「ジョニー・デップの名演に拍手」MINAMATA ミナマタ 耶馬英彦さんの映画レビュー(感想・評価)
ジョニー・デップの名演に拍手
終始、気持ちをヒリヒリさせながらの鑑賞となった。被害者も日本人、加害者も日本人という図式は、同じ日本人として耐え難いものがある。先の大戦と同じ図式だからかもしれない。
命や健康は他に代えられない。金持ちは大金を払って自分の健康を買う。その大金は貧乏人が健康を損なってまで無理して働いた成果である。この搾取の構図だけでも納得出来ないのに、その上健康まで害されるのは許しがたい。
しかしチッソで働く人々は、そのようには感じていなかったらしい。かつてお国のために戦ったように、会社のために体を張る。ひとえに会社が給料を払ってくれるからであり、会社の敵は自分の敵でもあると思っていたようだ。小さなナショナリズムである。相手が外国人ならなおさら容赦しない。高名なカメラマンだろうが関係ない。殴って倒して踏みつけて唾を吐きかける。当時のチッソの社員たちはいまどうしているのだろうか。
テレビでタレントが急な崖を登ったり高い場所の狭い道を歩いたりするのを見るたびに、その映像を撮影しているカメラマンが凄いと思う。どうしてあんな状況で平気で撮影できるのか。聞くところによると、テレビのカメラマンはカメラを構えている限り、恐怖を感じないそうだ。もちろん誇張もあるとは思う。しかし真実でもあるに違いない。レンズとファインダーがひとつのベールのようになって、あたかもテレビを見ているみたいな感覚で撮影しているのだろう。
本作品の主人公ユージン・スミスもまた、ファインダーを覗いている間は恐怖を感じなかったのかもしれない。ジョニー・デップが演じたどのシーンにも、ユージンが怯えている姿はなかった。
カメラマンは瞬間を切り取るが、同時に時代を切り取っている。魂を傷つけながらシャッターを押すとユージンは言うが、その真意はよくわからない。ただ小説家も似たようなことを言う。魂を削りながら小説を書く。詩人もそうだろう。松尾芭蕉の俳句にも、俳聖の魂を感じる句がある。このサイトにレビューを書かれている諸氏も、本音を書きつけようとすれば多かれ少なかれ、魂を削っているのは間違いない。ユージンの言う意味がそういうことなら理解できる。
かつて原発を誘致した敦賀市長の高木孝一が「50年後、100年後に生まれた子供が片輪になるかもしれないが、原発は金になるんです」と言い放ったが、チッソの経営者も同じ考えだったのだろう。雇用が生まれて人が増え、商店も栄えるし地元が潤う、いいことばかりじゃないかという主張もそっくりだ。最初から原発もチッソの工場も作らなければ、住民は安全に暮らせていたということに思いが及ばないのだろう。原発もチッソの工場も分断を生み、対立を生んだ。沖縄の基地ともそっくりである。
映画は、同じ構図が世界各地で起きていることを紹介する。一部の人間が儲けるために危険な事業を始める。事故が起きて被害者が出る。利益を優先すれば安全管理が二の次になり、必然的に事故が起きる。郵政を民営化したら郵便物の遅配や誤配、果ては投棄さえ起きてしまった。かんぽ生命は営業成績を上げるために年寄りを騙して契約させている。ノルマを課された局員は、郵便局の制服で安心させて、ひとりから重複していくつも契約させる。テレビCMでは顧客優先だが、実態は利益最優先である。小泉改革の成果は年寄りのなけなしの財を奪うことだったのだ。
人間は結局、自分の利益だけを追求する原始的な生物なのだろう。どれだけ文明が発達して世の中が便利になっても、追い求めるのは自分の利益だ。その欲求が戦争をはじめ、公害を生み出す。そして有権者は自分と同じように利益を追求する同類の政治家に投票する。誰も反省などしないのだ。
2013年の五輪誘致演説で総理大臣のアベシンゾウは、福島のことを「アンダーコントロール」と得意げに言い、その翌月には水俣病について「日本は水銀による被害を克服した」と言った。被害者のことを微塵も考えない傲慢な発言である。しかしアベはその後の国政選挙で勝ち続けた。
他人の痛みを共有する想像力、自分の利益が削られても受け入れる寛容、そういったものが世界から失われているのだ。ジョン・レノンがどれだけイマジン!と歌っても、想像力のない人に他人の痛みは想像できない。
アル中のろくでなしだったと思われるユージンだが、チッソの社員に背骨を折られ、片目を失明させられても、訴えることはしなかった。自分に残された時間があまりないことを知っていたに違いない。裁判に費やす時間などないのだ。彼は写真に残りの人生のすべてを賭ける。想像力と寛容を兼ね備えた、尊敬すべき素晴らしいカメラマンだったのだ。ジョニー・デップの名演に拍手。