地球交響曲 ガイアシンフォニー 第九番のレビュー・感想・評価
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第九とネアンデルタール人の祈り
懐かしの岐阜県図書館。
ここに多目的ホールがあることをずっと知らずに生きてきた、それくらい久しぶりに。
映画「地球交響曲 ガイアシンフォニー 第九番」の上映、やっと観れました。
龍村仁監督作、最後の作品。
時の流れは30年近く。
第一番から、かれこれ何作観たやら、いつも思い返していったい第何番を見逃したかすらわからなくなるけど、これが最後のメッセージと心して観させていただきました。
といっても、そこまで気合い入れたわけでなく、ふんわりリラックスして、ただただその世界へ。
もうとっくに時代は追いついて、ベートーベンが生涯に9曲の交響曲を編み出したのと同じ境地で作品を築かれたのだと。
締め括りにしては完璧すぎるお仕事、本当に素晴らしかったです。
平行して物語れる、考古学者のアイヌと沖縄の旅。
それは考古学では証せない、絶滅してしまったネアンデルタール人への想い。
石垣島の洞窟で発見された保存状態のよい、2万7千年前の白保人。
復顔模型の顔はどこかで見たことある風貌。
映画の中で、名前を付けるシーンでJINといってたのは監督の名前にちなんでだと思うけど、それはどう見ても葦船の石川仁の顔だった。
縄文の民俗芸能から、ホモサピエンスとの混血した名残を垣間見るかのように、言葉を持たず、唄や踊りや音楽に彩られた世界に生きていたネアンデルタール人の遺伝子を再確認し、残されたわたしたちの可能性を探る旅だった。
とにかく、どこからどう切り取っても、わたしたちは音楽から切り離せない生き物であり、ネアンデルタール人にしてもベートーベンにしても、音楽のその奥には、最終的に祈りがあるということ。
それが、どんな時代であろうと、現代の混沌とした世の中であろうと、変わらずその原点に触れることで、生きることにつながるであろうことを。
映画を見終わって会場を出ると、空がすごいことになってたよ。
第九番
龍村仁監督による渾身の作品。
地球と深く関わる人たちにフォーカスを当てたドキュメンタリーシリーズ。
今回は最終章と言われる第九番。
スタートは指揮者のコバケンこと、小林研一郎氏。
ピアノでベートーベンのことを語りながら、鍵盤で和音を鳴らしていくのですが、不覚にもこのシーンでいきなり涙が出てしまいました。
子供の頃にベートーベンの和音に初めて感動したことを、つい先ほどのことのように、ハッキリと覚えているようでした。その恍惚の表情に、思わずグッときてしまいました。
ベートーベンは、自分のルーツであり、目指すものでもあり、作曲を諦める理由でもあったそうです。
ある日のオーケストラの練習シーン。コバケンは楽団員にこう言います。
「あの時あの場所で聴いた時は、この部分は聴こえないくらいの音だった。それをいつか自分も表現してみたい、と思ってた。いま皆さんにやってもらいます。」
初心を忘れずに、純粋に突き進んできた人。
自分の思い描いたものを、大勢の能力を開花させながら表現していく。
マエストロという存在の特殊性に改めて驚かされました。
練習風景などの背景を知ることで、『第九』の聴こえ方が全く違うものになりました。
実は、他の2人を目当てで観に来たところが多かったのですが、コバケンさんのなんとも言えない人柄にやられたなぁー。
本庶先生の法然寺での墓参りのシーン、龍村の名の墓石が映ったのは、龍村監督と何か関係があったのでしょうか?
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