「ばらまかれた他人の写真を見ているよう」春原さんのうた 耶馬英彦さんの映画レビュー(感想・評価)
ばらまかれた他人の写真を見ているよう
平日の13時からの上映だというのに、ポレポレ東中野はかなり混んでいる。舞台挨拶が好きではない当方としては、まさか舞台挨拶付きの上映かと危惧したが、そうではなかった。ということは、作品自体に人気があるのだろうか。
それにしては解りづらい作品だ。恐らく書を嗜むヒロイン?が大きな書を書く場面以外は、極めて日常的なシーンが断片的に並べられる。距離感も時系列も凡そ不明だ。妙に間延びしたシーンの連続も気になる。不要なシーンをカットすれば、上映時間が半分になる映画だ。
全体的な印象で言えば、誰かの思い出の写真をばらまいてコラージュにしたようだ。理解できるのは写真の持ち主だけである。これを観客の前に投げ出されても、持ち主の思うようには理解されない。当方もよく解らなかったし、登場人物のうちで感情移入できる人はひとりもいなかった。
登場人物が芝居をしているように見えないほど日常的な表情や仕種をして台詞を話しているところはそれなりに評価できるが、考えてみればそんなことは役者なら当然のことである。肝腎なのはその表情や仕種や台詞が観客の心を揺さぶるかどうかだが、少なくとも当方は本作品に心を揺さぶられることはなかった。断っておくが、これは個人的な感想なので、当方の感受性を責めるのはお門違いである。
ぼんやりした喪失感があり、個人的な哀愁がある。思い出は残るが、思い出の持ち主が死んでしまえば、もう何も残らない。生きることは即ち失うことだ。人生のなんと虚しく、悲しいことだろう。
シェイクスピアではないが、そんなふうな人生観が薄っすらと感じられる映画ではある。文学作品だから、観た人それぞれの解釈があっていいとは思うが、せめて同じ向きの解釈がされるように作ってほしい。
あらゆる表現は他人に伝えるためにある。伝えるからには理解してもらえるように努力するのは当然のことである。映画監督は同時に映画の観客でなければならないのだ。ばらまかれた他人の写真を見ても、そこに感動はない。