ストーリー・オブ・マイ・ワイフのレビュー・感想・評価
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この気持ちは女性にしか分からない。傑作だ。
J.S.Bach: 7 Keyboard Concertosは良いね♥
アーネム出身でフラマン人じゃないと言う事は、彼はオランダ人って言う事。
つまり『オランダ人の妻』
英語に訳せば、この映画の主題が理解出来る。
ネタバレありあり
そして
『フライング・ダッチマンの妻』
として、7年後に傍らに現れる。
これ以上レビューするとヘイトにも繋がり兼ねない。つまり、映画を見れば分かる。
民主的先進国の
オランダのアムステルダムでは『飾り窓の女』が未だに認知されているはずだ。
子供が出来なかったのではなく『避妊し続けた』と解釈すると、色々な事が見えてくると思うが。
そして、彼女は困窮の為に街灯に立った。レ・ミゼラブルのフォンテーヌなんだよ。飛躍した妄想が浮かんで来る。
七年経っても髭ヅラとタバコを止めていない。男社会に対するアイロニーだと感じる。僕はね。
最初にカフェに入ってきた女
男は人生の賭けをした。
カフェのドアを開けて最初に入ってきた女性と結婚すると決めたのだ。
全財産を注ぎ込むような博打をする船乗り。
ヤコブは中年の船長。
1920年代には船長は乗る船の大きさにもよるけれど、
ヤコブは、地位も金もある男性だった。
初対面のヤコブ(ハイス・ナバー)に結婚を申し込まれた
リジー(レア・セドゥ)。
驚かない。
まったく眉ひとつ上げない。
仕事を聞き、「いつ?」と聞き「一週間は必要」と答える。
(だが、最初から男の影が散らつく女)
ハンガリーの67歳の女性監督イルディコー・エニェディ。
彼女の「心と体と」はエロティズムと、繊細で風変わりな女性を描く
ユニークな映画でした。
本作の原作はハンガリーのミラン・フスト。
ヤコブとリジーの最初のKissは掛け鏡に写るという
凝った映像美。
レア・セドゥは露出も最小限。
それでもリジー(レア・セドゥ)にはエロティックで、
男を虜にする色気と
「秘密と嘘」をない混ぜた破壊的な魅力で溢れる、
男を虜にする運命の女。
男は女に翻弄されズタズタに心を挫かれる。
ヤコブが航海から帰り、お土産の香水を渡します。
やんわりと喜んだリジー。
2度目も香水を買って帰ると、
「香水を変えたの・・・その香りには飽きたわ・・・」
と、一瞥するだけ。
(ヤコブ可哀想!!)
女心も操縦法も知らない男。
対して、男遊びに慣れた女。
美術と照明と鏡を使った撮影が素晴らしく、
1920年代のマルタ島やパリの社交会を再現した映像は
格調高く、大型船、灯台、埠頭、リジーの帽子、洋服、
部屋のインテリア、
どれもこれも垂涎ものでした。
殊に音楽が秀逸で、
ダンスホールの楽団が演奏するタンゴには、
バンドネオンの哀愁ある響き。
ヤコブとリジーが行くピアノコンサートで、
演奏される印象派のピアノ曲。
ヤコブの熱唱も素朴で心地いい。
この映画、監督が言うには、
小さな箱に入った贈り物を貰った。
けれど頑丈に梱包されて開きません。
ハサミでこじ開けても開かない。
遂には、人は箱をハンマーで叩き壊してしまう。
(そんな含みがあるそうです)
ヤコブの財産の株券を盗んで逃避行に出たリジーとデダン。
ヤコブはリジーに書かせます。
「愛人と協力して株券を盗みました」
「無様で恥ずべき人生です」
その紙面にヤコブはサインをさせます。
最後通達ですね。
(プレゼントの箱は叩き壊されました)
愛を育てるのがあまりに下手なヤコフとリジー。
このシーンはとてもインパクトが有るのだけれど、
なかった方が、リジーの神秘性が残ったのにと、
少し残念です。
ヤコブの歌う
「潮からい海」
バリトンに味がありました。
この歌で締めくくったら、また別のラストに・・・
レア・セドゥ、本当にはヤコブを一番愛していたなら、
(ちゃんと、そう、言いなよ!!)
だけれど女は、
仄めかし、
謎めき、
嘘つきで、
秘密、
レア・セドゥは憎めない可憐さと儚さも感じさせて、
ヤコブが恋焦がれたのも、道理。
後悔も何処かでほの甘い味なのでした。
1920年代の欧州。 貨物船船長のヤコブ(ハイス・ナバー)は、ここ...
1920年代の欧州。
貨物船船長のヤコブ(ハイス・ナバー)は、ここのところ胃の調子が悪い。
ベテランのコックの言によれば、「そりゃ、奥方がいないからですよ」なんて言う。
コックは、陸に3人の妻がおり、それが航海を支えているのだと。
もう若くないヤコブは、寄港地マルタのカフェで旧知の友人を前に、「俺は結婚する。相手はこの後カフェに来た最初の女性だ」という。
カフェ入口には初老の女性が入ろうかどうか迷っていたが、彼女は入るのをやめ、次に入ってきたのは若くはないがヤコブには年頃のリジーという女性(レア・セドゥ)だった・・・
といったところからはじまる物語で、映画は「船乗りヤコブの七つの教訓」というような副題についている。
「教訓」という言葉が映画に使われるときは、ほとんど喜劇であると認識している。
(こりゃ、エリック・ロメールのせいかもね)
以降、交際ゼロ日で結婚したヤコブとリジーに話が7つの章に分けて綴られるのですが、途中まで「喜劇」だとわかりませんでした。
ま、げらげら笑う類の喜劇ではなく、人間の、男と女の機微をいとおしく笑うような類の喜劇なので、(談志的に言えば)「人間の業の肯定」の映画です。
何を肯定するのかといえば、男は女ことはわからない、女も男のことはわからない、けれど、そんな男と女がいったん好きになったら相手のことは愛おしく思うし、愛おしく思えば思うだけ相手のことに疑念が生じてしまう・・・
ま、そんなところ。
「好き」「愛している」と、「信用」「信頼」とは別物。
というか、好きになればなるほど、愛していれば愛しているほど、相手に疑念が湧いてくる。
そういうものなの。
愛と嫉妬はニコイチ。
それを「あるある」といって笑い、自身にも「あるよね」と、天に唾する如くかえってくるのを楽しむ映画。
リジーを「悪女」というような色眼鏡で見てしまうと、この映画、まるで楽しめない。
だって「悪女」じゃないんだもの。
たしかに、ヤコブを疑念に駆り立て、不安にするかもしれないが、どうも、最終的に彼のことを裏切っていないように思えます。
モダンガールの時代(日本でいえば大正末)の、自由奔放と思われている時代でも、リジーは一線を越えることはしていない。
ただただ、ヤコブを困らせようととして、その困った顔を見て幸せになりたいのだろう。
だからこそ、第6章で、ヤコブが大切だと思っている株券を(愛人と「思われている」男とともに)持ち逃げして、現場を取り押さえられても、素直にその事実を認めるわけで。
そんな、子供のような困った女を演じるのが、妖艶なレア・セドゥなので、「官能のラブストーリー」と読み間違えてしまうのは致し方ない。
個人的な鑑賞後感は「こりゃ、夏目漱石の『三四郎』を筆頭とする諸作と同じく、女がわからん男の苦悩を(やや可笑しく)描いた作品なのね」ってこと。
鑑賞中、クスクスとかアハハと笑っているのが気になったら申し訳ない、そういうふうに見えちゃったんだもの、許してね。
ラスト付近までネタバレなし、最後にネタバレブロックありです。
クジラは陸では生きられない。だが、陸での暮らしを夢見るクジラもいる。
主人公は武骨な海の男です。冒頭、クジラが暗い海を舞うように泳ぐ。そこに男の独白が重なっていきます。
男はクジラのような存在で、彼が語る7章から成る物語は、夢のようにも思えます。詩情豊かな映像美。そして「妻の物語」のはかなさが、夢を見ている感覚にさせるのかもしれません。
1942年に出版されたハンガリーの作家ミラン・フストの小説を、「心と体と」でベルリン国際映画祭金熊賞を受賞した同国のイルディコー・エニエディ監督が映画化。20年代の欧州を舞台に一組の男女の遍歴を描く文芸調のメロドラマに、ヒロインを演じたレア・セドゥが現代の息づかいを吹き込んでくれました。
1920年。船長ヤコブ(バイス・ナバー)は海の上では一国の王のようでした。
乗組員は家来のように船長室まで食事を運んできてくれます。だがどうも最近、体が不調でした。料理人に健康の秘訣を聞くと彼はこう答えます、「妻がいるので」。
そんなヤコブの結婚は、出会いから夢のように奇妙だったのです。
ヤコブは寄港先の地中海のマルタ共和国の友人といたカフェで、「最初に入ってきた女性と結婚する」と賭けをします。そして現れたリジー(レア・セドウ)はヤコブの唐突な求婚を受け入れます。そこからヤコブの甘美な夢が、同時に、苦悩に満ちた悪夢が始まったのでした。
こんな即席の出会いは、当然ただでは済みません。
ヤコブはパリで妻と暮し始めます。彼女はミステリアスで、とらえどころがありません。誘われるままに妻と夜のパリをさまよいますが、カフェにたむろする妻の友人だちとはなじめませんでした。だいいちフランス語もよくわかりません。妻といやに親しげなデダン(ルイ・ガレル)が現れると、無性に不在時の妻の行動が気にかかるようになってくるのです。海では瞬時に正しい判断を下し、船長として尊敬されるヤコブでしたが、ここではすっかり陸のクジラなのと成りはててしまいました。船とは違い、ヤコブの人生航路は暗礁に乗りあげてしまったのです。
捕まえたと思うと逃げられ、突き放そうとして離れられない。男たるものかくあらねばと賑る舞うヤコブは、リジーに翻弄されるばかり。登場した時の頼りがいのある船長は、次第に器の小さい男に成り下がっていきます。
リジーは貞淑な妻か、それとも放埓な悪女か?
ヤコブは自分とは違う世界に生きる妻を理解しようとして、苦しみ、悩んだのでした。そんなヤコブに、妻から少しは遊ぶように言われ、他の女性に手を出そうともします。だが誠実さを絵に描いたようなヤコブはうまくいきませんでした。次第に追い詰められていきまる。
彼は嫉妬の果てに自殺未遂を起こしてしまうのでした。
カメラはヤコブの視点から離れず、リジーの素性や素行は観客にも謎のまま。純粋とも小悪魔とも映るリジーが、愚かで哀れな男の本性をむき出しにしていきます。
その目に映るリジーは、パリの街そのもの。退廃的で美しい夜のカフェの場面からは、香水の香りが濃厚に漂ってくるのでした。
一方、2人が求め合う場面は絵画のようにスタイリッシュ。エロチックですが、生々しさは感じられません。いくら体を重ねてもどこか捉えどころがない妻にたいするもどかしいヤコブの気持ちが込められていたのではないでしょうか。特にセドゥの全裸の後ろ姿が美しすぎるます(^^ゞ二人の愛を音楽の強弱だけで現していたところもロマンチックでした。エニェディは2人の間にある深い淵をじっくりとのぞき込み、繊細な美意識に貫かれた映像で映し出します。
男らしさにとらわれた夫の目がジェラシーや疑心で曇ってしまった時、見えるはずのものが見えなくなってしまったのか、それとも妻は本当に不貞を働いているのか。長尺でありながら最後まで見る者を引きつける愛のミステリーとして成立しているのは、謎めいた女性に実在感を与えるセドウの圧倒的な存在感によるところが大きいと思います。
とにかく、あんな謎めいた微笑と一瞬で表情を変えるまなざしに見つめられたら、ヤコブでなくたって、世の殿方はみんながとりこになるのも無理はないでしょう(^^ゞ
ヤコブはまるで迷宮に入り込んだかのように。出口は結局、最後まで見つかりません。見つからないまま、ヤコブは悟ります。迷宮をさまよい続けることが人生なんだと。人と人、文化と文化のはざまで、ただ迷い続けること。それが恋愛というものの美しさなのかもしれません。
【ここからネタバレが含まれます】
2時間49分の長尺と、美しく端正な映像で織りあげられるのは1組の夫婦の物語だが、それと同時にそれを超えた〈何か〉を感じられた人は幸いです。
ともかく冷めた目で眺めれば、疑わしいのはドッチもドッチで二人の度が行き過ぎた行いは五分五分というべきでしょう。そして3時間にわたる長いメロドラマの、そこで繰り広げられる物語があまりにも陳腐過ぎると、わたしのような野暮なオヤジには感じてしまったのです(^^ゞ
だいたいこれは、早い話が「男の私小説的愚痴話」でしょう。ヤコブが勝手に抱く妄想や愚痴以上に描けていないがゆえに、女が存在感のある生きてる人物とならないわけです。それがやりたかったこととするのであれば、それはあまりにもエニエディ監督はナルシストではないでしょうか。
冒頭とエンディングの男ヤコブのナレーションを手がかりにすれば、もしかしたらヤコブには本当のリジーの記憶がなく、自らに都合のいい記憶、つまりは妄想に生きていただけなのかもしれません。映画全体の中でリジーの異質さを考えれば、すでにヤコブは現実を見ていない脳内妄想のリジーを追いかけていると読み取るのもアリでしょう。
映画は7章立てで描かれていきます。1章から6章までがどんなタイトルであったかはまったく記憶していませんが、というより果たして意味があったのかも疑問なんですが、7章だけは「7年後」として使われていましたので記憶しています。
7年後、ヤコブはパリの街でリジーを見かけ、リジーから紹介されていた女性に電話をします。女性は、リジーがずっとあなたを愛していたとも告げます。それは散々嫉妬で狂ったあげくの、男にとってはあまりにも都合のいい終え方ではないでしょうか。
男が自分の思うようにならない女に、惚れているがゆえに執着し、嫉妬し、自己崩壊しましたという物語を3時間かかって延々と見せてました。それだけなら笑ってすませられるでしょう。しかしこの映画は、最後に、女にごめんなさいと謝ったように想起させるのです。さらにその女をなんの説明もなく、なきものにして、男の自尊心を保たたせることで終わらせてしまいました。
ということで映画鑑賞において高い感性に自信をお持ちでない人が、本作をごらんになると、「さっぱりわからん」「長い、疲れた」ということになりやすいので、ご注意申し上げます。
・日本公開日: 2022年8月12日
・上映時間:2時間49分。
好きよキャプテン
1940年に発表された1920年代が舞台のハンガリーの小説の映画化。
男盛りの貨物船の船長がマルタ島のカフェで悪徳商人の友人に口からでまかせ気味に言った「次にこの店に入ってきた女と結婚する」をすぐさま実行することから始まる苦悩に満ちたお話し。老いた料理番に「体の不調の原因は結婚していないから。永年の不摂生がたたったせいだ」と言われたのが気になったからか。特別待遇を受ける船長の食事はカラダに良さそうだったけど。
レア・セドゥのは謎の女。
1920年代にしてはレア・セドゥは垢抜け過ぎていて、レトロな感覚には浸れませんでした。
一方、なかなか渋い船長は経験も豊富で仕事は一流。地位もある。しかし、いい歳して?いい歳だから?大博打に出た。がらんとした新居のフロアーにマットレス一枚で始まった新婚生活。うまく出航したにみえたが、女の舵取りは難しかった。しょっぱい結果に。
「しょっぱい海を越えて」の歌唱がなかなか素晴らしく、よかったです。エンディングにも流れたし、テーマなんですね。
デダン役の俳優さん、オフィサーアンドスパイ(ドリュフス事件の映画)で主役だったけど、眼鏡のあるなしで印象が全然違った。細川俊之をうんと濃くしたような感じだった。年がバレるね。
歳の離れた嫁さんを貰ったはいいが、残業でなかなか帰れない中間管理職がやっとウチに帰ったら、知らないブランドハンドバックがたくさんあって、嫁は若い男をあげていたたみたいな悲哀を感じてしまいました。しょっぱい話で、帰る足どりも重かった。
上演回数がどんどん減って、早めに打ち切りになりそうなので、慌てて見ました。
豪華客船のメイドのうぶな彼女にしときゃ良かったのにね。
わたしはレア・セドゥはタイプじゃありません。でも、フランスの女優さんで背中のセクシーな人はタイプです。
良い作品だとは思うけど眠たい
原作がありふれた話な気がするの。
恋多き女っぽい奥さんが、旦那さんのことが好きなのかどうなのか良く分からなくて旦那さんは翻弄されるけど、でもやっぱり奥さんは旦那さんの隣にいたときが一番輝いていたっていう。
それを丁寧に描いていって、映像も綺麗だし、「人間の心って一筋縄ではいかないですよね」っていう感情表現もいいし、全部を説明しない話の進め方もいいの。
でも眠い。
息苦しい169分
"初めに出会った女"云々は大人の寓話として楽しく、その後のやりとりも現実にはあり得ないんだけど何とも洒落ている。要は、あの状況を受け入れ、あの会話を成立させるリンジーの奔放な性格と機智に富む知性と人間性を表している(リンジー、魅力的だよね)。お互いを知らずして結ばれ、そしてそこからホンモノの恋愛が始まるという設定。
結局、彼らの結婚生活はお互いを疑い(これはヤコブの方だね)、相手を理解せず(これは二人ともだな)に自分を理解してもらおうと足掻く。そんな繰り返し。ひとつのエピソードとして、外で食事をしたいとリンジーがヤコブにお金をせがむという下りがある。ヤコブは黙って渡せばいいのに、心のどこかでリンジーを疑っているからあんな態度になる。リンジーのお金のせがみ方は考えようによってはいたずらっぽくて可愛いのに、ヤコブはあんな情けない態度をとってしまう。でも情けないかな、僕にもよく分かるんだ、ヤコブの気持ち。リンジーがヤコブに浮気をけしかけるのもヤコブからすれば嬉しい訳がない(これって相手の愛を束縛と感じたときに言いたくなる台詞だよね)。なに考えてるんだこの女はというのが本音だろう(で、浮気しちゃうんだけど)。リンジーみたいな女は魅力的だけど(魅力的すぎて?)、妻としては難し過ぎる。
ずっと息苦しさを感じつつ(僕はヤコブになってたよ)の160分でした。お互いに求めながら、癒される存在にはなれなかったというのはパートナーとしては難しい。デダンなんて存在は大したもんじゃなかったと思うな。リンジーはヤコブと別れたときに気づいたのかもしれないけど。
予想よりも面白く、とても考えさせられた。
加えて映像の美しさも素晴らしかった。1930年くらいなのかな、時代設定は。ヨーロッパの中都市の街並み(マルタ、ブダペスト、ハンブルク)、ジャズと酒を楽しむ人々。リンジーの服装と髪型がいい。そして海と港の美しさ。
映画館がらがらだったのはもったいない。
恋愛をしている人、とくに難しい結婚生活をしている人、見たらいいんじゃないかあ。そういう人はあまり映画館に足を運ばないのかなあ。
極限の映像美
ため息が出るほど、レア・セドゥーが美しい。美しいのだけれど、更に美しく撮られている。
美しさ、マシマシなのである。
それと、ルイ・ガレルの存在感の素晴らしさ。台詞なし、顔のアップだけで、圧倒出来る俳優さんなんて、そうそう居ません。
お話は、不明瞭な部分が多々ありますが…男と女の鬩ぎ合いと申しますか、ある夫婦の紆余曲折を描いています。
16歳から海の男、船長のヤコブは知り合いのビーニに呼び出され、、少しいい店に出向きます。ビーニは胡散臭い野郎ですが、会話を楽しみます。船の料理人に妻を娶れと云われたのを思いだし、『最初に入ってきた女性と結婚する』と軽口を叩きます。金を貸すとビーニは直ぐに出て行きますが、帽子を目深に被った謎めいた女性が入ってきたので、軽口を実行してみます。なんと意気投合して本当に結婚することに。
その女性はリジー。待ち合わせていた彼氏を振って自分と結婚した事しか情報はありません。
最初はとても上手くいきます。初夜に野球拳ポーカーをしたりして、この辺りがピークかな?お土産に香水を買ってきたり…その後はリジーの友達と言葉が通じないこともあり、航海から戻る度に、妻に対する不信感が増します。私の解釈ではこの辺まではリジーは浮気していない。夫の気を引こうとして匂わせていただけだと思う。
でもお土産の香水を喜びもせず、香水を変えたの!と言った頃から怪しい。ヤコブには、処女を片っ端から奪えとか、焚き付けるし、少し心を病んでる感じ。ヤコブ自身もリジーとの関係を修復しようと躍起になるが、色々裏目に出る。挙げ句の果てには金が底をつき川に身を投げる。もちろん大の男が死にはしないが…リジーは寝ずの番で献身的に看病しこのまま上手くいくのかと思っていたら、リジーはデタンと石油の株券を持って駆け落ち…列車の中でヤコブに追い付かれ、完全に離別することになる。
ヤコブは6年後にリジーの死を知る。
フランスやハンガリーの景色は素晴らしく、男と女の求めるものの違いを描いているのは、よく解りますが、リジーの駆け落ちの理由や死因なとは明かされておらず、少し、モヤモヤが残りました。
【”偶然に出会い、愛し合った男女の微妙な心のすれ違い・・。”鑑賞側に中盤まで多様な見方を許容する構成と、ラストで男女の愛の真実を女性目線で描いたイルディコー・エニュディ監督の手腕に唸った作品。】
ー イルディコー・エニュディ監督は、前作(で、傑作)「心と体と」でも、コミュケーション不全の美しき女性と中年の男性がお互いに惹かれながらも、心が微妙に擦れ違う様を絶妙に描いていた。
今作も、私見ではあるが、扱っているテーマは近いと思う。ー
■船長として、長い間海の上で生活して来た独り身のヤコブ(ハイス・スナイパー)は、久しぶりに上陸した際に、知り合いであるコードーと喫茶店で”最初に店に入って来た女性と結婚する”と口にし、蠱惑的な美しさを湛えたリジー(レア・セドゥ)にプロポーズする。
リジーは微笑みながら、それを受け入れる。
◆感想
・イルディコー・エニュディ監督は、今作を7章立てにして、二人の関係性の変遷を描いている。
冒頭に”二人のヤコブと七つの教訓”と意味深なテロップが流れ、各章にも夫々に副題が付いている。
ー この物語を章立てにした事が、巧く効いている。
比較的長編の今作であるが、各章の副題を読むことでヤコブとリジーの関係性の変遷と物語りがどう展開して行くのかを期待させるからである。
更に言えば、第7章で描かれることが、この作品の本質を見事に示しているのである。-
・蠱惑的な美しさと謎を湛えた奔放なリジーと”誠実だが、信じやすい”ヤコブは、結婚当初は仲睦まじいが、リジーの友人で”作家”と称するデダン(ルイ・ガレル)の登場で、ヤコブの猜疑心が芽生える。
ー ”誠実だが、信じやすい”と言う言葉は後半、リジーがヤコブの人となりを語る際に出た言葉である。-
・第6章までは、観ている側も”リジーは、ヤコブが航海中に浮気をしているのではないか・・”と勘繰る。
苛つくヤコブだが、自らリジーに問い質さずに、探偵に調査を依頼する。
ー リジーが浮気をしているシーンは一切描かれないが、それを思わせるシーンは映される。
更に今作ではリジーの出生や家族など、一切描かれない。-
・ヤコブが自暴自棄になり川に飛び込んだ後、助け出され二日間寝たきりになった際には、リジーは(多分一睡もせずに)看病し、漸く目を開けたヤコブに青白い顔で微笑みかける。
ー これも私見であるが、リジーは浮気をしつつも、実は一番大切に思っているのはヤコブなのではないか、と思ったシーンである。-
・だが、その後リジーがデダンと駆け落ちし、追いかけたヤコブは列車内の個室でデダンを殴りつけ、リジーに屈辱的な手紙を書かせ、一方的に別れる。激しい言葉を彼女に浴びせながら・・。
ー ココのシーンは、唐突感があり、もう少し掘り下げて描いて欲しかった気がするなあ。-
・1920年代の、作り込んだ、衣装、意匠も今作の趣を高めていると思う。
■白眉のシーン
・"第七章 7年後" とテロップが流れ、ヤコブは町を歩くリジーを見る。驚いた彼は知人にその事実を述べるが、知人は”彼女は6年前に死んだよ・・。”と口にする。
そして、歩いていたリジーの姿は、雲散霧消していくのである。
<今作は、海しか知らなかった男が、蠱惑的な美しさと謎を湛えた奔放な女性と結婚し、”結婚生活は、船の操縦にように自らが全て仕切れる訳ではない”と言う事を身を持って学ぶ姿と、
その奔放な女性が、実は自分の事を一番愛していた事を、その女性を失ってから気付く姿を、女性の視点で描いた作品なのである。>
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