劇場公開日 2021年11月19日

「心を締めつけられる映画だった」パワー・オブ・ザ・ドッグ 耶馬英彦さんの映画レビュー(感想・評価)

4.0心を締めつけられる映画だった

2021年11月23日
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鑑賞方法:映画館

 本作品でベネディクト・カンバーバッチが演じたフィル・バーバンクは「本物の男」という言葉を使った。しかし多分「本物の男」は「本物の男」という言葉は使わないと思う。「本物の男」には「本物の男」という概念がないからだ。

 主人公フィルはエール大学を卒業した秀才だが、牧場経営者として汗臭いカウボーイの仕事を率先して行なっている。弟のジョージは管理が仕事で、兄弟でそこそこ上手くやっている。
 フィルは秀才であるが故に、強さや勇敢さに憧れている。しかし彼にできるのは勇敢なフリだけだ。本当は臆病で繊細な人間である。粗野な振舞いや乱暴な言葉遣いは、弱さを見せないための精一杯の自己演出なのだ。
 彼が出逢った「本物の男」ヘンリーは、彼の最初で最後の男だった。フィルはそれ以来、ヘンリーの面影が頭から離れない。それはある意味「乙女心」かもしれない。フィルは自分の中の「乙女心」を隠し、無慈悲で冷酷な人間を演じる。知性的な人間が反知性的な人間のフリをすることは可能である。逆は不可能だ。フィルは自分の中の二面性に引き裂かれそうになりながら、あくまでも豪胆さを演じ続ける。この複雑な役柄をカンバーバッチはいとも容易く演じてみせた。凄い演技力だと思う。

 不幸のはじまりは弟のジョージが未亡人ローズと結婚したことである。ローズはアル中だが性根は腐っていない。気のいいジョージはローズを救い出したかったのだ。そして第二の主人公とも言うべきローズの息子ピーター。医学生でひょろっとしたピーターは、外見からはいかにも弱そうに見えるが、夏休みにフィルの牧場に来たとき、その本当の姿を見せる。
 タイトルの「パワー・オブ・ザ・ドッグ」は解釈がいろいろあるだろうが、フィルとピーターの会話の中で言われるのは、岩山が犬に見えるという話だ。フィルにとっては岩山が犬に見えるのが「本物の男」だ。フィルは犬に見えるまでに長い時間を要したが、ピーターは初見で見えてしまう。フィルが驚いたのはこれだけではない。ピーターの生命に対する無慈悲にも驚く。もしかしたらピーターこそ「本物の男」なのか。

 一方のピーターは母ローズに向かって「ボクがママを守る」と約束する。フィルはローズを依存症呼ばわりし、人格を否定する。フィルはママの敵だ。ピーターは馬に乗れるようになると単身で岩山に入り、死んだ野牛の皮膚を採取する。野牛の死因は炭疽菌だ。医学生のピーターにはすぐに解る。
 ピーターはフィルと違って能書きを言わない。話すのは事実だけだ。フィルを真っ直ぐに見つめる眼の力強さは、平凡な男のそれではない。いつの間にかピーターはフィルに対して心理的に優位に立っている。フィルは微かな怯えを覚えるとともに、心の奥底にしまってあった「乙女心」がうごめくのを感じる。

 本作品は広大な大牧場と牧場主の大邸宅を舞台にしているが、どちらかと言えば自然と人間の関わりよりも、人間同士の関わりあいを表現する心理劇だ。主人公フィルの心の揺れを全身で表現したカンバーバッチはやはり大したものである。観ているこちらの心も揺れっぱなしで、あっという間に終わってしまった。「本物の男」に憧れたフィルと、そんな概念を持ったこともないピーター。心を締めつけられる映画だった。

耶馬英彦
talismanさんのコメント
2021年11月23日

レビューに大変に共感いたしました。同感する箇所がとても多く嬉しかったです。

talisman