「美しい映画」MINAMATA ミナマタ SP_Hitoshiさんの映画レビュー(感想・評価)
美しい映画
どう考えても重い内容だと思ったので観るのに勇気がいった。こういう社会派の映画は、なぜ娯楽で深刻な気持ちにならなければならないのか…、とひとしきり葛藤してから観ることになる。しかしこの映画は大変な名作である。観て良かった。
学校の社会の教科書の「公害病」のページは開くのも嫌だった。白黒の写真が悲惨さをより際立たせており、とにかく怖いイメージで…。しかしそれらの写真が有名な写真家である外国人の手によるものだとははじめて知った。
この映画は単なるノンフィクションではなく、ストーリーもドラマチックで面白い。主人公の外国人カメラマン(ユージン・スミス)は、かつては名声をはせていたが、今は借金まみれのドランカーにおちぶれている。ありがちな設定(パッと思いつくのだと「バードマン」に似てる…)なので少し事実を誇張しているところもあるのかな。天才肌だけど家庭を顧みず、常識や人の気持ちを無視する、でも実は人情味に厚い…、というのもステレオタイプではあるけども、演技がばつぐんに良いので気にならない。
映像も美しい。悲惨な映像が多かったらしんどいだろうな、と思ったが、高度経済成長期のころのひなびた寒村(といったら失礼なのか?)の雰囲気、光や水面、空気感が非常に美しいと思った。写真をテーマにした映画だけに、映像美にはこだわったのだろうか。
美しい、といえば、今まで水俣病の写真は怖い、悲惨、というイメージが強かったが、「撮る」視点からとらえてみると、「美しい」という気持ちで撮ったのだと気づいた。
あの有名な写真、「入浴する智子と母」を撮るシーンがこの映画のクライマックスだが、今更ながら、「あっ」と気づいた。この構図は、ミケランジェロの「ピエタ」そっくりだ。母親の聖母のような表情で気づいた。妊娠中に摂取した有機水銀は胎児が吸収することで、母体を守る。水俣病の娘はまるで人類の罪を代わりに引き受けて死んだキリストにも重なって見える。
ところで、テレビや新聞がやたら政府を批判ばかりしていることに辟易とすることが多いのだが、過去にこうした公害事件があったことを考えれば、今のメディアが基本姿勢として政府を批判したがるのは無理からぬことなのかな…、などとも思った(もちろん批判にも質があり、批判のための批判であってはならないが)。逆に今の若年層は政府を信頼しすぎなような気もする。
チッソ社長の「ppm」の論理は面白かった。
ppmとは百万分の一の濃度のことで、これくらい薄い濃度だったらその辺のもの(コーラの中)にも含まれているだろうし、それはゼロとみなしていいのだ。また、ごく一部の人間に水俣病が発症していても、それは少ないがゆえにppm、つまりゼロとみなしていいのだ。チッソは肥料をはじめ多くの人間に役立つ化学製品を作り出しており、この地域の雇用も生み出している。わずかな病人のために工場を止めれば、それらを失うことになる。
そのような話だった。もちろんこれは欺瞞である。ユージンが来日したころのチッソは浄化装置を導入した後だから、そのときの廃液には確かに有機水銀は含まれていなかったかもしれないが、それ以前に垂れ流した分がチャラになることはないし、仮に百万人に1人というわずかな割合で水俣病が発症したとしても、「因果関係がはっきりしている」のであれば、それは確実にチッソの過失であり、ゼロということにはならないはずだ。後半の話はいわゆる「トロッコ問題」に見せかけているが、これも欺瞞だ。
「ppm」の論理が面白い、と感じたのは、この話は最近の環境汚染問題を想起させるからだ。この映画がそこまで狙ったのか、単なる偶然かは分からない。
まず1つ目は、福島の原発処理水(トリチウム水)問題である。トリチウム水は安全なレベルまで十分薄めれば問題ない、ということになっていて(そもそもトリチウムは体内に入ってもすみやかに排出される、とされている)、実際に世界中の原発ではそのようにしている。しかし、どこまで薄めても放射性物質である、という理由でそれを危険視する見方がある。
2つ目は、子宮頸がんワクチンによる重篤な副作用の可能性についてである。重篤な副作用とは、手足のしびれ、記憶障害などで、これが発生する確率は一万分のいくつか(あるいはそれ以下)という程度で、今のところ因果関係ははっきりしていない。統計的にはそういったまれに発生する重篤な副作用は、ワクチンのせいとはいえない、つまりゼロとみなせる、ということになる。それよりはワクチンによって助かる命の方がはるかに多いので、ワクチンは打つべきだ、というのが今の流れである。
こういった科学的な判断が必要なことについては、感情論や印象で結論を出すのではなく、科学的な根拠に基づいて議論をすべきだと考えているが、この映画から、客観的には無理筋なような話でも、当事者や被害者の視点に立ってみなければ分からないことがあるのでは、ということを考えさせられた。