スーパーノヴァのレビュー・感想・評価
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決意の重み
20年来のパートナーであるピアニストのサムと作家のタスカー
タスカーは若年性認知症を患い、日常にもその影響を濃くし始めている
キャンピングカーでイギリスのハイランドを目指しながら、サムの家族や友人たちに会いつつ旅するふたり
愛するが故のそれぞれの想いが物語を紡いでいく
物語自体は淡々と進んでいくが、2人の俳優が見事に色を付けていく
ただ、LGBTQで描くことの意味は特に感じられなかった
異性愛者でも同性愛者でもこの物語の本質が大きく変わるようには思えなかったから
でも、この2人、と考えるとこの設定にも意味があるのかもしれない
自らのこの先を知り、自らを失っていくことに耐えられないと思うタスカーの決断
自分を分からなくなっても、支えていきたいと思うサムの決断
2人の想いは変わったわけではないのに、お互いを想っているのに、タスカーの病が2人を引き裂いてしまう
逝かせるのも愛なのだろうと思う
でもその時が来たら、それを受け入れるのは決して容易なことではない
そして、自分が自分でいられるうちに、自分で決められるうちに、自分で動けるうちに、そう願うかもしれない
たとえ愛する人を深く哀しませることになろうとも
2人の激しい衝突の翌朝
サムの一言、その決断が重く響く
let me go with you(字幕は「ずっと一緒だ」だったかな)
熟年夫婦
の様な二人が、片方の認知症悪化を目の前にしてお互いを思いやり、悩む。思い出を辿り、懐かしい人達に会って、思い出を残そうとする。最後は認知症を患ったタスカーが、自殺をする事を考えるが、もうサムに知られてしまう。最後に二人は…。
期待値を上げず自然体で
観るべき映画でした。
人生はほろ苦いからこそ、よくも悪くも面白い!
そんな事を考えながらパートナーのいない私は、自分の行き方を考えてしまったのでした..
余談
某日本映画で同じようなテーマの映画があって、レビューしましたが、国民性なのか曖昧なラストで終わったことは、つくづく残念です。
哀切の物語
ピアニストのサムと作家のタスカーは、長年時間を共にしてきたゲイカップル。タスカーは病のため認知症が進み、いずれはサムのことも忘れてしまうと思い詰めている。
サムの久しぶりの演奏会のため、二人は車で旅をする。途中、サムの実家に立ち寄り、姉夫婦や友人の歓待を受ける。その夜、サムはタスカーが隠していたものを見つけてしまう。
湖水地方の美しい景色を背景に、老境に入った二人の旅を淡々と描くこの映画は、二人の抑えた演技と相俟って切々と感情に訴えかけるものがある。もちろん、愛し合う二人の性別がどのような組み合わせであっても一応は成り立つ物語ではあるのだけど、男同士だからこその哀切を感じさせ、何が起きたのかを思い描かせるラストも含め、余韻の残るいい物語だった。
なお、完全に余談だが、コリン・ファースがヒゲを生やすとああなるというのがちょっと個人的に衝撃だった。
しみる。
主演二人の演技に美しい自然、こころにしみる。相方が生きた記憶をどんどん失くしていったらどうするだろう。家族がいと友がいて人間関係があってこその人生だけど結局決めるのはふたり。思い想われ、そういう人生歩めただけで幸せかも…。
人生のしまい方
ロードムービーのスタイルで、パートナーとの繋がりを深めていくスタイル。
セリフのニュアンス・表情・仕草などから、会話に潜む裏の意味を読みとっていく必要があり、観客にとっては少々ハードルの高い作り。
ゲイについては自然なこととして、誰も咎めない姿勢が貫かれていてよかった。
つまりこれは性別に関係ない、パートナーとの人生のしまい方の話だ。
相手を思う故に、片や病気が進行して意識あるうちに自死を選びたがり、片や意識のない生ける屍となったパートナーを死ぬまで面倒みるという決意を選ぶと主張する。
映画の中に、どちらが正しいという答えはなく。
何を選んでも愛なのだというメッセージが詰まっていた。
タイトルは、身や心が塵になっても、「超新星(スーパーノヴァ)」のように、最後の瞬間に輝きを放つ鮮烈な愛のある生き様(死に様)でいたい、という意味なのだろう。と思った。
スーパーノヴァとは、恒星の死による大規模爆発現象のことで、以前、S...
スーパーノヴァとは、恒星の死による大規模爆発現象のことで、以前、SF映画でも同タイトルの映画がありましたね。
ピアニストのサム(コリン・ファース)と作家のタスカー(スタンリー・トゥッチ)は20年来のパートナー。
しかし、タスカーが認知症を患って執筆から遠ざかり、サムも演奏活動から遠ざかっていた。
そんなある日、サムのもとに演奏依頼が届く。
場所は、サムの実家の近く。
いい機会だからと、ふたりはキャンピングカーで旅に出ることにした・・・
といったところからはじまる物語で、ダブルベッドで眠っていたふたりの画から始まり、映画はすぐにキャンピングカーの運転席と助手席へと移ります。
ふたりの職業、タスカーの認知症、久々の演奏依頼、サムの実家への立ち寄りなどの事情は、道中でふたりの言葉や態度で少しずつ明かされることになります。
この道中芝居がややまだるっこしく感じられるかもしれません。
途中立ち寄ったダイナーでみせるタスカーのちょっとお茶目で意地悪な言動(ふたりを知らないウエイトレスに対して「(サムを指して)彼のファンで、声をかけづらいなら、僕からサインを頼んであげようか」という)のようなコミカルなシーンがもう少しあれば良かったのですが・・・
サムの実家への立ち寄りは、タスカーがサムの姉とかねてから計画していたもの。
サムの姉が実家を処分するので、その「さよならパーティ」。
サムには知らされておらず、びっくりパーティでもあります。
サムが少年時代に寝た狭いベッドで、ふたりが狭苦しく寝るあたり、もう少しコミカルでもよかったかも。
その後、サムはタスカーの秘密の計画を知ります。
うーむ、やっぱり、話はそっちの方に流れていくのか・・・
なにせ、タイトルがタイトルだけに、死については意識せざるを得ません。
新しく購入した森の中の別荘で、サムとタスカーがお互いの心情を吐露するのが映画のクライマックス。
ふたりの想い、切ない・・・
映画は、決着地点をあいまいに観客に委ねたまま、久しぶりに弾くサムのピアノの切ない旋律を残して終わりますが(曲は、エルガーの「愛の挨拶」)、エンドクレジットで確認すると、このピアノ、コリン・ファースが実際に弾いているのですね。
英国の地方ロケも美しく、名優ふたりの演技も見どころがあるのですが、映画としては少し食い足りない感じがしました。
短編小説か、舞台劇で観る方がいいような感じでした。
【失って悲しいと思うもの】
上映館は多くないみたいだけど、多くの人に観てほしいと思った。
「失って悲しいと思うものは、良いものということ」
もし、それさえも忘れてしまうのであれば、もっと悲しいだろう。
忘れることも、忘れられることも、怖いし、そして悲しいのだ。
この作品は、こうした状況を巡る、サムとタスカのやり取りが切なく、しかし、とても暖かい。
エンディングでサムが弾く「愛の挨拶」は、エルガーが妻に送った曲だ。
イギリスが舞台の作品であることもあって、エルガーがチョイスされたと思うが、エルガーと妻が、階級(エルガーが庶民)、宗教(カトリックとプロテスタント)、年齢(エルガーが相当年下)を乗り越えて結ばれたことも、サムとタスカに重なるところがあるのだと感じる。
ただ、この作品には、こうしたノン・バイナリーについてあれこれ考えるところは、ほとんどない。
2人の愛し、信頼し合う関係が、あまりにも自然に感じられるからだ。
記憶が無くなっていくというストーリーが、そうさせていると考える人もいると思う。
しかし、僕は、コリン・ファースとスタンリー・トゥッチの演技が、僕達を終始2人の心の揺らぎに釘付けにし、他の考えを寄せ付けないようしているのだと思う。
認知症という物語の背景はありつつも、ジェンダー云々のカテゴリーを超えた、人が人を愛するというところにフォーカスし、葛藤を深く表現した秀作だと思う。
うーーん… 物足りなかった
演技力の確かな2人の掛け合いはさすがだし、多い会話の中で自然と2人の絆も感じさせる。
…でも、ストーリーが少し淡々とし過ぎてて退屈でした。何度もウトウトしました。
不治の病って、なんなんだろう?ってそればかり考えてしまい、気になって仕方なかったので気が散りました。
病気だと認めているのに薬は…
不治の病を患う小説家と、彼と20年来共に暮らす最愛のパートナーのピアニストの話。
人生の後半に差し掛かり、終末期を考える様になる年配カップルに降り懸かった難題を描いた恋愛物語ですね。
愛犬ルビーちゃんを連れてキャンピングカーでサムの姉家族宅へ向うところから話が進行して行く中で、徐々に病気のことを絡ませて見せて行く展開。
重々しい空気感という作品ではないけれど、淡々としたみせ方で明るさをあまり感じられず、互いのことを思うが故の、勝手な考えで巻き起こる拗らせを解いていく様はつまらなくはないし、共感出来ない訳でもないけれど、恋愛映画として如何にも、という感じがしてあまり自分にはハマらなかった。
「不治の病」というのも、間違いではないけれどハードル上げちゃっていたかも。
それと、とりあえず、性的マイノリティーと言われる方々の行きづらさみたいなものがあるのかな〜と思っていたが、姉家族も友人達も普通に接していて、そういうメッセージ性みたいなものはなく、車中の会話でほんのちょっと述べるのみ。
個人的にはそれを全面に主張してこられるのはあまり好みじゃないので良かったけれど、それならそんな会話もいらないのにと中途半端にも感じた。
恋愛映画好きな人がみたら面白いのかもしれないけれど…。
ロケ地、音楽、名演技
やはり映画の魅力はスクリーン一杯に広がる映像と音楽があっての名演技。
イギリスの雄大な自然と美しい音楽に、子供が介在しない二人だけの純愛。
もうこの要素だけで耽美な映画。ロケ地のイギリスのハイランド地方は本当に最高の自然。
スタンリー・トゥッチの表情豊かな演技が凄く印象的。佳作でした。
2人の掛け合いは魅力的
C.ファース演じるサムとS.トゥッチ演じるタスカーの夫婦愛の話である。
病名は確か作品では明かされてなかったと思うがタスカーは不治の病を患い記憶も次第に薄れていきあとは死期を待つ状態となる。
そんな中2人はサムの故郷に旅をし、サムの親族達と触れ合いながら苦しいひと時を少しでも紛らわしながら前向きに過ごそうとする。
そんな中終盤にはタスカーが記憶もなくなり体も自由に動かせなくなり全てをサムに任せっきりな生活を送るこの先の事を見据え、それらを拒絶し自殺する決断をしていることをサムは知る事となる。
もちろんサムはタスカーの決断を最初は否定するも否定し言い争う時間すら無駄に感じこの一瞬一瞬を大切にしようとしながら作品は終わる。
ファースとトゥッチの掛け合いは非常に美しくそして繊細さも見せてくれ非常に魅了された。
LGBT作品ではあるが自然な感じがあり比較的ポプュラーに見られる作品にも思える。
ストーリーは正直あまり理解が追いつかなかったかな。タスカーが病気でサムの故郷を訪れるストーリーではあるがそれ以上になにか展開が待ってるわけではない。
彼らの会話劇が中心になるのだが、彼らの人物像だったり背景が丁寧に描かれているわけでもない。
残り少ない時間を愛し合う者同士が過ごす淡いストーリー以上のものは無く少し退屈さを感じてしまった。
主役の2人の演技を楽しむ事においては十二分に楽しむ事ができた。
彼らのファンには勧めることのできる作品ではある。
湖水地方の風景と儚くも美しい物語
実力派俳優たちの繊細な表情にため息の出るような湖水地方の美しい風景、心揺さぶられる音楽。久々に芸術作品に出会ったようだ。
今生きている私たちを平等に待ち受けているのは“死”である。死に対しどのように向かうのか。認知症と安楽死をテーマに、だけど決してシリアスには描かずに、美しく前向きに描いているようにも感じた。
冒頭から映し出されるキャンピングカーに乗る2人のカップルは20年以上連れ添ったピアニストのサムと小説家のタスカー。タスカーは若年症認知症を患っている。サムの演奏会に向かうまでを2人はキャンピングカーで旅し、サムの実家を経由しハイランドの上を目指している。
刻一刻と症状が悪化するタスカー、愛するサムに迷惑をかけたくない、自分の変わり果てた姿を見せたくないと自死を望むタスカーに対し、愛した人を最期まで愛し貫くと腹を括ったサム、互いが互いを思い合う故に2人の間で大きく意見が食い違う。
第三者目線からみても甲乙付け難いほど両者の気持ちが痛いほどわかる。
悲しい物語ではあるが、題名の「スーパーノヴァ」のように、人生でこんなにも愛せる人に出会い、輝いた人生を送れた2人がただただ羨ましい。
スーパーノバのように消えて行った
スーパーノヴァの NOVAとは、新星のことで、それにスーパーが付くから「超新星」。星がその核の原子力を失うと、爆発して粉々になって滅ぶがそのときの光は太陽よりも明るい光となって消えていく。その大爆発を超新星爆発という。銀河系の中で起きる超新星爆発による衝撃波は、星どうしの密度に揺らぎを生み出し、新たな星の誕生を促すのだそうだ。私たちが何気なく夜空を見ていて、強く光を発する星があるかもしれない。その時私たちは何千億光年という遠い昔に激しく瞬いて、光と共に消えて行った星の残骸を見ているのかもしれない。残骸は周囲のガスに衝突して断熱圧縮されて高温を維持する。そして高温を維持できなくなるまで数万年輝き続ける。ふたご座にも、おうし座にも白鳥座にもその残骸がある。爆発の時、光となり、粉々になった星の粉は、地球に落ちてきて、私たちの体の一部になる。
そんなことを、夜空をみながら、作家のタスカーが、恋人のサムに繰り返し語って教えている。
タスカーは2年前に若年性認知症と診断されて、いまは、思考する自由も、体の自由も失いつつある。名のある作家として活躍してきたが、20年来の人生のパートナーであるサムに面倒をかけている。2人は休暇を取って、キャンピングカーで昔の友人や、タスカーが生まれ育った田舎を旅行することになった。サムは、いまはタスカーと会話を楽しんでいるが、もう自分で服を着ることもできなくなったタスカーが、じきに普通に日常生活を送ることもできなくなり、サムのことを認識できなくなる日も近いことを予感している。サムはタスカーが自分のことを忘れてしまっても、そばにいて支え、排尿便出来なくなっても世話して、自分の腕の中で死なせてやりたいと心に決めている。
二人はタスカーが生まれて育った田舎で親戚や兄弟たちと、なごやかに過ごした後、湖に面した、静かな山荘に数日間過ごす。しかし、サムは偶然、タスカーが毎日几帳面につけている鍵つき日記帳を、開けて中を見てしまう。そこにはもう活字がかけなくなっているタスカーの殴り書きと、自殺用の薬が入っていた。タスカーには、まだ自分の意志で自ら死を選ぶ判断力も行動力もある。しかし進行性の病ゆえ、明日それが実行できるかどうかわからない。じきにタスカーがその薬が何なのかわからなくなったら、自分の意思を達成することもできなくなる。サムとの激論の末、タスカーは言い争いに疲れて眠ってしまう。目が覚めた時、机の上には彼の鍵つき日記帳が置かれていた。もう心配することも、思い残すこともない。トスカーはしっかりとサムに抱かれて旅立つ。
というストーリー。
美しい映画だ。イングランドの自然がいっぱいの田舎、深い森、静かな湖、落ち葉の絨毯。冷たい清涼な風。「明日」がない二人の愛情が画面をみながらしっかり伝わってきて、せつない。コリン ファースも、スタンレー ツチも素晴らしい名優だ。年を取って、二人ともどんどん魅力的な役者になってきた。
テーマは認知症と尊厳安楽死。星もいつかは爆発して滅亡する。星の爆発で地球に降りかかってきた粉をまとった人間もいつか死ぬ。尊厳死を望む人間が認知症に陥った時に、どう死ぬべきか。
オーストラリアでは、ビクトリア州(州都メルボルン)で、2017年に「VOLUNTARY ASSISTED DYING法」(医療的自殺ほう助法)が立法化され、2019年から施行されている。施行後6か月で52人の末期患者が安楽死で亡くなった。そのうち42人が医師の処方の薬で、9人が医師の静脈注射で亡くなった。安楽死の条件は、成人で、ビクトリア州に1年以上居住し、余命半年以下であると2人以上の医師に診断され、生存よる苦痛が耐えがたいと認められた場合に限っている。
ビクトリア州に続いて、タスマニア州と、南オーストラリア州(州都アデレート)でも同様の安楽死法がすでに議会で決議され、来年からの施行を待っている。安楽死は、EUでは、スイス、オランダ、ベルギーなどで同じような条件つきで認められている。しかし、オーストラリアの法は、医師が患者に直接静脈注射で致死量のモルヒネを投与できるという意味では、EUの国々の法よりも積極的に患者の要望に応える内容になっている。
これに対して、バチカンでは神に対する冒涜だと、おきまりの批判をしている。しかし、人間は自分の人生に自己決定権をもち、本人の尊厳を守るために苦痛より安楽死を望むのは自然の流れだ。私は医療現場にいて、パラテイブケア(終末医療)に関わっているが、処方箋に従って、たくさんの末期患者にモルヒネを投与してきた。 命は時として科学では説明できない。治療効果がなく、飲めない食べられない状態になって輸液もせず、全身皮膚がんに侵された90歳の患者が激痛に苦しみぬきながらも死ねず、1か月以上も生存しなければならなかった例を見てきた。
オーストラリアは6州1準州と特別区に分かれているが、6州のの半分の3州ですでに安楽死法が議会を通過した。今後、安楽死法は各州で論議され、法整備されるだろう。
この映画は、ゲイのカップルが片割れを安楽死させる。 少し前まではタブーだったことを正面から描き、美しく描写している。人は長く生きるようになりすぎた。人はどう生きるのか、そしてどう死んでいきたいか、もっとオープンに語られなければならないが、この映画がそのきっかけになれば良いと思う。
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