こちらあみ子のレビュー・感想・評価
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トランシーバー
笑いもあるが笑えない。画面を境にして安全地帯にいる我が身にあって、偽善者にすらなれないであろう不寛容な自分に鞭を打つ。誰が救えようか。あみ子にとってはその人生だけが与えれたもの。他人から不幸に見えても、本人にとっては比較はできない。拒絶されれば心中にて語りかける。発達障害の話ではない。一方通行のトランシーバーは誰にもあること。辿る道は険しいが、怖くなんてない。海に入って浮かぶ幻想に訣別するシーンは相米映画を思い起こす。「おめでとうございます」と言ってあげたい。
成長という生きづらさ。
誰もが通り過ぎた子供の頃の"あの感覚"。
それを持ったまま成長"しない"あみ子。
しかし周りの同級生は成長して思春期を迎えていく。
変わらぬあみ子は次第に同級生と心理的な溝を深めていく。。
あみ子本人はいたって素直。
自分が思うままに話し、生きているだけ。
なのに彼女の奔放すぎる振る舞いによって、周りの大切な人がバラバラになっていく。
あみ子役がもう全く演技に見えなくて、もはやドキュメンタリーを見ているような没入感・実在感。
スクリーンの画角を活かした"見せない"カメラワークや特殊な音響も没入感に拍車をかける。
発達障害の子供と、その子供を抱えた家族の生き辛さ。それを見守る物言わぬ視点。
この包み込むような視点はいったい誰なのだろうか?
そんな事に思いを馳せつつ、エンディングを迎えてその歌詞を聴いていると。
なるほどあみ子の生みの親、今は亡き母親の視点に思えてくるのだ。
残酷な映画ではある。
でも、あみ子はそれでもしゃんと前を向いて歩く事を選んだ。
誰に言われるでもなく、進む事を選んだ。
そんなあみ子の姿勢に一縷の希望があるのかもしれない。
社会派 ヒューマンドラマ
あみ子のイージーではない人生模様を描いた作品
レビューより考察を見た方が深く作品を知れると思うけども感想を少し。
あみ子は金鳳花の花言葉のような性格
お父さんは家庭を顧みない仕事人間
お母さんは義母で心が弱い
お兄さんは心優しい子だけどグレる
のり君はマザコン
橘高亨牧はトトロの勘太くんみたいに良い奴
胸糞レビューがあるけど当事者でなければハートフルにも思える作品。
お父さんがネグレストってのは勘違いだと思う、男親だけならレンチンの食事は普通だろうし積極的に会話をしようともしない、あみ子を抱えて病院に走ってるシーンを見たのか疑問、おばあちゃんに預けるのもイジメを悟ってセーフティーの最適解として選ばれた場所だと思う。
初見だと見逃しも多いのでDVDなどで繰り返し見直すと考えさせられる作品になると思うよ!
油断禁物の傑作!
「いやぁ~、こういう映画と出会えるから、映画観るのは止められない」と思う力作。
子供の純真さをそのまんま行動・発言に出してしまう「あみ子」だが、あみ子の行動・発言が大人の心臓をえぐるような事もある。また、そうした「あみ子」に降りかかる災いのような出来事の数々にも耐えて元気に……という姿から、元気をもらえる気がする。
広島に住むランドセル背負った小学生のあみ子は、書道教室の先生をしている母親(尾野真千子)と家族を見守る父親(井浦新)、そして兄がいる。
ここで母親が「あみ子さん」と呼ぶので「実母じゃないんだ…」と思うが、母親のアゴに大きなホクロ。「尾野真千子のアゴにホクロ有ったっけ?…にしても大きすぎる?」と思っていると、カメラがしっかりズームして笑える(笑)
こうした風景を見ると「家族の楽しい物語なのだろうか?」などと思ってしまうが、トンデモナイ展開でビックリ!
油断禁物である(笑)
印象的なのは、映画開始しばらくは「小津監督好きなのかな?」と思わせるようなローアングル=あみ子目線で描かれるのだが、このあたりから気になる雰囲気。
この映画、森井勇佑という監督の作品で、長編監督デビュー作。
いきなり凄い映画を撮りあげたものだ。 傑作!
<映倫No.123025>
100億個
原作既読の為驚きなく見れた。原作の方がもっとオドロオドロしくあった気がする。怪我の部分も変わり、仕方ないのだろうけどそこはちょっと原作の中では大切な部分である気がする。原作でもあみ子目線なのでわからない所が多いまま話しが進んでいくのだが、誰もが救われない感じ。終わりは原作の方がら良かったかな?
メッセージ性と創造性と優先順位はどちらが上?
2022年キネマ旬報ベストテン第4位、森井勇佑監督作品。
いやぁ~、凄い作品です。凄いというより問題作といった方が適切なのでしょう。
しかしこれだけ長く映画を見続けていても、こういう作品をどう捉えるべきなのか?、私はこの歳(もうすぐ70代)になっても分からないのですよ。
こういうテーマ性の作品は映画ファンの為だけの作品ではないし、キネ旬ベスト4(通好み)っていうのもどうなのかって気もします。
本作は映画通からすると間違いなく優れた作品なんですが、優れた芸術性よりも分かりやすさの方が一般観客には効果的でもありますからね。その辺りの評価が難しいです。
ある精神疾患を持つ子供をかかえた家族の物語なのですが、同じ様な疾患を持つ人たちとその家族が鑑賞すれば様々な思いが駆け巡り何らかの影響を与えることは確実の作品です。
私の姪の今年5才になる娘も発達障害といわれていて、いまだに会話が出来ない状況なのですが、私ら遠くから見守るだけの存在でも、こういう作品を見るとその子の将来に対して様々な思いが湧き上がりますしねぇ。
しかしまあ、個人的には鑑賞して良かったとは思いましたが…
あみ子が切ない
物語早々にあみ子に障がいがあるのがわかる。
当然のように差別されるシーンもあり、中々普通の子どもと同様にいかない様は観てるこっちが辛い。
障がいに幻聴、幻視まで出てくるあみ子を観ているとこの作品が軽いものでは無くなってくる。映像化してお化けに扮した人物があみ子について来始めると厳しい。
兄貴はグレて暴走族入り、死産した母はうつ病になり、父親は家族を放棄して離婚、あみ子は祖母に引き取られ田舎へ…。
頭から終わりまであみ子はあみ子なりに生きているのだが、障害児にありがちな不潔、拘り、多動と理解されない様は悲しい。
作品の世界観としては差別にイジメは冷然として存在し、執拗に絡んでしまった“のりくん”にはぶん殴られるし、あみ子を包む世界は果てしなく厳しい。
終盤、習字教室に来ていた名も無き同級生男子が予想外に優しかったり、 あみ子なりに状況を理解しており、情緒的にも全く成長しない訳ではない事や何処かに誘おうとするお化けの集団にさようならと手を振るあみ子に幸せを祈ってしまう。
あみ子を排除するのは誰か
大前提として、作り手、受け手、ともに誰もあみ子ではない、むしろあみ子を排除する側の人間であるという認識がもてないのならば(そう感じさせられないのであれば)こういった映画は当事者(本当にあみ子である人間、そしてその家族)にとって悪夢でしかないと思います。
あみ子は「少し風変りな女の子」と設定されていますが、母親はじめ周囲の対応、でてくるエピソードなどから、発達障害であることが示唆されています。はっきりした明示を避ける表現は、受け手にあみ子が自分と地続きであるかのように感じさせることができる(あみ子をカテゴライズして自分と区別してしまわない)ため、作品の間口を広げたり、想像力や理解を促進する(他人事ではないと思わせる)
効果があります。
がしかし、現在の日本のように、発達障害(に限らずマイノリティ全般)に適切な理解も支援もない社会においては、カテゴライズを避けることがそのままその問題をスルーすること、あるいはただ問題を矮小化することにつながりがちです。「みんな色々辛いよね、私もそう。普通の人なんていないよ!だから一緒に頑張ろう」…というように、全て共感ベースの話に集約されてしまいます。
相手は自分と同じ人間であっても、全く別の人間である。このことは、健常者同士であっても常に認識していなければならないことだと思うのですが、病気や障害においてはなおのことだと思います。何故ならその大変さの中には、周囲や社会の理解が進むことで改善される部分が沢山あるからです。
病気や障害をもった人だけが大変だと言いたいわけではなく、誰にとっても生きることがそれなりの困難を伴う中で、自分の感じている大変さと(この映画の場合)発達障害やそれに近い性質の人およびその家族が抱えている大変さを同様のものとして捉えてしまうと、寄り添うつもりが相手を傷つけることにもなりかねないということ……本来ならそれはどんな人間関係でも言えることだと思いますし、病気や障害の場合は特に、一般的に善として語られる共感こそが、理解を遠ざけ、支援など福祉方面の充実につながりにくくなるという問題が生じがちだと感じます。
現に、「かつて私はあみ子だった」と共感に似た感想をのべる人を沢山見かけましたが、発達障害のような性質は、治るものではないどころか、多くの人が成長にともなってより苦しみを抱えることになります(成人したあとに二次障害で生活が困難になる人が多い)。監督はじめ、「かつて自分は~」と思うような人は、あみ子ではない可能性の方が高いのです。映画の中で、家族の中で、クラスの中で、あみ子が(現実的な意味で)ひとりぼっちだったことからしてみても、「世界に存在する大半の人はあみ子ではない」と考えるべきだと思います。しかしこの映画自体の目線は、主人公の私的な目線に徹底して同一化しつづけることで受け手が自分はあみ子側にいる
と錯覚しやすくなるよう作られており……それは監督の狙いそのものなのだろうと思うのですが、そもそもその監督、主人公、受け手の目線を一体化させることによって、現実に存在する発達障害児童やそれをとりまく問題を、「発達障害でない人や何も知らない人の共感ベース」に矮小化してしまっていることが問題なのだと思います。現実には、周りの大人がここまであみ子(非定型発達とおぼしき児童)を放置しておくはずがなく、この異常な状況は「リアルを描いている」というよりは受け手に発達障害を認識させないようにするための「逃げ」のような設定であり、一方でノリくんとの関係など、出てくるエピソードは発達障害に典型的な例を用いているとこ
ろが(原作通りとはいえ)タチが悪いなと感じます。発達障害を感じさせたくないのであればオリジナルのエピソードを考えるべきですし、発達障害を無視できないと思うのであればむしろ、周りの大人の苦悩に多くの行動が伴っていないのは(昭和初期の設定なら別ですけど…)、リアリティがなさすぎておかしいし当事者に失礼です。ファンタジーかリアリズムのどっちかにふりきれる必要はないけれど、この作品はそのどちらもを言い訳に使いながら往復している印象を受けます。
映画として美しいかどうか、俳優が素晴らしいかどうか、という以前に、現実社会に存在する、当事者にとって切実な問題を
、その問題点については巧妙に避けながら創作のモチーフにする……その必然性は、本当にあるのでしょうか?そもそも発達障害を感じさせる主人公がいる映画のヒットで、発達障害に対する偏見が根強くなってしまったという過去は、映画に関わる人間なら当然知っているはずです…… 結局監督側の鈍感さの問題だという気がします。正しいことをする必要はないし、社会問題にとりくめという話でもないです。ただ、当事者がいるモチーフには、もっと繊細に取り組んでほしかった。
監督は「自分の中のあみ子」を大事に創作したつもりなのだろうと思いますが、私には、この映画の公開が、あみ子の可能性(理解や支援)を奪い、共感という名目を隠れ蓑にした見えない排除(そうしている本人たちですら気づかない)を促すもののように思えてとても辛かったです。映画としての完成度は極めて高いと思いますが、原作だけでなくそれがうけた批判などもちゃんと読んで咀嚼できていなかったのかな、と思ってしまいます。今後の作品でまた自分の中の大切にしているものを表に出すなら、もっと繊細な振り返り作業をしてほしいと切に願います
あみ子はわたし…。
素直さは時にひとを傷つける。そんななかで、社会の慣習やルールに従属することを選ぶか、ひとと関わることを拒絶して生きることを選ぶか。息を殺して生きていくことの、なんて息ぐるしいことか。
たとえば天才バカボンのパパ、たとえばブッダのように
あみ子は最強だ。
忖度どころか、人への気遣いがない。ひたすらに自由だ。
未来への不安がない。ただ刹那の事実に生きている。
彼女の周りが、理不尽であればあるほど、彼女の強靭な生命力が浮き出る。この映画を成り立たせているものは、彼女への、一種の憧憬だ。
発達障害を正確に描写しているか、とか、周りの大人たちの理不尽な対応を告発すべきだ、とか、それらはこの映画にとって、どうでも良いことなのだ。
あみ子とは真逆の、常識と苦悩にまみれた私にとって、彼女のおかしみと正直さが爽快であれば良い。
この映画は、あみ子というファンタジーなのだ。
【不可思議なる諧謔と、哀しみが漂う作品。少し変わったコミュニケーション不全もしくは発達障害に見える“あみ子の見ている世界観”が不思議な余韻を残す作品でもある。】
■あみ子(大沢一菜)はちょっと風変わりな女の子。
優しいお父さん(井浦新)とお兄ちゃん、書道教室の先生でお腹に赤ちゃんがいる口元の黒子が印象的なお母さん(尾野真千子)、憧れの同級生・のり君たちと元気に過ごしていた。
だが、彼女のあまりに純粋無垢な行動は、周囲の人たちを否応なく変えていく…。
◆感想
・あみ子が、流産してしまったお母さんと流産した”弟”の為に立てたお墓。
ー だが、母はそれを見て狂ったように泣き出し、それ以来精神に不調を兆し入院する。-
・あみ子の兄も中学に入ってから、不良になりバイクを乗り回し、家には帰って来ない。
・唯一、あみ子の面倒を見ていた優しき父も、ある日”引っ越しをしよう・・。”とあみ子に言い、お婆ちゃんの家に引っ越しするが、”家に帰らないと・・。”と言い残し、あみ子を残し一人帰ってしまう。
■それでも、あみ子は一人海岸に行って、足元の波を蹴り上げながら遠き水平線を見つめるのである。
そして、海上には、中世の人々が船に乗って彼女を応援するかの様に手を招いてくれているのである。
<あみ子は自由に思った事を実行しているだけなのに、周りの人を混乱させて行く。
もしかしたら、彼女はコミュニケーション不全もしくは発達障害なのかもしれない。
今作は、そんなあみ子を俯瞰した視点で優しく描く。
中世の西洋の人々が突然現れて、行進するシーン・・。
“あみ子の見ている世界”を映像化したかのような不可思議なる諧謔と、哀しみが漂う作品である。>
引き算の演出が美しい
2022年劇場鑑賞52本目 優秀作 73点
もっと評価されてほしい作品だし日に日に評価を上げている
今作すごく秀逸なポイントが多くて、第一に伝えたいのはタイトルにもあるように引き算の演出が美しい作品です。
というのも、そう感じる場面は何個かあって、主人公のあみ子が発達障害を患っていることや養子であることを直接的に説明や明言がされておらず、それを前者は夜に騒音を感じるのを空耳だと感心なさそうに促す父だったり、後者は距離のある間柄に感じる母の会話や空気感だったりで間接的に表現されています。
でも正直確かに少しだけ精神的なところだったりが変わっているかもしれませんが、言ったら普通の子と紙一重くらいでしか違いは無くて、でもそれは鑑賞している我々のような第三者だから容易にに言えることで、いざ同じクラスメイトだったり親族だったりするとそうにはいかないんだろうなあと、ちゃんと想像できるから両親も周りの子も憎めない(語彙力
他にもトランシーバーや最後の落とし方など秀逸なシーンや表現はあります。
本当に心が号泣しそうになるくらいグッとくる作品です。
是非。
素晴らしかった。人はこうやって排除されていくのかということを知る。...
素晴らしかった。人はこうやって排除されていくのかということを知る。わかりやすい福祉ものではなく、あみ子の暴力も描く。オノマチと彼はさすが。冒頭から映像シーンが美しく隠喩的。あみ子にとっての世界が映像として語られている。
あみ子を理解してくれる人や、あみ子の居場所があったら、もっとあみ子...
あみ子を理解してくれる人や、あみ子の居場所があったら、もっとあみ子は生きやすいだろうなぁ……
本来なら父親がその役割だったんだろうけど、父親自身に何も情報得られずにいて、その結果あみ子を実家に預けるしか選択肢がなくなった。
もしかしたら、1番の理解者は兄だったのかも。
いずれにしろ、居場所って必要なんだなということは、この映画を観て改めて感じた。
自分の意思が不変であれば人間は生き続けられる
あみ子から見る世界はけっして壊れていない。
弟(妹)の死は、「生まれてきたもん。生まれてきたけど死んどった」
母親は心の病になり、兄は不良になり、両親は離婚へ。あみ子も不登校に。
端から見ると壊れているのに、あみ子の世界はやはり壊れていない。
そこに、壊れていく運命に翻弄される少女の姿はない。
その類のお涙頂戴の物語は数多くあるけれど。
運命は変えられない。世間の目も変わることはない。
でも自分の意思はいつでも変わらない。
自分の意思が不変であれば人間は生き続けられる。
原作の今村夏子のポリシーが、見事なまでに再現される。
映像でしか描けない、あみ子この一瞬見せる悲しげな表情にぐっとくる。
あみ子のイメージにぴったりの大沢一菜に目が潤む。
子供時代との決別。
人は皆自分の内なる世界を持っている。同じ世界に住んではいても人々の内なる世界はそれぞれ異なる。社会においては成長する過程において皆が内なる世界を捨て、あるいは外の世界と折り合いをつける術を身に着けてゆく。
あみこはそれが出来ないかあるいは人より遅れている。だからなにかと外の世界では変な子と見られてしまう。
画一化を目指す今の日本の学校教育では天才は育たないと言われる。子供の個性を伸ばすのでなく同じように行動する人間の育成が第一だからだ。かつて軍隊や工場労働者の大量生産のためにはそれでよかったのかもしれないが、現代において新たな発想ができる突出した能力の育成には不向きであろう。
あみこは学校でもつまはじきにされ、家庭も崩壊してゆく。父にも捨てられたあみこは内なる世界の住人と別れを告げる。そうして彼女は子供時代との決別を遂げるのであった。
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