記憶の戦争のレビュー・感想・評価
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女性監督、女性撮影監督が撮ったことの意味。掘り下げは足りないけれど...
女性監督、女性撮影監督が撮ったことの意味。掘り下げは足りないけれど、画期的な映画。韓国のウヨを見て複雑な気持ちだった。
日本人がしていたこと
暴力の連鎖ということを考えてしまった。
日本が中国、朝鮮半島でしていたこと。
植民地支配下での暴力。
なぜ韓国がベトナム戦争に参戦したのかが、よくわからないが、元兵士たちは国家に動員されて戦ったと言っていた。
憲法九条がなければ、日本人も海外派兵先でこんなことをさせられるのかもしれない。
ベトナムへ何しに行ってたの、韓国軍さん?
要は面倒臭いからまとめて始末したって話よね。自国の民間人さえ大量虐殺する国ですから、他国の人民ことなんて考えてませんわ。
ベトナム戦争における韓国軍の行いについて会場でアンケートがあったが、回答していた1/4〜1/3の韓国人が知らなかったに票を入れていたのが驚き。日本の教科書について散々文句垂れるくせに何だよ。
反省の無くして真の発展・未来は無いっすよ〜。
平成天皇の戦地行脚の意味
瀬戸内寂聴さんが亡くなった。波乱万丈の人生を送った人だが、生涯を通じて、一貫して反戦を訴え続けた人でもあった。
個人が他人を虐殺すると、どの共同体でも犯罪になるが、戦争で他国の人間を虐殺すると、どの共同体でも英雄になる。つまり戦争は個人の残虐行為にお墨付きを与えることなのだ。愚かとしか言いようがないが、それが国家という共同幻想の本質だ。
国家主義は、国家が個人に優先し、個人は国家に従属して国家を褒め称え続けなければならないという考え方だ。北朝鮮の国民が常に独裁者を褒め称えているのと同じだ。
縫い目ひとつ変わらぬ同じ軍服を着せた兵隊に隊列を組ませ、一糸乱れぬ行進をさせる。指導者はそれを美しいと評価し、忠誠心の現れだと悦に入る。アベシンゾーが「美しい国」とするのがそういう光景だ。気持ち悪いとしか言いようがない。トリモロスとか言われても困るのだ。
本作品はベトナム戦争で韓国軍人に虐殺された家族の生き残りの女性が、謝罪を求めて韓国政府を訴える話である。従軍慰安婦が日本を訴えたのと同じ構図だ。だから賢い韓国人はベトナム女性を支援する。しかし頭の硬直した韓国軍人は、一切の虐殺を認めない。日本の国家主義者たちが従軍慰安婦問題や南京大虐殺を認めないのと同じ精神性である。
大切なのは寂聴さんが訴え続けた通り、戦争をしないことだ。タンおばさんの悲劇を二度と繰り返さないことだ。そのために過去を反省する。被害を訴え続ける。謝ったから、補償したからもういいだろうというのは間違っている。タンおばさんは補償なんかいらない、金も欲しくないと言う。欲しいのは謝罪と反省だ。反省し続ける気持ちがなくなったら、人間はまた戦争をする。
日本軍が朝鮮半島や中国、東南アジアで何をしたか、それを反省し続けることが、戦争で亡くなった人への鎮魂であり、反戦の決意である。平成天皇の明仁が戦地を巡って、頭を下げ続けたのも同じ理由だ。日本国憲法によって日本国および日本国民統合の象徴と位置づけられた天皇が、各地を訪れて頭を下げることが、現地の人々や各国の政府にとってどれだけ大きな意味を持っていたか、それを知らないのは当の日本国民だけである。
日本国民が平成天皇の戦地行脚の意味を知らないのは、報道がきちんと説明しないからだ。説明しないように圧力がかかったのかもしれない。天皇は政治的な発言をしてはならないとされているから、どこへ行ってもただ頭を下げるだけだったが、どんな思いでそうしたのか、マスコミはちゃんと伝えるべきだと思う。
平成天皇の「お言葉」の中で「先の大戦」という言葉が多く使われていたことは、割と多くの国民の記憶にあると思う。戦争に対する反省と、戦争で亡くなった人を悼む気持ちが伝わってきたが、感受性が欠如した人には何も伝わらなかったと思う。寂聴さんの言葉も、平成天皇の思いも、結局は国民に伝わっていないのだ。もし伝わっていたら、先の総選挙で自民党が大勝することはなかったはずだ。日本に未来はない。
社会運動としての映画
ベトナム戦争時の韓国軍による住民虐殺の犠牲者が、その被害の様相を語る映画である。
問題提起の映画ではない。退役軍人の男性も時々登場し、自分たちの従軍は、その後の韓国の経済発展に繋がったと誇らかに語っている。しかし、ベトナム人犠牲者と韓国の元軍人の視点が論争的に提示されることはない。住民虐殺は韓国政府に責任があるのか、一部の「不良」兵士の暴走なのかという問題も掘り下げられるわけでもない。何より、韓国軍による住民虐殺の歴史は、韓国の歴史の中でどの様な意義を持つのか?という、韓国社会にとって重要なテーマが不在である。
しかし、この映画は、ベトナム人被害者が韓国人に向かって被害を語るという〈現実〉を生み出した。この映画には、新しい〈現実〉が生まれる瞬間の瑞々しさがあった。その〈現実〉は、韓国人製作者達の真摯な聞く姿勢がベトナム人被害者の戸惑いや恐怖を取り払ったからこそ生まれたのであろと感じられた。啓発的なドキュメンタリー映画ではなく、新しい〈現実〉を作る社会運動的な性格を持った映画だと思う。
被害者に寄り添う韓国人監督の姿は、昔見た「ナヌムの家」を思い出させた。日本国内の慰安婦問題のように無惨な道を辿らないことを、勝手ながら願う。
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