草の響きのレビュー・感想・評価
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走ることで、走る喜びを感じる
心の病を抱えた夫と、支えきれない妻の重たい物語でした。
重たいテーマでした。
原作者・佐藤泰志の実体験なのでしょうか?
心の変調で出版社を辞めて故郷の函館へ帰ってきた和夫(東出昌大)。
妻の純子(奈緒)も一緒だ。
故郷に帰っても体調は回復せずに、次第に自分を追い詰めていく。
実際に精神疾患(うつ病や統合失調症など、)の家族を持つ人は多いと
思います。
医師から運動療法としてランニングを勧められる和夫。
そんな中、純子は妊娠しますが、自信のない和夫は、思いやりある言葉を
掛けることが出来ない。
そんな自分に失望する和夫だった。
そしてある夜、貯めていた精神科の薬を多量に飲み意識を失う。
病室でベッドに上半身を拘束されて拘禁病棟に入院します。
和夫は、
「生きていても仕方がない」
「苦しむために生まれてきたのだろうか?」
生きることが困難な人は、実に多い。
この映画はそんな人のための回答はどこにもないのです。
奥さんの純子は、犬の二コまで連れてフェリーで東京へ帰って行く。
(出産のために親元へ帰っただけかもしれないけれど・・・)
なんのアドバイスにも解決にもならない映画でしたが、
ラストの精神科病棟のベランダを乗り越えて走っていく和夫。
その顔が喜びに光輝いているのを、どう解釈したら良いのか?
ここでない場所・・・
和夫が自由に生きられて羽ばたける未来・・・
和夫の顔が輝き希望に満ちるのを見て、
戸惑ったけれど、
ただただ無性に和夫は、
走りたかったのかも知れない。
「普通」に生きることの大変さ、人間関係の難しさ等を考えさせられる作品
「普通に生きることの大変さ」を描いた作品だと感じた。
運動療法により徐々に快復していく和雄だったが、それでも時折急に不安に襲われる姿(病気は良くなっているのか、父親になれるのか、友人がいなくなって大丈夫か)が気になった。やはり、一度ついてしまった心の傷は簡単には治らないのだなと改めて感じた。
また、「人間関係の難しさ」を描いた作品でもあり、特に夫婦間に考えの違いが多く見られたのが印象的だった。
「狂わないように走る」と言う和雄と「狂ったように走っている」と言う純子、妊娠している純子の隣で平然と喫煙しようとする和雄、「スープを温めて飲んで」や「洗濯物が乾いたらしまっておいて」等と言い"普通"を求める純子とそれらが"出来ない"和雄。(精神が病んでいる和雄にとっては、このような"普通"のことを行うのも難しいのでは?)
このように2人の溝は深まるばかりで、これだとずっと一緒にいる(夫婦として生きていく)のは難しいかな、と思ってしまった。
個人的には、「私が重荷になってる?」「自分だけ傷付いてるみたいなこと言わないで」「こちらも辛い」「自分のことばっかり」「同じところを走っていても、いろんなものが見える」「余裕がなかった」「他人の気持ちに触れやしない」という言葉が響いた。
あ~やっぱりそうなるのか~のエンディング
主人公工藤和雄は心を病んで
最初から最後まで苦しみ続けます
そこが痛すぎて観てるのがつらかった
あ~結局そういう結論になるんだね~
といったちょっと切ない気持ちになって映画館を後にしました
これじゃ今まさに心を病んでいる人は
報われないよ
お互いこれでいいの?ホントにいいの?
和雄にとって背負ってきた重荷がなくなること
それでいいのか
お互い寄り添いあって助け合ってこその夫婦
そうなっちゃうと元も子もないじゃないかなあ
結局精神的に病んだ人の家族の行く末は
そうなっちゃうのかなあ。。。
後味悪いなあ
せめて純子には子供が生まれたら和雄のもとに
帰ってきてほしい。
そう願わずにいられません。
【男は走る、精神の健康を取り戻すために・・。男は走る、何かから逃げるように・・。そして、妻はある決意をする。繊細な人間模様を、男と若者達との交流を絡ませて描いた作品。】
ー カズオ(東出昌大)は、自立神経失調症になり、東京から妻(奈緒)と共に、故郷函館に戻って来る。不眠症になってしまったのか、病院から薬を処方されている。
そして、精神の健康を取り戻すために、運動療法として、ランニングを始める・・。-
◆感想
・カズオは、只管に走る。雨が降って来ても、夏の暑い日も。そして、タイムと走行距離をノートに几帳面に記録する。
カズオの函館時代の友人、ケンジ(大東駿介)は、カズオ夫婦を案じているのか、頻繁にカズオ宅を訪れる。最初に、カズオを心療内科に連れて行ったのも、ケンジだという事が語られる。妻の言う事をケンジが聞かなかったから・・。
- 東京からカズオと函館に来た妻は、孤独感を抱えている。そして、妻はカズオの只管の走る姿を”狂ったように・・”と表現する。意味深な言葉である。-
・カズオは、連日走る中、スケボーに乗る高校生アキラ(Koya)と彼の友人ヒロトと出会う。アキラは函館に来たばかりで、友達が殆どいない。ヒロトの姉エミと、3人は一緒にいる事が多い。
- カズオと妻とケンジの関係が、アキラとヒロトとエミの関係に見えてしまった。そして、後半カズオとアキラの哀しき行動がシンクロするのである。-
・カズオの妻に子供が出来る。トイレで小用を足していたカズオが検査道具を見つけた時の、二人の反応。
ー ”子供が要らないの?。””そんな事、ある訳ない・・。”-
・ケンジが、カズオ宅を訪れ、元教え子から貰ったというメロンを3人で食べるシーン。妻は言う”元生徒から、メロンが届くなんて、慕われていたのね・・。”
ケンジはカズオが来ているにも関わらずランニングに出掛ける。
別の場で、ケンジはカズオの妻に言う。”アイツ、昔は何でも上から目線で見る、嫌な奴だったんだ・・。”
・アキラはバスケ部の同級生達から”夏になったら、海の岩場から飛び込もうぜ。ここら辺では皆経験しているよ・・”と言われ、”良いよ”と答えるが、彼は泳げなかった。プールで練習するアキラ。心配そうに声を掛けるヒロト。
- 再び、カズオとアキラがシンクロして、見えてしまう・・。-
・カズオが、走っているとヒロトが寄って来て、”アキラが死んだ・・”と告げる。動揺するカズオ。
- 画面では、アキラは一度は遊泳禁止と書かれた看板の前で注意されるも、彼が再び岩の上から海へ飛び込むシーンが映される。-
・カズオは、いつものように妻とケンジと飲んだ後、震える手で、睡眠薬を大量に酒と共に飲みこむ。翌朝、異常に気付いた妻のお陰で、胃洗浄をし、一命をとりとめるカズオ。
- 妻が涙を浮かべながら、カズオの事が好きになった理由を語るシーン。
”何で、こうなっちゃったのかな・・”
カズオは、妻の心の変化に気が付かない・・。
奈緒さんの哀し気な表情が、心に残る。凄い女優さんである。-
<妻は、愛犬と共にフェリーで東京に帰ると、近所の若い女性に言う。
そして、走らせる車の中で、妻は初めてキタキツネを見て、涙ぐむ。
助手席に置かれたスマホにはカズオからの電話着信があるが、彼女は気が付かない。
カズオは病院から妻に買ってきて欲しいモノを留守電に入れる。
繊細な人間模様を描いた、繊細な趣の作品である。>
□東出昌大さんという、稀有な若手俳優さんが、自らのスキャンダルで映画に出ることが少なくなり、この作品が、3年ぶりの主演作だそうである。
劇中、主人公の走る姿が東出さんと被って見えてしまった。
矢張り、素晴らしき俳優さんである。
苦しいだろうが、頑張って頂きたいと今作品を鑑賞して、思ってしまったよ・・。
<2021年11月28日 刈谷日劇にて鑑賞>
心と向き合う苦しみと優しさ
感謝しながらも、心の病の為妻を支えきれず苦しむ出版社元社員和雄を、東出昌大さんが熱演。ただひたすらに走るその姿が美しい。
和雄の心に寄り添う高校教師の親友研二を演じた大東駿介さんの優しい表情、眼差しに魅せられた。
和雄を優しく見守る妻純子を奈緒さんが好演。空回りし、心が折れそうになりなからも前を向く姿に、女性の秘めた強さを感じました。愛犬ニコと戯れるシーンに癒されました。
精神科医役の室井滋さん、高校生彰を演じたKayaさん、彰の友人弘斗を演じた林裕太さんも好演。
心の病を抱える辛さ、人の心の脆さの描き方がリアルで、ラストの吹き込まれたメッセージに希望を感じた。
生きてこそ、改めてそう思った。
映画館での鑑賞
共感できる作品
自身の感覚が大きく影響していると思いますが、奥さんのに対して感情はあると思いますが、好かれた原因がちょろいと台詞にあったように自身の意思よりも先に進んでしまって、
主人公は自分のような人間にはなってほしく無いという話しからも。家庭環境、子供に対して感情があるが、自分が良い影響をもたらすことは無い、自分の存在が自分の大切な人物に悪い影響しか無いと感じていると思います、
大切な存在だと思えるほどに、自信の存在は無い方がいいと思える。
ランニングのみがそういった一切の感情からも離れられる行動でした。
自身の感覚では辛いエンディングで、ランニングをして何か自身周囲を一時的に感情から離れる行為にはなるが。
周囲に救いになる存在が有るだけに、そこに頼ってほしい、自分は大丈夫だと感じてほしいと思いました。
原作を肉付けし、新たな魅力を備えた作品へと昇華している
主人公の和雄は世間一般に信じられている価値観を十全に理解している。結婚して、子供が生まれる。喜ぶべきことだ。だが、和雄は喜ぶことができない。考えてみれば、それはそうだ。子供をを育てるということは楽しい事ばかりではない。一人の人間の人格形成に、何年にもわたって責任を負い続けるということは、かなりの重荷だ。子供は天使ではない。時には悪魔にもなる。単純な事実だが、見落とされやすいことだ。もちろん、これから親になるという人間が、そういうことを全く考えないということはないだろう。だが、子供ができたら、まずは祝福をするのが相場と世間では決まっている。子供ができたと報告して「大変だね」と言ってくる人間はいない。子育てには苦楽が伴うが、まず“苦”には一旦目を瞑って“楽”の方だけを見なければいけない。世間ではそういうことになっている。精神を患っている和雄には“楽”より“苦”の比重の方が大きいのは明らかだ。それでも世間の価値観を理解している和雄は、それに自分を合わせようとする。“まとも”になればなるほど、和雄は苦しくなっていく。
和雄は憑かれたように走る。走っている時、和雄は幸せだったろう。走っている間は、現実の問題を忘れることができる。自分以外には何もなく、ただ一人の人間としていられる。そんな時に出会う高校生たちは、大人とは違い、まだ自分の考えと世間の常識との違いをうまく合わせられずに悩んでいる同類だ。だが、和雄の合わせ鏡であったような存在の彰は死んでしまう。
唯一の親友である研二は、病の和雄を置いてスペインに行ってしまう。和雄のことを心配して言葉をかけるが、どこか上っ面だけの印象だ。大人の男の友情というものを、残酷なまでにリアルに描いている。友人である和雄のことを心配している気持ちは嘘ではない。ただ、深くは入り込まない。和雄に和雄の人生があるように、研二には研二の人生がある。深く立ち入りすぎて、面倒事を請け負うようなことはできない。青春ドラマみたいに、殴ったり叫んだりして友情を貫き通すなんて真似は、現実にはありえないのだ。
妻の純子は原作にはいない登場人物だ。純子の存在が、原作にはない付加価値を映画に与えている。
純子は孤独だ。和雄には研二や純子が寄り添おうとしているが、純子に寄り添う人間はいない。純子にとって心を許せる存在は犬だけだ。たしかに犬は大事な存在だが、人間ではない。純子に必要だったのは、女友達だろう。男にとっての男友達より、女の女友達はずっと重要な存在だ。だが、夫に付いて見知らぬ土地に来た純子には、気軽に会えるような友達はいなかった。そんな簡単な話ではないことは承知だが、純子に女友達がいたら、物語の行き先は多少は変わっていたかもしれない。
最後に、和雄は崖の前で横を向き走りだしていく。死んだ彰とは違う、生きることを選び取ったラストのシーンは素晴らしかった。
演じる役者と物語の中の役を重ねて観るようなことはあまりしないのだが、映画の公開前後に和雄役の東出昌大のスキャンダル報道があった。世の中でうまく生きられない和雄と、問題ばかり起こしている東出が妙にシンクロしていると感じた。映画の興行への影響はわからないが、作品の内容にはむしろプラスに作用したのではないかと思っている。演技のうえでも、これ以上ないほどのハマり役だった。この作品を通して、彼の演技をこれからももっと観たいと思った。
東京の出版社で編集者として勤めていた工藤和雄(東出昌大)は、心を病...
東京の出版社で編集者として勤めていた工藤和雄(東出昌大)は、心を病み、妻・純子(奈緒)とともに故郷の函館に戻ってきた。
しかし、一向に良くならず、混乱の中、旧友の研二(大東駿介)のもとへ行き、研二に連れられて漸く精神科を受診することになった。
女医の診断は「自律神経失調症」。
服薬とともに、運動療法としての毎日のランニングを勧められた和雄は、それから毎日決まったコースをランニングし、次第に距離を伸ばすようにした・・・
といったところからはじまる物語で、しばらくすると、ふたりの男子高校生のエピソードが綴られます。
ひとりは、スケボーの上手い背が高い男の子(Kaya)で、やや理知的な感じ。
もうひとりは、金髪のちょっと出来の悪そうな感じの男の子(林裕太)で、ふたりは、スケボー少年が無様に飛び込み、コースでジタバタしている市民プールで出会い、その後、互いに得意なことを教え合おうと約束して、その後、つるむようになっていきます。
映画は、和雄らの成年部パートと、スケボー少年らの少年部パートが交互に描かれ、当初、スケボー少年が和雄の若い頃なのかな、と思いましたが、セリフから名前が異なっているので、別人ということに気づきました。
なんとボンクラな、と自分でも思うのですが、映画は引きの画が多く、スケボー少年役の男の子と東出昌大の雰囲気が似ているので混同してしまった次第。
さて、ランニングを続ける和雄は、そのうち、彼らがスケボーの練習をしている公園で彼らと出会います。
少年たちには、金髪少年の姉(三根有葵)が加わって、3人になっています。
毎日ランニングする和雄に興味を持った少年ふたりが和雄の後追いかけて二言三言交わすぐらいの、それほど深い付き合いではありません。
和雄は毎日のランニングと少年たちとの交流、純子と研二の支えもあって、学生食堂での洗い場仕事ができるまでに恢復。
しかし、ちょっとしたことで、心の病の暗い影が覗くこともあります。
そして、それまで和雄を支えてきた純子の妊娠。
和雄、純子、研二のささやかなお祝いの場は、このあとの幸せな生活を暗示するのですが・・・
一方、少年たちもどっかどっかに暗いものを抱えていて、特にスケボー少年は田舎にしてはインテリ少年なので、影が時折おもてに覗いてきます。
そして・・・
と、成年部三人と少年部三人は、別の三人組ではあるのですが、心の奥底では同じようなものを抱えていて、少年部三人は、和雄ら三人と似通っています。
いうならば、スケボー少年は、和雄が「そうならなかった」道を歩んだ和雄の少年時代ともいえるでしょう。
心の病が悪化した和雄は、遂に入院生活を余儀なくされます。
病状のやや恢復した和雄のもとへ身重の純子が面会に行き、面会室で面談。
このシーン、この映画唯一のアップシーンで、ここをアップで撮るために、それまでは引きの画で進めていたのだと気づかされます。
それほど、ここは印象に残ります。
(なお、試写会後の監督と東出のクロストークで、「はじめから、ここはアップで撮ろうと決めていた」との発言がありました)
最後にもうひとつふたつ短いエピローグがありますが、これを幸せな再生とみるか、そうでないかは観客に委ねられているでしょう。
ただ、ラストシーンの和雄の姿は、スケボー少年が迎えた道とは違うことだけは確かです。
ランニングする和雄のスチルショットが意味するのは、それでも人生は続くということでしょう。
なお、観ているうちにいくつかの過去作品を思い出しましたので挙げておきます。
『キッズ・リターン』(スケボー少年と金髪少年のやりとり)
『HANABI』(少年二人がスケボー練習のために広場に置く丸太)
『マラソンマン』(和雄のランニング姿)
『バーディ』(ラストシーン)
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