ニトラム NITRAMのレビュー・感想・評価
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歴史的なトラウマを丁寧に映画化しただけでもすごいと思うが、事件の...
歴史的なトラウマを丁寧に映画化しただけでもすごいと思うが、事件の複雑性をしっかり描いている。主人公の俳優の、発達障害や精神障害の演技も素晴らしかった。ピュアな感情や孤独、不器用さ、暴力マシンのように向かっていく恐ろしさ。父親を殴るところが実際は一番過酷な気がした。
パンフの小泉さんの言によれば、それでも事実とはかなり異なるとのこと。女性たちとの性的関係もあったなら、それも含めて描いてほしかった。虫の描写や、花火の表象も、重要だったのだろうと思われる。
実は、母親に最も共感できず、母親に問題があると感じたのは、パンフの信田さんとは異なる見解だった。ここまで共感能力のない人はない、のか、息子との関係に疲れ切ったのか。
ヘレンも実はかなりの特異な人である。
宮台さんのニトラム評は流石だと思います。
【男は何故、凶行に走ったのか。忌まわしき事件を基に、ケイレブ・ランドリー・ジョーンズが破滅の道を辿る男を繊細に演じている。観る側に”現代社会と、当時と何が違うのか”と重い問いかけをする作品でもある】
ー ケイレブ・ランドリー・ジョーンズは「バリー・シール/アメリカ」でヨレヨレの薬物中毒者を演じる姿を見てから、ほぼ観ている。
役柄は、大体がオカシナ男である。が、時に善性を持った男を演じる時もあった。「ニューヨーク 親切なロシア料理店」や「アウトポスト」などである。
私の中では、彼は名脇役という存在であった。
その彼が満を持しての主役である。
今作が、オーストラリアで1996年4月に起きた28歳の男による、無差別銃乱射事件(死者35人、負傷者23人)を基にした映画という部分が気になったが、同国出身のジャスティン・カーゼル監督の”劇中で二トラムが、簡単に銃を手に入れる最も不安なシーンを見て、世界中の人々に現状の危険を感じた貰いたかった。”と言うコメントを見て劇場へ足を運んだ。
監督曰く、”現地では、まだ傷は生々しく、話す事はタブー”とされているほど、凄惨な事件であったらしい。-
◆感想
・冒頭、ニトラムの少年時代、火遊びで火傷を負って、病院でインタビューを受けるシーンから映画は始まる。
- 彼の言葉を聞いていると、元々社会的不適合者の素質が内在している事が分かる。因みにニトラムという妙な名前は犯人である「MARTIN」の逆さま読みである。オープニングロールで題名が出た時に、もしかしたら・・、と思ったのが当たっていた。-
・成長したニトラムは職に就くわけでもなく、家でぶらぶらしている。自身の力で生きる事を望む父(けれども、内面は脆い)と、放任主義だが厳しき母との間で生きる。
- 彼は、両親の狭間で不通に生きる事に、悩み、苦しみ、苛立ちを感じている様を、ケイレブ・ランドリー・ジョーンズが、絶妙に演じている。汚い服を脱げと言われたら、パンツ一枚で食卓に着いたり・・。-
・サーフボードが欲しくて、知らない家に行き芝刈りを申し出る二トラム。訝しげだが、孤独な金持ちの中年女性ヘレン(エッシー・デイビス)は、彼に芝を刈らせ、二人は距離を縮めていく。男女の関係ではないが、ヘレンは二トラムに新車を買い与え、二トラムも”大嫌いな”実家を出てヘレンの家に住み始める。
- 母親の言葉”いなくなって、せいせいしたわ・・。でも、すぐに戻って来るでしょう。”-
・二トラムとヘレンが新車で旅行に出るシーン。いつもの悪戯で二トラムがヘレンが運転する車のハンドルを横から動かし、車は前から来たトラックを避けるために横転。
- 病院で、目を覚ましたニトラム。ヘレンは亡くなった・・、と聞き・・。このときの二トラムの虚無的な表情。彼を真に愛する人間はこの世から消えたのである。
莫大な資産を彼に残して・・。-
・二トラムの父が、長年求めていた平屋の家。だが、父が購入資金を得る前に、家は売却されていた。落ち込む父。そんな父を二トラムは激しく殴打する。
- そして、夢破れた父は自死する。二トラムの性癖は両親から引き継がれている事が分かる。破滅的で、精神的に脆く、そして人には厳しく冷たい。ー
■恐ろしきシーン
・ニトラムが銃販売店で、ライフル銃やショットガンを購入するシーン。免許がなくても買えるライフル。店の地下の膨大な銃の数々・・。
ー エンドロールで流れるが、凄惨な事件の後、オーストラリアでは銃規制が本格化した。だが、実際には銃の数は増えている・・。-
<二トラムが海辺のリゾート地を訪れ、デザートとジュースを飲んだ後、彼は銃を持って立ち上がり・・。凄惨なシーンは敢えて描かれず、母親がぼんやりとタバコを吸うシーンで、TVから凶行のニュースが流れる。
今作は、既に記した通り、ジャスティン・カーゼル監督の製作意図が明確であり、映す事は許されないシーンは敢えて映さず、一人の人間関係性から孤立した男が凶行に至る過程を、ケイレブ・ランドリー・ジョーンズが、怪演と言っても良い見事な演技で観る側に”今の社会と、当時と何が違うのか・・”と重い問いを投げかけてくる作品である。>
社会適合性のない人物
このような人がコミュニケーションがとれず、悩みを抱えて、自虐的になったり、周囲の無関係の人物や集団への無差別な攻撃、逆恨み的な暴力に至ってしまうのか。。。
普段、お父さんのように理不尽な事で怒りや悲しみを感じる事は、誰にでもあって、それをストレスとして溜め込みながら、みんな我慢しているんだろうね。それが上手くこなれないのが彼のような人物なんだろう。
ところで、この主人公の俳優は、スリービルボードにも出演していたとの事で、役柄は違うが本編とストーリー性で似通っているなぁと実感した。
他者への憎悪、自己嫌悪、親からの見えない抑圧の果てに起きた爆発
悲しみに満ちた物語だった。人間という生き物は、欲望が満たされないと欲求不満状態になるが、その極限まで到達したのが、この映画の主人公の状態だったのではないか。
母親からつねに抑圧を受けていたマーティン。家庭でも学校でも、街のあちこちでも、彼は自分の存在価値やありのままを認めてもらえない。それどころか変な目や嫌悪の目を向けられる。
「ちょっとおかしな」彼は、まわりからいつもそういう風に見られていることがわかっている。そして、そういう目を向けられた時「おれはここにいるよ、生きているよ」とばかりに花火や爆音でアピールする。
そんな、「面白くない生活、人生」の中で出会った近くの住人ヘレン。彼女は「それだけはだめ」という線引き(銃を向けること)はするが、おおかたのことは許容する広い心と見識を持つ人物。
マーティンにはそれがわかるから、心を開き、慕い、甘える。
しかし、そのヘレンが自分のせいでこの世からいなくなる。
その、どうしようもない、やり場のない気持ち、感情からマーティンは徐々に壊れてゆく。
ここからが本当にやるせない。ヘレンが居なくなってから、程なくして今度は、夢を奪われた父親がうつ状態になり、自殺する。母と違って、父親はマーティンの良き理解者で、弱さを分かり合える存在だった。その父まで自分のそばからいなくなり、自分が「こうなりたい、こうありたい」という自分からどんどん乖離することへのジレンマが始まる。そうして、さらに自己嫌悪が増大していく。
「僕が僕の好きな僕になれないんだ」(具体的な台詞は忘れたが、こういう意味の言葉を彼は言う)と涙を流しながらそう呟くマーティンの姿は、本当に悲しい。大切な人がいなくなり、圧倒的な孤独に苛まれているからだ。
その孤独や抑圧、どうにもならない苛立ちや欲求不満(物心ついたから承認欲求はおそらく一度も満たされたことはないだろう)は、銃を持つことで文字通り外からも(心の)中からも武装してモチベーションが創り上げられ、爆発。かくして、オーストラリア最悪の銃乱射事件が起こる。
一方、母はどうしてもそれが理解できない。
父親(母にとっては夫)が自殺した時も、彼女は泣かず、ただ遠くをみつめるだけである。
結果、マーティンが最後に引き起こす重大な事件が報道された時も、庭先でテレビの画面を見ずにニュースを聞いているだけ。後悔にも似た気持ちがあるのかも知れないが、それは映画を見ているだけでは分からない。
映画を見た私には、只々、マーティンの苦しみや悲しみが何重にも身体に巻きついて離れない時間が一定の間続いた。
こんな思いを誰にもして欲しくない、こんな思いをする人を一人も出したくない。
この映画は、そんな固い誓いを自分の心にさせてくれ、忘れがたい重みと力を持った、今年の最上の一本になると確信している。
Martin
彼はお金を数えることもできないらしい。
お母さんの接しかたがもうちょっと違っていたら、と思わずにいられません。
厳しくしつけようとせず、できる事を認めて、褒めてあげるべきだった。
事故のあと、あのタイミングでヘレンの死を告げるなんて。(言わせているのは脚本家だけど。)
彼を理解しているお父さんが民宿をやろうとしていた計画がうまくいかなかったのも、ついてなかった。
すべてが悪いほうへ悪いほうへ向かってしまう。
そして彼の怒りがたまっていく。
お父さんの葬儀にも、彼としては正装してきたつもりだったのでしょう。
彼をそのまま受け入れて褒めてくれたのはヘレンだけだった。
そのヘレンも銃はやめて、と言っていたのに。
ラストの描きかたも秀逸。
主題が違うのでは
「エレファント」や「ウトヤ島」など、無差別殺傷事件をテーマにしたものは多々ある中で、本作は主役の人間性に迫った、ある意味ヒューマンドラマに近い。
事件そのものの描写はあえて少なくし、出来るだけ客観的に、そこまでの過程を映し出している。
その見せ方は素晴らしく、主演のケイレブ・ランドリー・ジョーンズを始め、俳優の演技も見事だ。
それを凌駕して勿体無いと感じたのは、主題として提示した最後のテロップ。この問題を銃規制のみに重きを置くというのは、あまりにも浅い。
もちろん、それも重要な問題だが、それ以上に主人公に寄り添おうとしない、社会構造も指摘すべきでは無いのか。それ自体は映像からもちろん読み取れるものの、最後にあのようなテロップを入れられると、話が違うだろ、と興醒めしてしまう。
銃社会から縁遠い社会に生きてるから、そう思うのかな。中々難しい。
✳︎この手の映画は「良い」「悪い」の判断がむずかしいので、点数はあくまで映像や脚本に対するものです。
マーティンの孤独と鬱憤と渇望
オーストラリアで実際に起きた銃乱射事件を題材に、事件の犯人であるマーティンが、事件当日に銃を発砲するエンディングへ向けて物語は進んでいく
27歳になっても幼稚園児の様な感情の起伏を見せ、社会不適応な態度を取るマーティンを、周囲はmartinの文字を逆さ読みした「ニトラム」という名で呼び嘲る
一歩引いた所から犯人のマーティンを見ている様な映像が、彼の全てが空回ってどんどん救いがなくなっていく様をリアルに浮き上がらせる
おそらく精神的発達障害者であるにも関わらず、適切な療育も養育環境も与えられず、やる事全てが空回るマーティンの孤独と鬱憤と渇望を見事に体現したケイレブ・ブランドリー・ジョーンズの演技は圧巻
また、威圧的で感情的な母親を演じたジュディ・デイビスも素晴らしい
息子を愛しながらも、彼を理解し導くには無知で力不足だった母親の苦悩と悲哀が画面から滲み出る
登場人物が誰1人幸せにならない
僕は僕以外になりたかった
というキャッチコピーが胸にささる映画でした
個人的に、☆5中☆3.2
怖い
オーストラリアでは、あんなにも簡単に銃が買えたのか、ということに恐ろしさを感じた。
猟銃とか、競技用とかもあるだろうが、アサルトライフルとか人間を殺すために作られたものが、普通に買える。しかもライセンスなどの管理も杜撰で、金さえ出せば買える。
事件の犯人が、犯行に至った原因はわからないが、銃が気軽に買える環境がなければ、と思ってしまう。
鏡の中
1996年にオーストラリアにて発生した、無差別銃撃事件を起こした青年とその家族を描いた作品。
主人公青年は、本名はMartinだが、逆からよんでNitram(二トラム)と呼ばれからかわれていたそう。誰に心を開くわけでもなく、はた迷惑な行動をしては暴れるその姿は、言い方は悪いが、社会不適合者という言葉がピッタリ当てはまる。
そんな彼と暮らす父母の姿はやるせない。根底には息子を想う気持ちは垣間見えるし、彼を見守っているが、どこか諦めているような雰囲気も…。
終始陰鬱な雰囲気で進んで行くドラマ作品。
登場人物皆、それぞれの考えを持っているようだが、その誰もが幸せには見えない。
特にお父さんのシーンは哀しかった…。マーティンを助けたい気持ちとどうにもならない気持ち、さらには彼の為にも見ていた夢まで…。
母には人の苦難を笑うと評されるニトラムが、このとき見せた父を見る表情は…。そして老夫婦の元へ行ったその心とは…。かと思えば起きない父を…。
もはやワタクシには・病み過ぎてしまったその心を読み取ることはできず。。
最初から最後まで哀しさと虚しさに溢れた作品だった。
ただ、彼が彼になってしまうまでの過程を中心に描き、その結果としての無差別殺人事件を見せる作品かと思ったら、最初っからあんな感じだし、ヘレンもヘレンで何故あんな彼を受け入れたのか、そのバックストーリーも見えてこないので、もうちょっとその辺の深さを味わえる内容だったら良かったかな~と。
ただ兎に角、やるせなさを味わうならこの上ない作品だった。
ホラーよりもホラー
発達障害が絡むので安易に感想は述べられませんが、率直にホラー映画よりホラーを感じました。突然ハンドルを握り出す予想だにしない行動、凶暴性を抑える荒い息使い、そしてガンショップのシーンでは何度もヒヤッとさせられた。幼少期に周囲から迫害されてきたのだろうが、そういったバックボーンが描かれていないので同情できなかったし、同じ人間とは思えない怖さを感じた。最後、事件の惨劇を映さずエンドクレジットという流れはクールだし、事件に対する制作側の配慮を感じた。主人公の怪奇演出は演技もヴィジュアルも作り込まれているなと思った。
ここからは個人的な鑑賞記録ですが、当日の劇場のお客は私1人でした。映画の内容からしてそりゃそうなんですが、社会や人の闇を自発的に見ようとする人って案外少ないんだなとも思った。言い換えれば自分はそれをあえて観に行く"陰な人種"。思い返せば興味を持つ映画は陰な作品が多いことに気づく。志向を変えてみようとも思っけれど、陰の目線から見る世界もそれはそれで面白いかなと思ったし、そういったものに興味を惹かれるのであればそれが自分のアイデンティティなのかなとも思う。
主人公のように病的ではないものの自分も社会に適応することに苦労するタイプ。同じ境遇の人に手を差し伸べられる余裕はありませんが、受け入れられる視野は持っておきたいと思う。
はまり役
歴史的流刑地でもあるオーストラリアタスマニアのポートアーサー流刑場跡で実際に起きた銃乱射事件を題材にした映画。犯人に同情するか否かで好き嫌いや評価が分かれるでしょう。事件の再現を目的とした映画ではなく、犯人の人物像を描くことをメインにしています。銃砲店や試し撃ちシーンはありますが、乱射による殺害シーンはありません。主演の役者に対する印象にも大いに左右されてしまうでしょう。主演のケイレブ・ランドリー・ジョーンズは最近ではニューヨーク親切なロシア料理店やアウトポストに出演していました。印象に強く残っているのはニューヨーク親切なロシア料理店の方で、社会適応が苦手な人物役を演じていました。彼以外の主要人物役はすべてオーストラリアに由縁のある役者です。NITRUMというのはMARTINの逆さ読みで、子供の頃から馬鹿にされて呼ばれていたアダ名。職もなく、ブラブラしているひとり息子に両親は手を焼いていますが、具体的な対策はとれません。母親(ジュディ・デイビス)は厳しく冷たい目線、父親(アンソニー・ラパリア)は逆で、優しく、甘やかしていました。男親と女親の違いの描写、演技が光っていました。彼の行動は衝動的であったり、両親にきつく言われた言葉が時々フラッシュバックして、不適切な行動をしてしまう場面が多々あります。歪んだ性格やネガティブな感情の発露にも見えます。しかし、根は素直で、馬鹿正直です。また、花火や銃に対する強い執着がありました。そして、他人にもそれをあげようとします。稚拙ですが、自分の好きなものを他人に勧めることによって、友達になろうとしているように思えます。
銃砲店の対応がまずかったのはあきらかです。彼にとってヘレナ(エシー・デイビス)の存在は噛み合わない両親との関係を埋めてくれるもので、クルマ(黄色のアウディ)や家、大金を貰ったことは大惨事を招く大きな要因となりました。ヘレナもちょっと変わった人でしたが、妙な魅力をエシー・デイビスがうまく醸し出しています。彼らは強い共依存の関係になるべくしてなったと思われます。
彼のように知能が足りなくて、コミュニケーション下手で、変人扱いされてきた人間への哀れみ、同情を越えたシンパシーを抱く人もいると思われます。銃規制の厳しい日本では発生しにくい事件ですが、もしひょんなことから半自動ライフルを手にしたら?
ちょっとダークなことをいろいろ考えてしまいます😎
悪人じゃなくても悲劇は起こし得る
元となった「ポート・アーサー銃乱射事件」、よく知らないので観賞後ネットで検索。犯人は終身刑で存命、作品内で描かれる出来事(父の件、富豪の存在)は形を変えていますが事実のようですね。もちろん、ニトラム自身の人物像も。ですが、犯行動機は明らかになっていないそうです。ですから製作陣は多くの時間をかけて調査し、人物像を浮かび上がらせ犯行に至った経緯(動機)を描いたのではないかな?って思います。それほどにニトラムの日常の感触や心情が生々しく伝わってくるのです。果たしてここで描かれる動機が真実かどうか?はわかりませんが「きっとそうだろう」と思える説得力のあるものでした。主人公はじめ主要な演者さん全ての演技が素晴らしくより濃厚な仕上がりとなっています。濃厚=やるせなさが半端ない・・・ってことです。
描かれるニトラムの日常世界はきっと今の時代のどこかに存在する世界なんだろうと思います。居場所がない、受け入れてもらえない、受け止めてくれるところがない、自分を認めてもらえない、そんな現実。自分でなんとかできることと、どうにもできないことはあります。そんな時に人は光が見えればその光がどんなものであろうとすがってしまうのではないのでしょうか?それこそが自分が求めていたものだと勘違いしてしまうのではないでしょうか?
そうしてしまうのは社会なのか?家族なのか?環境なのか?本作は銃規制促進または銃社会への警鐘映画のようですがそんな単純な社会の課題だけではないような気がします。決してそれだけでこの惨劇が起きてしまったとは思えないのです。1996年、あの頃から社会はさまざまな境遇の人にどれほど寛容になれているのだろうか?と考えてしまいます。
演者さんたちが皆素晴らしいです。主演はもちろんですが、エシー・デイヴィスよかったなぁ。ただ、苦言があるとするならば、ニトラムの病が全ての起因に見えてしまうような感じがちょっとなぁってところです。「それでなければ・・・」って思ってしまう展開が目に付くのです。病があるから・・・ということよりケアしきれない環境という見せ方できなかったかなぁ?「その病=悪」って見え方がちょっと雑音になっちゃいました。銃規制だけでなく、そちらの環境についても踏み込んでほしかったかな。
銃以外無くなってしまった
主人公の少々歪ではあるが、それでも自分を表現したい、人と交流したいというエネルギーが、ことごとく裏目に出てしまう。
爆音花火からは、自分はここにいる、息が詰まりそうだ、という叫び声が聞こえる。
同級生?にビーチであってニトラムと声をかけられる。言いようのない怒りが身体に湧き上がる。
自分を型にはめて自分ではないものにしようとする母親、何らの枠組も与えず宙ぶらりんのままにしている父親。海辺のB&Bを一緒に経営しようとするが儚い夢に終わり、父は崩れてしまう。
ヘレンもどこか壊れている。なので壊れる。
主人公の銃の腕前は中々のように思える。目の良さ、集中力かもしれない。事件前にはかなり上達したのかもしれない。
オーストラリアが銃社会であることは知らなかった。
けれどもタスマニアには、白人がアボリジニを絶滅させた歴史がある。かなり滅入りながら目が離せない映画だった。
ダウナー映画
こんな息子(隣人)は嫌だinオーストラリア
この主人公、完全に病気でしょう
こんなのに金や銃渡して野放しにすればまさに八つ墓村
ニトラム役の俳優、体ダルダルにしてメガデスのボーカルみたいだった
そりゃぁ、お母さんもあんな顔になるよ!!
あと、車の助手席に乗せるのもダメ絶対!!
演技が凄すぎる。。
実際にオーストラリアのタスマニアで起こった無差別銃撃事件の犯人を描いた作品。
犯人役を演じたケイレブ・ランドリー・ジョーンズの演技がとにかく凄かった。感情を爆発させるシーンでは映画館の中で思わずこちらも声が出てしまいそうな程の緊迫感があって圧倒された。元々この事件のことは知らなかったが、犯人の動機は今もはっきり分かっていないようで、劇中でも犯人のいろんな面が表現されていて、他人への優しさを覗かせる反面、時には極めて自己中心的だったり、内面の本性が謎に包まれている感じがした。
作品の終盤で母親に自分の正体について問いかけ、自分でもよく分からないと言ったシーンが強く印象に残った。
陸(おか)サーファー
最初に火遊びから火傷をおった子供がインタビューを受ける映像が流れるが、あの子はニトラム?関連があるかのように花火を打ち上げたり、小学生の前で花火をして煽ったり、実際にコテージに火をつけて本人は背中と尻に火傷を、逮捕後に治療のため病院へ。
劇中、誰も彼の名前を親ですら呼ぶことはなく、ヘレンとの出会いでもニトラムは自己紹介をしない、中盤でニトラムと呼ばれる、それはマーティン・ブライアントにとって嫌なあだ名でMartinを逆さ読みした幼少期に軽称で呼ばれたもの。
テレビから流れるニュース映像はスコットランドで起きた小学校で児童16人が射殺された事件、ポートアーサー事件はその一ヶ月後くらいに起きている、銃乱射事件で思い出される映画はガス・ヴァン・サントの『エレファント』でドキュメンタリーをマイケル・ムーアが。
両親が息子を見捨てることはしない反面、父親が徐々に弱っていく姿、冷たそうな態度の母親は強い女性の象徴のようで、自然と強くなるしかない現状と全てを背負わなければならない結果、単に男共が不甲斐ない。
サフディ兄弟の『神様なんかくそくらえ』から要注目なケイレブ・ランドリー・ジョーンズの不安定ながら危なっかしく愛嬌を持ち合わせた演技は素晴らしく、一人の青年として共感する部分も多少、映像で見せない殺戮場面を実際の事件の概要を文で読んだ時の残酷性と衝撃は何ら共感することは出来ない、銃社会の問題提起、日本では附属池田小事件のような、銃だけの問題では片付けられない厄介な動物である人間の問題。
登場人物の誰にも感情移入が出来ず最初から最後まで息苦しい112分
1996年にタスマニア島で起こった無差別重乱射事件が起きるまで犯人の日常を淡々と追うドラマ。主人公のマーティンは幼少期から奇行を繰り返す人間で、近所の人からは名前を逆に綴ったニトラム(NITRAM)と呼ばれて揶揄っていた。それでも両親は何とか彼を自立させようと試みるが、何をやらせても長く続かず会話も噛み合わない。そんなマーティンはサーフボードを手に入れるために始めた芝刈りの仕事で年上の女性ヘレンと知り合い意気投合し幸せな日々が訪れるが・・・。
登場人物の誰にも感情移入が出来ず最初から最後まで息苦しい112分。タスマニア島に充満するその閉塞感は実にリアルで、どこにでもころがっているパズルのピースが禍々しい因果に引き寄せられて地獄絵図へと姿を変えていく日常が自分のすぐそばにもあるありふれたものであることがとにかく恐ろしい。主演のケイレブ・ランドリー・ジョーンズの演技が桁外れに素晴らしく、子供のような無邪気と悪魔のような狂気を併せ持つマーティンを見事に体現していました。
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