、向き合うべき話という点で変わりないのだろう。
性教育は日本は海外より遅れていると昔から聞く。特に親子間では私も避けるパターンの話題だ。
知識も大事だし自分なりの考えを自覚するためにも必要とわかりつつ踏み込みにくいのは、これまでのタブーの蓄積がイメージを作り壊せないのもあるかもしれない。
ただ、どんなに準備があったとしても、女性の身体に起こり得ること。ついてまわるリスク、責任を考えれば、やっぱり置き去りにしてはいけない問題だ。
映画の描写的には、誰にでもおすすめできるわけではないが、世の中、いろいろ低年齢化がすすんでいるのも事実。
まわりの大人が、年頃になるこどもに伝える責任について考えるための一歩としては切実で大切な内容だった。
爽やかさはキャンパスの緑と青空のみで、ただただ汗をかき眉間にしわをよせ体力を消耗したが、アンヌの悲劇が痛みと傷を共にして学んでとメッセージを送ってくれている。
生々しい
自分のことは自分で決める
フランス映画って何度観ても倫理観とかイマイチぴったり来なくて共感しづらい…と思ってたのだが、この映画観てよく分かった。我々日本人はフランスの60年代を生きてるんだ。我々にとって現代のフランス人は未来人なんだ。そりゃ分かりっこないよ…倫理観とかこの映画とそっくりじゃん。
さて、映画としては主人公の不安感とか、追い詰められてどんどん視野が狭くなり判断力もなくなっていく感じなど、映像からも表現されてて差し迫った感じが、そしてあの瞬間が!コワい…
まんま撮してるじゃん…
「流産で」って台詞があんなにホッとするなんて思わなかったよ…
あんな頭良い子があんなになるんだから、自分のことは自分で決める!って女性が言うのはよく分かるよ…
あのことが引き起こす顛末
金獅子賞も納得の容赦のなさ。
望まれる妊娠、望まれない妊娠。同じ妊娠でも両者は両極端だ。例えば愛する人と結ばれて計画的にする妊娠は前者、レイプなど女性の思いもよらない妊娠は後者だろう。つまりはどっちに分類されるかは女性の心境によるということ。
妊娠した子供を産むか産まないか。一部の国を除けば、大抵の国では女性の意思が尊重される。
キリスト教圏ではない日本では1948年ごろから人工中絶が法的に認められていた。しかし、カトリックが多いフランスでは1975年まで合法化されていなかった。
1940年生まれの主人公アンヌの生きた時代はまさに堕胎は犯罪行為。子供を神からの授かりものととらえるキリスト教圏の国では女性の意思よりも、理由はどうあれ授かった命を尊重するというのもわからなくもない。現にバチカン市国などはレイプにより出来た子の堕胎でさえも禁じている。確かにレイプでできた子であってもその子には罪はない。
女性の意思を尊重するか、子供の命を尊重するか、考えれば考えるほどわからなくなる。ただ、キリスト教的思想のない自分としてはやはり子供を産むか産まないかは最終的には女性の意思にゆだねられるべきだと思う。かつて女性は子供を産む機械なんてとんでも発言があったけど、やはり今までの社会は女性の意思を蔑ろにしてきた経緯があるので尚更そう思う。
また、女性の意思よりも子供の命を尊ぶというのなら、たとえばアンヌのような女性だけでなく社会人として働く女性が結婚して出産しても学業や仕事に支障がないようにシステムを整えるとか、出産育児による女性のハンディを一切なくしてから初めて言えることではないだろうか。
折しもアメリカでは国内で少数派のキリスト教原理主義者が判事の過半数を占める最高裁で人工中絶を禁ずる判決が出て国家を二分するほどの騒ぎになっている。いままで認めてきた中絶を禁止するという時代に逆行したものとして批判が多い。
確かに過激な原理主義者が言う命の尊さとかは聞いていて胡散臭い。何故なら彼らの中には中絶をする病院を脅迫したり放火したりして、人命軽視も甚だしい本末転倒行為を繰り返しているからだ。そんなにいうなら女性の望まない子供を全て引き取って育ててみろと言いたくもなる。
思わぬ妊娠に戸惑う主人公のアンヌ。彼女は優等生で進級を目指しており、将来の展望もあった。
しかし、未婚で若くしての妊娠というだけでなく、堕胎が罪となるという、女性には全く選択の余地がない当時の時代背景が彼女を徐々に苦しめてゆく。
そして妊娠期間が経過してゆくごとに望まない妊娠をしたアンヌにとって体内に異物が育ってゆくことの不安が見ている方にもひしひしと感じられた。
正直、最初はアンヌ役の女優さんがとても可愛らしい方で見とれてみていたら、その後の展開にただただ啞然とさせられた。間違っても女性の妊娠の不安や苦しみに対して分かった風なことを言えないほど痛々しい姿を見せつけられる。
特に自分で針を刺して堕胎しようとするシーンや闇堕胎を受けるシーン。そして極めつけは終盤のトイレのシーン。
まさかここまで容赦がない映画とは思ってなかったので、思いきり頭をガツンと殴られたような衝撃を受けた。
最近でも「朝が来る」や「十七歳の瞳に映る世界」など類似の作品はあったが、本作はまさに別格だった。
本作はR15だけど性教育の教材として中学生くらいから男子にも見せるべきではないだろうか。そうすれば軽はずみに女性としたいとは思えなくなると思う。でも衝撃的過ぎて女性に対して不能になるかも。
誰の中にもごく自然に存在する、欲望に忠実である事に対して、しばしば...
全編ほぼクローズアップショット
【主人公の女子大学生の視点で描いた圧倒的臨場感、妊娠が進むに連れて作品への半端ない没入感を味わった作品。”痛かった、不安だった。それでも私は未来が欲しかった・・。”手に汗を握りながら観た作品である。】
ー 冒頭は、”避妊しないから妊娠したんだろう!”と思いながら観ていたが、女性にも当たり前だが性欲はあるし、(だから、避妊具や薬が開発されてきた。)アンヌ(アナマリア・バルトロメイ)だけの責任じゃないよな、と考え直して鑑賞続行。
1960年代のフランスって、中絶が違法とされていた事も、初めて知った。
私は中絶は幾つかの条件を付けて”是”とする考えを持っている。
何故なら、罪なき命を亡くする行為には違いないが、望まない妊娠をして未来が変わってしまった女性達が現在、特に過去も含めて世界には、多数いるからである。今作でも言及されているが、無理な中絶をして、死に至ったり、生まれた子を遺棄したり・・。ー
◆感想
・アンヌを演じたアナマリア・バルトロメイの強い意志を感じる大きな眼とその目力が印象的である。美しく、白い肌も勿論であるが・・。
今作では、彼女の眼と目力に強く引き込まれた。
・アンヌが子を身籠った事が分かるシーンから、第一週~第一二週と章立てで物語は進む。
ー この構成が絶妙である。いつの間にか、アンヌが一人追い込まれて行く姿が、自分の心と被って行く・・。早く、早く何とかしないと・・。焦燥感が半端ない・・。-
・普通は、中絶シーンがある映画は、相手の男が付き添ったりするものだが、今作では父親の若き男は、当てにならず友もあてにはならない・・。時代的背景があるのだろうが、アンヌは正に孤立無援状態になっていくのである。
ー 故に、夢見る教師になるための勉強も疎かになっていく・・。見ていて、辛い。ー
■壮絶なのは、アンヌが自ら子を堕胎しようとするシーンである。
私は男なので良く分からないが、物凄く痛そうである。”除菌とか、そんなので、良いのか・・、”と心配してしまったし、闇の堕胎業の女性の部屋でのシーンも、物凄く痛そうである。傷みゆえに声を上げると、睨みつける堕胎業の女性の冷酷な目。
ビックリしたのは、彼女がトイレで子を堕胎するシーンである。
もう、痛そうで、可哀想で・・。手に汗を握りながら観ていたよ・・、自分がアンヌになったかのように・・。
それにしても、アンヌのど根性と、アンヌを演じたアナマリア・バルトロメイの覚悟を決めた姿は凄かった・・。
<ご存じの通り、今作は今年のノーベル文学賞の受賞が決まった、アニー・エルノーが、自身の中絶体験を題材にした私小説「事件」の映画化作品である。
中絶が違法とされた時代に、アンヌが、自由で自ら望んだ未来を手に入れるために命懸けで奔走し、独り孤独と恐怖と焦燥を抱えながら、突き進む姿を、アンヌの視点で赤裸々に描いた作品。
映画を観ていてその世界に没入する事は良くあるが、異性の視点でここまで我が事ながらの様に没入して観た作品は、初めてである。>
『これ、中2の姪に見せたいけど レイティングで引っかかったかな?...
『これ、中2の姪に見せたいけど
レイティングで引っかかったかな?』
と思って調べたら
誰でも見られる映画だったと知ってびっくり
中高生とかの性教育の題材として使ったら
真剣に受け止めて色々考えてくれそうな気がする
そういう意味で星4つ
12月9日追記
いつの間にか映画.com内のこの映画の表示が
G から 15+ に変わってました。
こっそり(?)訂正した模様。
やはりそうでしたか。
「3週目」「4週目」・・・
「3週目」「4週目」・・・と徐々に焦りを募らせるアンヌ(アナマリア・バルトロメイ)の心境を否が応でもキリキリ感じつつ、さらにあくまで(当時のフランスでは)刑法に反する「堕胎」ではなく「流産」するために危険を冒す「肉体的ダメージ」シーンに身体を強張らせ、演者と一緒になって身悶えながら観るという、土曜の朝8時10分から観るにはかなりヘビーな作品でしたが、こういう映画は「特に男性(である私)」こそ少しでも知るために「きちんと向き合うべき」作品だと思います。
医師ですら「選択肢はない」「諦めなさい」「巻き込まないでくれ」と取り合わず、親友のように付き合っていた女友達でさえ「自分事」のように考えられず距離を取り、さらには役に立たないばかりか弱みに付け込むような男性陣など、四面楚歌の中で時間だけが刻々と過ぎていき、そして徐々に変化していく自分の身体。その時間経過と状況変化を表現するシンプルながら見事に効果的な劇伴も、アンヌの焦りが観ている我々にシンクロしてくるようでとてもしんどくなります。(褒めています)
「妊娠中絶」、そもそも日本では表立って議論に挙げられることが目立つことはないですが(と言うか、私に届いていない、見つけようとしていないだけかもしれませんが)、「胎児の命・人権」という倫理のために女性だけが犠牲になること自体、そもそも倫理に反するとも考えられると思いつつ、まずは「知り」そして「考え」なければならないと、まことに当然で「超がつくほど」基本的なことを改めて考える一作でした。
「妊娠してます・・・」、「不公平!」これ一番言いたかった事かも
女性が人生で成功するのに多くの規制があった時代において、妊娠するという事はとてつもなく大きなハンデであったというのは理解できるが、その可能性をわかった上での行為であり、皆リスクを考え自制しているわけなので主人公には同情する事ができず、割と冷めた目で観てしまった。
避妊しなくても良い状態になり男友達とすぐに性交渉を持つ自由さは逆にリアリティがあってフランスっぽいと思った。
女性作家の原作で女性監督の演出だからでは無いと思うが、出てくる男達も皆容赦なく身勝手で情けなく描かれているのも良い。
3人組の一人の友達が経験済みだと告白した事で、一番遊んでそうな友達が実は一番保守的で奥手だと言うことがわかり、目の前で実演して見せたことへの滑稽さが後になりジワジワと際立ってくるという見せ方は面白かった。
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