「〈狂っている〉のは、どちらか?」グレタ ひとりぼっちの挑戦 taroさんの映画レビュー(感想・評価)
〈狂っている〉のは、どちらか?
気候変動の危機を伝える番組を学校で見て衝撃を受け、何日も言葉を失い、学校を休み、ストライキを始め、やがて国際会議などで必死に危機を訴えるようになるグレタさん。そのグレタさんに「世界の複雑さを学んだ方が良い」と威厳と余裕を持って応えるプーチン大統領。恐らく私たちのほとんどは、両者の間のどこか、あるはプーチン側の場所に立っているであろう。
気候変動の報道を見ると「ヤバい」と思いながら数分後には忘れている。国内あるいは国際の場で様々な利害関係を調整しながら〝出来る範囲〟で二酸化炭素の削減を図る様子を眺めて、思考を停止する。グレタさんは、どんなに自分がもてはやされ、国際会議の場に招かれて怒りを表明しても、この〝出来る範囲〟を出ようとしない各国のリーダーに絶望し怒っている。
私たちは気候変動を心配しても、政治のリーダーに怒りをぶつけたり、自分の生活を大幅に変えたりはしない。グレタさんの怒りが「正気の沙汰」ではないのだろうか?怒りまくるグレタさんが「正気」で、気候変動の事実を知っていても平常心でいられる私たちが〈狂っている〉のだろうか?放射能を心配するあまり南米に移住しようとする男性が周りに狂人扱いされ、最後は病院に入れられてしまう黒澤明監督の映画「生き物の記録」を思い出した。
この映画は、監督が偶然グレタさんの両親の知り合いだったことで、無名のグレタさんが一人で道端に「気候のためのストライキ」というプラカードを首から下げて座り込む姿を捉えている。アスペルガーの症状ゆえ、学校では孤独だったと語られるが、道端に一人で座り込む姿も孤独そのものである。しかし、グレタさんに話し掛ける人や一緒に座り込む人々が現れる。そして、たちまち大きな運動となって行く。グレタさんの怒りこそが「正気」と共感する人がたくさんいたのである。
「怒り」は、日本社会ではネガティブな感情として表に出さないことが礼儀のように思われている。また、「怒り」は自分の余裕のなさを見せているようで恥ずかしい。しかし、この感情なしには社会は変えられないのだろう。
その通りですね。
この映画を見ればわかるけど、グレタさん最初の方はあまり感情的ではなく冷静に話してるんですよ。でもお偉いさん方が動かないから次第に感情的になっていくのが垣間見えました。私としてはむしろ全員があれくらい感情的になって訴えても良いくらいだの問題だと思います。皆環境問題は他人事って感じで、まあそんなだったからここまで悪化してしまったんでしょうけど。