「人類に警鐘を鳴らすかと思いきや、結局ファインディング・ニモ」ジュラシック・ワールド 新たなる支配者 Naguyさんの映画レビュー(感想・評価)
人類に警鐘を鳴らすかと思いきや、結局ファインディング・ニモ
「ジュラシック・ワールド 新たなる支配者」(原題:Jurassic World: Dominion)。
本作の"見得"ともいうべき、「恐竜に襲われそうになった瞬間、さらに大きな恐竜がソレに噛み付くシーン」は、“いよっ、待ってました!”と大向うをかけるべきなのか…。
シリーズ6作目は、映画としての新規性はすでになく、“イベント映画”としての完成度を究めた。第5作の『炎の王国』で“映画が古典芸能になったこと”の証左に他ならないと書いたが、本作はその延長線上にある“スーパー歌舞伎”みたいなものである。
ストーリーは、前作から直接的につながっている。かつて“ジュラシック・パーク”と“ジュラシック・ワールド”があったイスラ・ヌブラル島が噴火で壊滅し、救出された恐竜たちが世界中へ解き放たれてしまった。そこらじゅうに“野良犬”ならぬ、“ノラ恐竜”が闊歩する世界。
もちろん保護区などが設けられたりしているが、恐竜の密猟者や闇マーケットが存在し、人類は恐竜との共存への解決策が見いだせずにいる。
ジュラシック・パーク創設に協力したロックウッドの亡き娘(シャーロット)から作られたクローンの少女“メイジー”がキーパーソンとなる。恐竜保護活動を続けるオーウェンとクレアは、メイジーとともに人里離れた山小屋に暮らしていたが、密猟者たちがヴェロキラプトルのブルーの子供“ベータ”の捕獲とともに、メイジーも誘拐してしまう。じつはメイジーとベータという2人の娘(!)にはDNA再生という共通の秘密があった。
サム・ニール、ローラ・ダーン、ジェフ・ゴールドブラムという第1シリーズのレジェンド博士たちが再登場するというのは、『スター・ウォーズ』のハリソン・フォードみたいなもの。第一作ファンへの同窓会である。まあいいけどね。
脚本的には、ジュラシック(パーク)シリーズの根幹にあたるDNA再生の技術背景の部分を展開していくところまでは評価できる。原子力開発になぞらえ、科学は自然をコントロールできるかが主題となる。ところがいつのまにか、親子の再会ストーリーにすり替えられて、ふわっとしたハッピーエンド。これは『ファインディング・ニモ』か。人類に都合のいい技術の登場が示唆されるだけで、何ら解決できない政治的な決着と同じく、人類への警鐘にもなっていない。
さらに観終わって気づくのは、映像的な見どころはすべて予告編に出てしまっていたこと。エンディングシーンまで予告映像にあったり。
さて。映画マニアにとって本作が面白味に掛けていても、シリーズに対する最大限のリスペクトはしなければならない。1993年の第一作は、VFXの革新的な進化における、映画史上の特筆すべきマイルストーンのひとつである。
それだけではない。どんな映画評でも表層的に“映像”だけが語られて終わるが、第一作は、dtsサウンドが初めて採用されたデジタルサラウンドの開拓者でもあった。サウンドトラック(映画音声)がフィルムの端に記録されていた当時にあって、そこに同期信号を仕込んで、CD-ROMで音声を再生するという画期的な上映システムはスピルバーグ監督の先見性に驚かされたものだ。オーディオマニア的には、デジタル技術でティラノサウルス・レックスの足音を5Hzという超低音で再現したことが印象深い。
本作をIMAXアスペクト3Dで観るのはもちろんとして、4DXだけでなく、DTS:Xシアターで観るのも一考の余地がある。
そんなジュラシック(パーク)シリーズも約30年。いちおうユニバーサルは“完結編”と宣伝しているが、おそらく「スティーヴン・スピルバーグが監修できる最終作」と言い換えても問題ないと思う。
“恐竜”や“お化け”が、子供向けの大事なネタであることは言うまでもなく、ティーンエイジャーが入れ替わるタイミングで、何もなかったかのように企画される“スパイダーマン(ソニー)”と“バットマン(ワーナー)”もしかり。実際、ユニバーサルは何度もミニオンと怪盗グルーの出会いをコスりつづけているし。
もちろん古典芸能は何度再演してもいい。本作が第1シリーズ(1993〜2001)から14年空けてから、第2シリーズ(2015〜2022)ができたわけだから、つぎは2035年頃、リブート作品で会いましょう。
(2022/7/29/グランドシネマサンシャイン/Screen12/j-17/IMAX2:1/字幕:戸田奈津子)