「シュルレアリスティックな美学に基づく、耽美&幻想のベルギー産ヴァンパイア・ホラー。」赤い唇 じゃいさんの映画レビュー(感想・評価)
シュルレアリスティックな美学に基づく、耽美&幻想のベルギー産ヴァンパイア・ホラー。
冒頭の列車が近づいてくるシーンから、列車内での新婚夫婦の愛の営みまで、徹底した対角線構図が続く。戸棚、手、顔の輪郭、あらゆるものが、仮想の対角線を構成する。
夫婦がホテルの窓越しに外を眺めるシーンからは一転して、構図感は水平・垂直構図に切り替わる。食堂で、夫婦は心理的距離を象徴するシンメトリーの檻に閉じ込められる。
レイアウトはミリ単位のバランスで構築され、二次元に還元したときすべての線と面が収まるべきところに収まっている。なんて厳密なカメラワークだろう。
映像のロジックを追っているだけで、視覚的興奮がとまらない。
撮影に一本筋が通っているだけで、映画が格段に見やすくなる恰好の見本だ。
画面に散りばめられた赤、赤、赤。
鉄道員の信号灯、車のバックライト、真っ赤なシャシー、死体搬送のシーツ。
バスローブ、口紅、マニキュア、ストール、シェイドに掛けられた薄衣。
「赤」を導入するために、あらゆるアイディアが導入される。
それ自体は一本前に観た「アントニオ・ダス・モルテス」と変わらないが、画面の強度・彩度を高めるために「赤」を用いていた前者と異なり、こちらの「赤」はほぼこの映画のすべてといっていい「象徴性」を帯びている。
そもそも「吸血鬼」というモチーフ自体が、象徴性の塊といってもよいものだ。
不死性と蘇えりの象徴。
非キリスト教土着信仰の象徴。
黒死病に代表される「疫病」の象徴。
処女喪失と性的快楽のエロティックな象徴。
理解不能な夜と闇の世界に対する「惧れ」の象徴。
吸血鬼の恐怖とは本来、即物的なゴアムーヴィーと結びつくものではない。
むしろ、人ならぬ存在が醸し出す「得体の知れないおかしさ」への違和感とその累積が「吸血鬼」の幻想を形作る。
『赤い唇』で行われているアプローチはまさにそういったものだ。
映画としては、仏ヌーヴェル・ヴァーグと伊ジャッロ映画の合いの子のような、不思議な立ち位置を示す。
全体の感覚はクロード・シャブロルやロベール・アンリコの犯罪映画や、ルイ・マルの幻想映画に近いテイストで、フランソワ・ド・ルーべのムーディーな音楽もその印象を強めるが、ホラー的要素はどちらかというとマリオ・バーヴァからの影響が強いのではないか。シャワールームでの秘書の惨死シーンはあからさまな『サイコ』からのイタダキだが(笑)。
絵画的な引用も、映画の幻想的なテイストを高めている。ホテルの回廊や外観、裸体の美女の配置には、ベルギーの誇るシュルレアリスム画家、ポール・デルヴォーの気配が濃厚に漂うし、そもそも監督のハリー・クーエル自身、本作をシュルレアリスム芸術と結び付けて語っているようだ。ブルージュの小舟でヴァレリーがステファンを後ろから抱きしめるシーンと、ホテルで伯爵夫人がステファンを後ろからなで回すシーンに共通する姿勢は、明らかにムンクの「吸血鬼」からの引用だろう。
本作の映像美の大半は、デルフィーヌ・セイリグの美を際立たせることにささげられている。
マルレーネ・ディートリッヒを模倣させたといわれる、作りこまれた「エリザベート・バートリ伯爵夫人」のアイコンと様式美は、視覚的衝撃に満ちた奇天烈なドレス群と合わせて、強烈な印象を残す。
彼女の登場は、常にドラマチックで、スキャンダラスだ。
計算し尽くされた間合いで画面の思いがけない場所に姿を見せ、アクロバティックで予測のつかない動きで観客を翻弄する。常に赤く燃え上がる唇。意味ありげに隠された首元。
魅力的な女優がいて、その女優が魅力的に撮られる。
それだけで映画は成立する。
そのことを『赤い唇』は教えてくれる。
物語の中核にあるのは、レズビアンの耽美的側面を、いかに吸血鬼伝説のエロティシズムと結びつけるかという実験だ。
英語題の『Daughters of Darkness』からわかるとおり、これは闇のなかで息づく女たちの映画なのだ(なお、一部で勘違いしている人がいるようだが、『赤い唇』は日本でつけた邦題ではなく、フランス語題『Les Lèvres rouges』の直訳である)。
よくエロ漫画には、女性は托卵のため性奴隷にする一方、男は単なる餌として扱うタイプの怪異が登場するが、本作での女吸血鬼の「連帯」はそれとは少し違う。作中の事例が少ないので確証はないものの、どうやらSisterhoodに近いような感覚で、「女しか眷属にできない」ような気配がある。だから吸血鬼の血脈は、女性間で継承される。女主人が死んだら、眷属に女主人の権利は受け継がれる。そういうことではないか。
もっとも重要なポイントは、本作において吸血鬼は一度も超常的な力を使わない、ということだ。
もちろん、ほのめかしはいくらでも出てくる。
長年生きているらしいほのめかし。欧州各地で若い女性を殺して血を抜いて回っているらしいほのめかし。陽の光を怖れているかのようなほのめかし。死体廃棄時の黒マント衣装のあからさまな隠喩。
しかし、作品内で実際に見せる「能力」は、しいていえば「チャーム(魅了)」の力くらいだし、それとてある種の洗脳だったり催眠だったりに過ぎないのかもしれない。
少なくとも、伯爵夫人にも秘書にも、牙は「ない」し、吸血中も「生えてこない」。
眷属の秘書は、カミソリが身体に刺さっただけで、あっけなく死ぬ。
伯爵夫人も、杭が胸に刺さったからといえばそれはそうなのだが、やはりあっけなく死ぬ。
移動には車を用いて、急ぐときには必死のパッチで走り、バトルでもふつうに武器を用いている。瞬間移動や身体強化みたいな魔法はまるで使えないらしい。
要するに、ハリー・クーメル監督は、ここで出てくる吸血鬼たちが「ただの人間」である可能性を敢えて残しているのだ。
ホテルのフロントマンがベルボーイ時代に観たのは「本当に伯爵夫人の母親だった」かもしれないし、彼女たちがずっと長く生きているような「言い方をしてみせている」だけかもしれない。
吸血鬼という幻想に、当の本人たちが囚われているだけの可能性だってあるのだ。
だから、本作の扱う恐怖は、よくあるような即物的なモンスター襲撃の恐怖、あるいは上位種であるヴァンパイアに対する本能的畏怖といったものではない。
むしろ「普通の人間と変わらないのに、本人たちが自分は普通ではないと考えているがゆえに言動が異常な人たちと一緒にいて感じる違和感」「あまりに美しく年齢不詳な人間に出会って、ふとこの人何百年も生きていたらどうしようとか思ってしまう瞬間」「自信満々で支配的に仕切る人間と話しているうちに先方のペースに巻き込まれてなんだか話がおかしくなってる怖さ」「好きだと思っていた人が唐突にだれだかわからなくなって赤の他人のように思える瞬間」といった、日常の対人関係のなかで感じる不安や奇妙な感覚を、集積し、抽出し、増幅させたものこそが、『赤い唇』のまとう恐怖の実体である。
ついでにいうと、本作で一番得体が知れないのは、むしろ新婚の夫ステファンのキャラクターかもしれない。なぜ、オッサンが「お母さま」なのか? 「お母さま」による躾けが完了しているとすれば本人にも同性愛傾向があるのか? むしろその後ろめたさが反転して性豪ぶりにつながっているのか? 彼の死体愛好とサディズム趣味の淵源はなんなのか? そもそも旅行の目的がスイスで結婚した新妻をイギリスの荘園でお披露目しに帰ることなのに、ここまで「お母さま」にビビってるとなると、このあと実際にどうお茶を濁すつもりだったのか?
いろいろな性倒錯と素性の曖昧さを抱えながら、唐突に訪れるマヌケな死によって、彼にまつわる謎はもろともすべて葬り去られてしまった。
まあ、あの「お母さま」に関しては、あまり真面目に考えるより、シュルレアリスティックな違和を生むための単なる「出オチ」と見たほうがいいのかもしれないけど。
そもそも伯爵夫人と秘書がどういう計画を練っていたのかにも、よくわからない部分がある。
秘書は「長く生きすぎている」ことを嘆いて「自由になりたい」という意志を表明するが、伯爵夫人は「私がいなければあなたはどうやってやっていくの?」みたいな答えを返している。
とすると、これって、単にヴァレリーを新たな眷属として仲間に引き込むという以外に、ヴァレリーにお付きの座を譲らせることで、イローナを「死なせてやり、その魂を自由にしてやる」ことが目的の「代替わり作戦」なのか。
結局、魯鈍で無能なイローナが、自分ですっころんで勝手にカミソリの上に倒れて死んじゃうので、これもなし崩しのまま終わってしまうのだが。
だいたいイローナさん、死ねないのが辛いみたいな口ぶりだったけど、びっくりするくらいさくっと死んでるじゃん、あんた(笑)。
イロジカルなのは、そこだけではない。
本作後半の「ゆるみ方」は、真面目に観ている人間ほど当惑するところだろう。
前半、あれだけ息を張り詰めて作っていたドラマが、秘書のイローナがヴァレリーの部屋に忍んでいくあたりから、どんどんチープに、適当に、B級のジャッロのノリで崩れてゆく。
あまりにマヌケなイローナの死と、ゴミのように玩弄される死体。
あまりにマヌケなステファンの死と、ゴミのように玩弄される死体。
あまりにマヌケな老刑事の死と、放置されたまま忘れられる死体。
あまりにマヌケな伯爵夫人の死と、漫画のように頭の悪い爆発オチ。
とくにステファンの顔を伯爵夫人がガラスボウルで必死に押してたら、真ん中からパカッと割れて、なぜか両腕のところで偶然手首が切れて、ってあたりの馬鹿笑いを誘うくだらなさは、明らかに「わざと」であり、意図的に仕掛けられたオフビート・ギャグだ。
せめて、ステファンを海に捨てたあと、ふたりで闇に消えるエンディングにしたところで一向に問題はなかったと思うのだが、あえておバカな方向で、伯爵夫人の神秘性を完膚なきまでにはぎ取ったうえでバタバタと幕を閉じる流れは、意地でもちゃんとは終わらせないぞとでも言いたげなくらい。これは、ある種の「含羞」の表出なのか? それともなけなしの道徳性(あるいは、なげやりな勧善懲悪)の発露なのだろうか?
いや別段無理くり擁護するつもりもないんだが、ウォーホルにしてもホドロフスキーにしても、凝ったアーティスティックな背景を持つ映画人ほどやりすぎのおバカネタに走る傾向はあるし、ブライアン・デ・パルマみたいに、映画をマトモに終わらせないことに命を賭ける歪んだユーモリストもいる。
僕個人は、ラストの串刺し&大爆発で、ピーター・ジャクスンの串刺し神父を観たときと同じくらい、ちゃんと大爆笑できたので、なんというかまあ、作品と相性が良かったということだろう。
そういや、このラストシーンって、ダリオ・アルジェントの『四匹の蠅』とよく似てるよなあ。でしょ?
どちらも1971年の映画で、『赤い唇』が同年5月のアメリカ公開、『四匹の蠅』は12月のイタリア公開。アルジェントが影響されたのか、それとも共通の霊感源があるのかはよくわかりませんが。