「作られた善意」英雄の証明 sankouさんの映画レビュー(感想・評価)
作られた善意
遠慮がちに人の良さそうな笑みを浮かべるラヒム。恋人のファルコンデも姉のマリも義兄のホセインも彼を笑顔で迎え入れるが、実は彼はある罪に問われ投獄されている身で、一時的に保釈され彼らに会いに来たのだった。
彼は友人と商売を始めるために融資を受けたのだが、友人が金を持ち逃げしてしまい、その借金をラヒムの元妻の父親であるバーラムが肩代わりする羽目になってしまった。
バーラムはラヒムが借金を完済するまでは訴えを取り消さないと頑なに主張している。
そんな折り、ファルコンデは道で金貨の入った鞄を拾う。この金貨を換金すれば借金を返せるのではないかと彼女はラヒムに相談する。
これは神がラヒムに与えた救いなのか。
しかし金貨を換金しても借金の金額には届かない。
罪の意識からか、ラヒムは鞄と金貨を持ち主に返すことをファルコンデに提案する。
ラヒムは刑務所にいるため、鞄はマリに預けられるのだが、程なくして持ち主の女性が現れ、無事に金貨は彼女の元に戻る。
するとこれが美談としてメディアにも大きく取り上げられることになる。
服役中で借金がありながら金貨に手をつけることなく持ち主に返したラヒムの行為は多くの人から支持され、やがて囚人を救うためのチャリティ協会まで動かすことになる。
ラヒムの元に多額の寄付が集まってくるのだが、それでも借金完済には足りない。
チャリティ協会のメンバーもバーラムに訴えを取り下げるように説得するのだが、彼はやはり頑なに完済が条件であることを譲らない。
バーラムはラヒムは当然のことをしただけだと主張し、彼を英雄視する声に疑問を投げ掛ける。さらに彼はラヒムをペテン師呼ばわりし、自分が悪徳債権者であるかのような印象を持たれていることへの不満も口にする。
確かにバーラムの言葉にも一理あると感じる部分はあった。
アスガー・ファルハディ監督の映画は分かり合えない人間同士の痛ましい姿を描いたものがとても多い。
そして観客が感情移入するのを意図的に阻害しているようにも感じる。
断片的な情報しか入って来ないために、バーラムが頑なにラヒムを拒否し続ける理由も分からないし、ラヒムに対しても彼が本当に潔白なのかどうか疑念を抱いてしまう。
これは作られた美談なのではないかと。
SNSではラヒムを称える意見がある一方で、これは刑務所側がイメージアップを謀るための陰謀だと誹謗する意見もある。
そしてSNSの書き込みの影響で、ラヒムは仕事探しにも難航してしまう。
審議会は彼が本当に持ち主に鞄を返したのか、その証拠の提出を求める。
彼は持ち主の女性にコンタクトを取ろうとするが、彼女は意図的に自分の痕跡を残さないようにしていたらしく、どれだけ探しても彼女を見つけることが出来ない。
そこでラヒムはひとつ嘘をついてしまうのだが、これが後々に彼の立場を危うくする。
ラヒムはファルコンデに持ち主役を演じてもらうように依頼する。
ファルコンデは言われた通りに持ち主役として証言するが、審議会は証拠不十分としてラヒムの正当性を認めない。
審議会の元にはラヒムが不利になるようなデータが送られていたのだ。
ラヒムは全てバーラムが自分を陥れようとしているのだと短気を起こして、彼の元に押し掛け暴力を振るってしまう。
その様子は彼の元妻によって録画されていた。
ファルコンデが間に入って取りなそうとするのだが、それによってラヒムが嘘をついていたこともばれてしまう。
彼はチャリティ協会からの信用も失ってしまう。
手の平を返したように彼を責める刑務所所長の姿もおぞましかった。
刑務所側もチャリティ協会も、自分たちの信用を回復するためにラヒムにバーラムに謝罪するように強く求める。
しかし名誉を傷つけられたラヒムは謝罪することが出来ない。
彼にも非はあるはずなのに、おそらく彼は自分が何故このような目に合わなければならないのかという被害者意識が強くなってしまっている。
そうなるとプライドが邪魔をして、彼は決して謝ろうとはしない。
大人になれない愚かな男の姿もファルハディ監督の作品では良く目にする。
結果的に動画は拡散され、ラヒムはさらに逆境に立たされる。
彼を待ち受ける運命は悲劇的なものでしかないのだが、この映画はどこで落としどころをつけるのだろうかと気になった。
チャリティ協会は寄付金をラヒムのために使うことを断念する。
ファルコンデは必死に協会を説得するが、チャリティ協会が寄付金をある死刑囚を救うために使うことを話すと、ラヒムはすんなりとそれを受け入れる。
やはり彼には良心があったのだ。
ファルコンデはラヒムには内緒で、彼が死刑囚を救うために寄付金を譲ったことにして欲しいと協会の会長に頼む。
するとまたしてもそれが美談として取り上げられてしまう。
刑務所側も今度こそ信用を回復するために、ラヒムの行為を大々的に世間にアピールしようとする。
ラヒムを無条件に支え続けたのはファルコンデと、彼の息子であるシアヴァシュだ。
シアヴァシュは吃音症でうまく自分の考えを伝えられない。
刑務所側はそこに目を付け、たどたどしくも父親の正当性を訴えるシアヴァシュの映像を公開すれば、きっと世間の同情を買うことが出来ると主張する。
しかしラヒムは息子が晒し者になることを許さなかった。
自分のプライドのためにバーラムを殴ったラヒムの行為は到底許されるものではないと思ったが、息子の名誉を守るために食い下がる彼の姿には心を打たれるものがあった。
このあたりの観客の心を揺さぶる展開は見事だと思った。
結果的にラヒムにとっては刑務所から抜け出せない悲劇的な結末になってしまうのだが、彼が最後に下した決断には救われる部分があった。
刑務所から仮出所するラヒムの姿で始まり、刑務所に戻るラヒムの姿で終わる映画の構図も巧みだと思った。
情報に踊らされる人々の愚かさと、SNSを使えば簡単に印象操作が出来てしまうという現代的な恐ろしさを感じさせる映画でもあった。