「彼女は真の聖女か、ペテン師か?」ベネデッタ 緋里阿 純さんの映画レビュー(感想・評価)
彼女は真の聖女か、ペテン師か?
17世紀に実在した修道女ベネデッタ・カルリーニの半生を描いた作品。冒頭のテロップでも語られるが、本作は史実から着想を得た物語で、原案はジュディス・C・ブラウンのノンフィクション『ルネサンス修道女物語:聖と性のミクロストリア』。
修道女ベネデッタは、ある日イエス・キリストの姿を幻視し、彼に花嫁として指名される。やがて、磔にされたイエスと同じく両手足に聖痕が出現し、それを奇跡と信じた人々から新たな修道院長に任命される。しかし、羊飼いの父親から逃げて修道院に入ってきたバルトロメアと性的関係を持ち、ベネデッタに起きた奇跡に疑いの目を向ける元修道院長フェリシタや彼女の娘クリスティナに告発される事になる。
この作品には、決して“神”など存在せず、ただひたすらに“人間”だけが存在していた。人間の持つ“罪”だけが存在していたのだ。それは傲慢であり、強欲であり、色欲であり、嫉妬である。そして、それらの根幹にあったのが、“嘘”もしくは“思い込み”なのだ。
私が思うに、ベネデッタはパラノイアだったのだと思う。イエスを信仰するあまり、彼から見初められたと思い込み、真偽こそ不明だが聖痕が現れたと示す為に自傷行為を行う。自らに疑いの目が向けられると、男の声で予言めいた発言をして周囲を圧倒する。そうした彼女の振る舞いの数々は、バルトロメアが指摘したように、強烈な“自己愛”から来るものだったのかもしれない。
勿論、作中説明のつかない事象もある。特に、広場で死を迎えたはずのベネデッタが、ジリオーリ教皇大使の前で復活したトリックは明かされていない。これがミステリー作品ならば、毒物による一時的な仮死状態が可能だと示されるが、17世紀とあっては、ベネデッタがそうした知識を持っていたかは定かではない。定かではない以上は、奇跡のように演出する他ないのだろう。
ベネデッタを誘惑し、“堕落”の道に引き摺り込むバルトロメアは、作中で示されたようにまるで蛇のようだった。無知で読み書きも出来ず、礼節も弁えていない彼女だが、親兄弟からの虐待により、性的行為には精通しており、ベネデッタを歓ばせる。マリア像を削ってディルドを作り出すという、神への冒涜とも言える怖いもの知らずさは、ある意味天晴れ。ベネデッタを守る為、審問会で嘘を吐くが、拷問によってベネデッタの罪を告白し、彼女を火刑に追いやる。それでも愛情を捨てきれず、火刑の場に駆け付ける。
誘惑し、嘘を吐き、許しを請う。そんな彼女の姿は、作中1番人間らしいと言えるかもしれない。
結局、人は「何を信じるべきか」ではなく、「何を信じたいか」によって立場を変える生き物なのだと思った。
ベネデッタが聖女であるとした方が巡礼者や寄付金の増加、教会内での地位向上が見込めるとしたアルフォンソ主席司祭。信仰にも利権が絡むとは世知辛い。
フェリシタが頼ったフィレンツェのジリオーリ教皇大使は、妻を娶り子を儲けようとしており、旅の疲れを癒すと自らの足を洗うベネデッタの奉仕を「娼婦のやり方を心得ているな」と蔑む。直後にベネデッタに指摘されたように、彼は娼婦のやり方を知っているという事だ。
そんなジリオーリの横暴さに反旗を翻す街の人々も、結局はペストの恐怖から街を守ると言ったベネデッタを狂信しているに過ぎない。
ベネデッタの糾弾者となる(元)修道院長のフェリシタでさえ、捧げ物や持参金の額で修道院に入れる者を選別し、バルトロメアが修道院に入りたいと懇願した際に「慈善事業じゃないのよ。入るにはお金がいる。」とハッキリ言い切る。
ペストに侵され、余命僅かとなった彼女は「神の声を聞いたことがないので、神を信じたことはない。」と告げる。この時、ベネデッタは“神の意志”として彼女に何を吹き込んだのだろう?また、何故神を信じて来なかった彼女が、ベネデッタを火刑から救う手助けをしたのだろうか?もしかすると、死を前にした恐怖心をベネデッタに利用されただけかもしれないが。
本作において、ベネデッタを巡って描かれている事の何が真実だったのかは判然としない。全ては観客の解釈に委ねられている。
一つだけ真実があるとすれば、ペーシャはペストの被害から免れたという事だろう。
ベネデッタ役のヴィルジニー・エフィラ、バルトロメア役のダフネ・パタキアの体当たり演技も光っていた。個人的には、決して面白いだとかオススメ出来る作品ではないが、信仰を通して描かれる人間の愚かさの結晶と言うべき作品だった。