「難儀するコミュニケーションを通して、コミュニケーションの本質を垣間見る」夏の光、夏の音 ピラルクさんの映画レビュー(感想・評価)
難儀するコミュニケーションを通して、コミュニケーションの本質を垣間見る
この作品は聾者と盲者の恋を描いています。
生来の聾者は、訓練したかたを除いて、発音は無理なので、声を使うことができません。相手の表情やしぐさは見て取れるので、触れて導くというコミュニケーションになります。盲者は音声がなければほとんどの情報は入ってきません。移動には常に危険がつきまとい、手慣れた生活圏内での暮らしを強いられがちです。
私たちが知らない言語を使う外国人とのコミュニケーションに手こずったとしても、この聾者と盲者のコミュニケーションの手こずりの比ではないでしょう。身振り手振り表情は使えず、お互い片言の英語で、というのも無理。同じ日本に住みながら、同じ日本語を用いながら、ふたりは遠いのです。聾者と盲者では「伝えられる方法」と「受け取れる方法」が限られるから。
喫茶店の店員とお客という関係から、このふたりの恋は始まり、そして奮闘します。例えるなら、ラジオでもって瀬戸内の島陰と夕焼けの空の美しさを伝えんとする人の奮闘、写真だけからモーツアルトの音楽の魅力を伝えんとする人の奮闘、それじゃダメだとわかっていても、そこで奮闘するしかないふたりなのです。
奮闘はときに美しい場面を描きます。花火のシーンは素晴らしい。手話の名シーンといえば『名もなく貧しく美しく』で電車の車窓しに語りあうふたりが有名ですが、それに匹敵する触手話的パフォーマンスの名シーンだと感じました。
作品は恋の展開と並行して、聾者・盲者それぞれのコミュニケーション方法についても紹介しています。手のひらへの文字書き。点字、手話、音声読み上げ機器。いまこの時代の文化が映し遺されている価値は大きい。
作品中で、手話と点字が意味をもって使われる箇所があります。健太郎が海外赴任が決まったことを智子さんへ手話で伝えるシーン、健太郎が智子に預けていた点字手紙を麻衣が受け取って読むシーン。
喫茶店の店長智子さんがいつのまにか手話を習得していたのにならい、私たち一般健常者もこの作品観賞を機に、聾者と盲者とのコミュニケーション能力を高めたいものです。
このように文化的側面にウェイトがあり、気づきを誘う作品ですので、ドラマとしては抑えめです。結びは、障がいゆえに前途多難であろうが、ふたりが真に信じ愛しあっているなら、あらゆる困難はものともされない。大きくすべてを包む愛があれば、きっと前途洋洋、どこまでも羽ばたいていける、といったところでしょうか。