「せめて両澤さんが御存命であったなら…」機動戦士ガンダムSEED FREEDOM 雑食さんの映画レビュー(感想・評価)
せめて両澤さんが御存命であったなら…
今や数あるガンダムシリーズの中でも地上波で初めて触れた、私にとって良くも悪くも様々な思い入れが詰まった作品、それがガンダムSEEDです。
TV版の終了から早二十年、SEEDのメインライターを務められていた両澤女史の訃報からもはや永遠の幻の存在となっていた劇場版の制作発表にSNSなどのソーシャルメディアに衝撃が走りました。
しかし、そんな中で私の心中にあったのは一抹の期待よりも「大丈夫か?」という不安の気持ちでした…。
SEEDの続編であるDestinyが放送され、そしてソレが生んだ数々の賛否や批判、爪痕を見てきた当事者にとっては期待を持つことすら難しかったからです。
そして結論から述べてしまえば、私が抱いた不安は見事に的中してしまいました…。
劇場へ足を運んだ私の眼に映っていたのは「SEEDの名を冠した公式の同人作品」でした。
もっと有り体に云うなら「オタクのオタクによるオタクの為の同人映画」。
よく言えば王道、悪く言えば手垢塗れのストーリー展開にまるでSNSか何かで見た二次創作ネタから逆輸入したかのように印象の違う主要キャラ達、某水星の魔女みたくSNS映えを狙ったような一発ネタは序の口。
全編の隅々までオタクを喜ばせる所謂「お約束」ネタが仕込まれており、人物達が紡ぐ台詞の節々は従来の作品と比較しても特に中身も重みもなく、終始「お前ら、こういうのが好きだろ?」と言わんばかりの薄ら寒いギャグが連続しシュールなムードを孕んだ勢いのまま物語はキラとラクスが結ばれたとこで幕を閉じます。
ストーリーをざっくり説明すると…
「新しい敵出現→敵の罠で主人公チーム敗北→ヒロインを攫われて心折れた主人公を仲間が叱咤する→新しい力を手にいざリベンジ→敵を蹴散らして取り戻したヒロインと結ばれハッピーエンド」…
以上。
誇張でも何でもなく先も述べた通り、映画の展開は映画らしく本当に絵に描いた王道、悪く言えば叩かれるリスクから逃げたテンプレな脚本になっています。
王道が決して悪いのではなく、あまりに脚本がストレートで中身がないのが問題でした。
幼稚過ぎて知性どころか魅力すら失った敵キャラ「アコード」、ファウンデーションの面々は正しく脚本の犠牲者と言ってもいいでしょう。
ラウやアズラエル等とは並ぶべくもなく、倒されるべくして用意された端役程度の存在感しかなくカタルシスもドラマも感じませんでした。
そのせいか、この映画の為に取ってつけた後付け設定が悪目立ちする始末。
それは敵側だけではなく、主要キャラであるキラ達も例外ではありません。
仮にも先の戦いを生き延びていながら幼児退行でもしたかのようなシン。
Destinyでもルナマリアから子供と言及されるぐらい年齢相応の幼さと青さが目立っていた彼ですが、続編を通じた精神的な成長が全く感じられないどころか言動も寧ろ年相応の学生メンタルのまま。
Destinyは作品として思うとこはあってもシンとステラの二人が好きな私としてはステラをネタとして消化したのも許せない部分でした。
アスランは公式ネタキャラ化。
なんか、今回の映画におけるアスランは徹頭徹尾ネタキャラでした。
「アスランがズゴックに乗ってきたら面白いだろうな」「アスランがスケベ妄想したら面白いだろうな」という、オタクが酒呑んで考えたようなノリが透けて見えて一周回って寒さすら感じます。
映画の登場人物達は全体的にそうした脚本の被害を大いに受けており、それは台詞の語彙の貧弱になって表れている為、今作のテーマが安っぽくメッセージ性の薄い印象にしか感じませんでした。
SEEDの頃からツッコミ所がない訳ではありませんでしたが、そういった粗さを補って余りある魅力があった事は紛れのない事実でしょう。
やはり二十年の月日も経ってると当時との思想の違いで解釈違いが出るのは原作に携わってる人間とて避けられないので、一ファンの心情としては終わった作品は掘り起こさずにそっとしておいて欲しいですね…。
惜しむべくはせめて「両澤さんが御存命であったなら…」の一点だけです。