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「歌うことの必然性を感じない」ディア・エヴァン・ハンセン 津次郎さんの映画レビュー(感想・評価)

3.5歌うことの必然性を感じない

2022年4月9日
PCから投稿

チョボスキーの新作だ!と思って見たがミュージカルだった。が、歌いっ放しではなく要所で歌になる。

概説に「ララランドの音楽チームが贈る感涙ミュージカルを映画化」と書いてあったが、確かにララランドの歌:会話比率に近い。

ロビンウィリアムズ主演映画にWorld's Greatest Dad(2009)というのがあった。
自慰中に窒息してなくなった息子が、実情を知らない者に勘違いされ、感受性豊かな文学青年の自死として英雄視される。
父親(ウィリアムズ)は自発窒息(窒息プレイ)に失敗して死んだアホな息子が人々から追慕されていることで、本当のことを言うことができないまま欺瞞をつづける──という話。

①まったくそんな人間じゃなかったのに、死後、ひょんな手違いから「素晴らしい人物だった」と偲ばれる。

②真実を知る者が、ほんとうのことを言い出せないまま、むしろ世間がつくったニセの故人を裏付けor肉付けしてしまう。

①②がこの映画にもあった。

チョボスキーの過去作ウォールフラワーは自身が書いた小説をじぶんで監督した監督作品だった。マルチタレントだが出自は脚本家である。
ウォールフラワーは自身の経験に脚色を加えたもので半自伝といえる。プロットを簡単に言うと友人の自殺からの再生。

本作はそのプロットに①②を加えたもの──と言えるが、じっさいにはエヴァンとコナーは友人ではない。が、映画はウォールフラワーを原点とするチョボスキーらしさが濃厚だった。

ただし、映画の元ネタである同名舞台(ミュージカル)にチョボスキーは関わっていない。おそらく自分のペーソスにきわめて近い舞台劇にチョボスキーのアンテナが共鳴した結果の映画化だと思われる。

エヴァンは内向的だが感受性ゆたかな青年で、それはウォールフラワーのチャーリーに重なる。
さらにエイスグレイド/僕とアール~/スイート17モンスター/ハーフオブイット/ブックスマート・・・等々の主人公の基礎属性にも重なる。近年のアメリカ学園映画の主人公はみんな陰キャで、それはとうぜん学校生活に難儀をかんじている少年少女たちを勇気づけるためにそうなっている。のだろう。
チョボスキーは自身の体験から信念をもってSuicide Preventionの目的をもつ創作物を取り上げているのだ──と思った。

また映画の要素にエヴァン家とゾーイ家の貧富差がある。結果、親たちには確執が生じる。物語の貧富は世界が甘くなりすぎないように引き戻す──映画のリアリティをつかさどっていた。

ところでチョボスキーは天才だと思う。ウォールフラワーもワンダーもIMDB値が8超の傑作、世間的にも才腕は知られている。が、これは評価をおとした。IMDB値も6.1、TomatoMeter(批評家評)にいたっては29%という低評価になっていた。

一般のウケはまあまあ。どちらかと言えば悪くない。が、批評家側のコンセンサスを著しく落としている。

で、批評家たちの指摘する問題点を簡単に言うと、同名舞台劇(ミュージカル)では、さほど悪意的に見えないエヴァンの②、すなわち嘘の塗り固めが、映画ではすごく卑劣に見えていること。
もちろんRotten Tomatoes内の批評家の言い分はそれだけではないが、その指摘がけっこうあったと思う。

たしかに、なかなか集金されない「コナープロジェクト」に焦ったアラナが(ニセの)遺言を無許可でアップしてしまうところ──ぜんぶウソと知っている観衆としては「見ちゃいられん」という気分になる。

じぶんは陰キャなので、いったんコナーを友人だと言ってしまったエヴァンが、前言撤回できなくなる事態に陥ってしまうのは、よくわかる。
かれはコナーを友人だと言ったことで、はじめて人/学校に受け容れられたわけだから、なおさら後戻りが辛くなってしまったのだ。

その構造はよく解るものの、舞台とちがって映画では、彼のウソと優柔不断がやや醜悪に見えてしまったのは否めない。

しかしこの映画のパラダイムシフトは①がくつがえされるところ。コナーはほんとはそんなにわるいやつじゃなかった。──誰ともうまくつきあえない。エヴァンの同類、いやむしろエヴァンの分身だった。それによって映画は心象を取り戻す。

だがエヴァン役のベンプラット。堪能な俳優なのは一目瞭然だが精神的な弱さをうったえる外観としては不利だったかもしれない。もちろん舞台ならば彼の年齢28はまったく問題にならないだろう。舞台なら還暦でも芳年を演じることがあるわけだし。

しかし映画は舞台より近い視界であって、思えばウォールフラワーがわたしの心に沁みたのは、いつもなんか寂しそうなローガンラーマンの外観も大きな要素だった──と思うのだ。映画のばあい、演技よりも外観や雰囲気に比重することがある。

この映画化で舞台「ディア・エヴァン・ハンセン」の主役=ベンプラットをそのまま映画の主役に据えている。
チョボスキーは天才ゆえ、おそらく、それ以上のキャスティングはなかったにちがいないが、学園ものらしからぬ違和があったのは確かだった。

RottenTomatoes内の批評家も数人がベンプラットが学生に見えないことを指摘していたが、さすが外国で、それは国内のレビューよりもずっと少なかったことは言っておきたい。多様性というものはときとして映画の中ではなく、わたしあなたのリテラシーの中にある。──という話。

個人的にはベンプラットは適役とみたがエヴァンのウソはやりすぎだったと思う。また、じぶんは極東の田舎の百姓なので、しょうじきなところ。これミュージカルでなくていんじゃね。とは思った。

映画内の歌も歌い手も、最高クオリティだが、そもそも歌うひつようあるんだろうか。ふつうの映画だったらさらによかった──と思ってしまった。
とくに母子の和解シーン。あの台詞歌にするひつようあるんだろうか。──けっこうはっきりした違和を感じた。

じぶんはヴォネガットの愛読者だがあっちじゃそんなに若年で猫のゆりかごなんか読むんだろうか。と思った。また役者ではエイミーアダムスが(ものすごく)じょうずだった。

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津次郎