「ちょっと悪たれだがひたむきなインド人少年(天才肌)の映画道。カレー好きの皆さんもぜひ!」エンドロールのつづき じゃいさんの映画レビュー(感想・評価)
ちょっと悪たれだがひたむきなインド人少年(天才肌)の映画道。カレー好きの皆さんもぜひ!
まあたしかに、インド版『ニュー・シネマ・パラダイス』って触れ込み通りの映画ではあるわけだが、あまり『ニュー・シネマ・パラダイス』みたいなのを期待すると、なんとなく思っていたのとは違うってことにもなりそうな気も(笑)。
まずもって、どちらも映画に「夢」を仮託した映画であることに変わりはないが、
『ニュー・シネマ・パラダイス』が基本「ノスタルジー」の映画であるのに対して、『エンドロールのつづき』は、むしろ未来を見据えた映画だということができる。
すなわち、前者における映画は、過去へとつらなる郷愁と懐かしさの漂う文化的遺産の側面が強いのに対して、後者における映画は、技術革新と科学の成果物であり、理系的才能が田舎を脱して世界を目指すためのよすがとして描かれている。
映画は、少年を過去ではなく、未来へと導いてくれる近代文明の灯なのだ。
それから、どちらも少年と映画技師との心の交流を描く映画ではあるのだが、
『ニュー・シネマ・パラダイス』の技師アルフレードの場合、少年トトにとっては明快に「父親代わり」の役割を果たしていたのに対して(トトの父親は戦争に行って行方不明になっていて、そのうち戦死認定が下される)、『エンドロールのつづき』の技師ファザル(なんか見覚えのある顔だと思ったら、チャールズ・マンソンによく似てるんだな、この俳優ww)は、少年サマイとはギブ&テイクの共犯関係にある「同志」に近いような存在だ。
サマイには、厳格ながらも愛情深いチャイ売りのお父さんがちゃんといて、「父と子」の話はそちらで十分に出てくる。少年に村を出ることを諭して送りだすのも、『ニュー・シネマ・パラダイス』ではアルフレードの役割だが、本作ではお父さんの役割だ。
ファザルは、「街に住む叔父さん」とか「趣味の先輩」のような存在であり、ラストで「サマイがファザルを救う」ところなんか見ても、じつは「対等」に近い関係なのでは、と思えてくる。少なくとも、サマイがファザルに「依存」したりしている気配はまったくない。
あと、どちらも映画狂の少年が映写室に入り浸って、さらに映画にのめりこんでいく話だが、
『ニュー・シネマ・パラダイス』のトトが純粋に「映画」それ自体が大好きなのに対して、『エンドロールのつづき』のサマイは、映画の内容以上に「仕組み」のほうに興味を持っている「技術者」肌の天才少年だ。
いっとう最初に彼が、映画館で「映画にハマる」際に、まずはいきなりスクリーンの白い布を触りに行き、そのあと「映画の映るスクリーン」ではなく、ただひとりだけ観客とは「逆向きに立って」、多色の光線を発している「映写機」の方を凝視していたあたりに、彼の真の関心が奈辺にあるかが窺い知れる。
このあと、サマイは順調に「映画自体の魅力」にもはまっていくのだが、「映画好き」としての衝動が駆り立てる先が「映写機づくり」だというのも、やはりサマイの一風変わった特質を表している。
彼の心をわしづかみにしたのは、なによりオプティカルな仕掛けとしての面白さ――光の魔術だった。彼の映画とのかかわりかたの基本にあるものは、監督のそれというよりは、エジソンやリュミエールのような「発明家」のそれだ。
もう一点、一番観客の印象を左右しかねない「相違」がある。
どちらも子供たちの姿を描いた「児童映画」ではあるが、『ニュー・シネマ・パラダイス』のトトが純朴でいたいけな愛らしい少年だったのに対し、本作のサマイははっきりいって悪童である。
悪さもすれば、不法侵入もするし、盗みもする。しかも、えらくナチュラルに。
怒られても、あまりこたえていないというか、へこたれない。
その意味では、むしろフランソワ・トリュフォーの『大人は判ってくれない』に近いジャンルの映画なのかもしれないし、悪童たちが自転車で疾駆するシーンは、同じトリュフォーのデビュー短編『あこがれ』(原題は「悪たれたち」)を明らかに意識した演出だと思う。
ただ、「孤児だから」とか、「貧困だから」というような、観客を納得させてくれる切羽詰まった理由があるわけではなく、「まあ子供だったらこのくらいやるよね」くらいのノリで悪事をどんどん積み重ねるので(笑)、このへん「なんだこの悪ガキども?」となってしまうお客さんが、日本ならいてもおかしくない。
まあ、突き詰めて考えると、結局はお国柄の相違なんだろうなあ。
日本のやんちゃな子供が出てくる「児童映画」というと、小津安二郎の『おはよう』なんかが思い出されるが、ガキどももここまでの無茶はしてなかったもんね。
幼い頃から、泥棒行為がふつうに行われているからこそ、この映画に出てくるような、鑑別所というよりは一定期間子どもに罰を与える拘禁施設みたいなのが存在するわけで。
私は、どちらかというとふだんはスペインの『ザ・チャイルド』とか、あの悪趣味きわまる『ベター・ウォッチ・アウト』とかを腹を抱えて笑いながら観ているくちなので、しょうじきあまり気にしませんが。
サマイのぶっ飛びぶりというか、振り切れた行動力というのは、ある意味、天才ならではのアスペっぽさというか、若干発達っぽい部分があるような気もする。
自分も、京都の某有名塾に小学生のとき通ってたことがあるけど、特進コースとかにいるんだよね、まったく悪気なく、面白いからというだけの理由でろくでもないことばっかり思いつく頭のいいやつって(笑)。ちょっと、道徳観念が「面白さ」の追求に負けてるやつ。
サマイの場合、「映画が好き」だから、「好きこそ物の上手なれ」で成長していったというよりは、「もともと溢れんばかりの才能があって、その矛先が映画に向いた」タイプだと思う。
街の悪童たちのあいだでも、リーダーシップを発揮しているのは常にサマイだし、マッチを使ったお話の語り聞かせとか、もともとやっている「遊び」自体が独創的だ。
だから、彼は目的達成のためなら、平気で盗みもやる一方で、映画館の外装を塗り替えるような「善行」もする。彼のなかで、「善い悪い」は、じつはあまり重要ではないのだ。
もともと、その手の「道徳的な回路」でものごとを判断していない。
あふれる才能と決断力が、彼をつねに前へ、前へと衝き動かしている。
そういう人間だからこそ、「自前で」映写機を作ってしまったり、「自前で」村の子どもたち相手に興行を打ってしまったり、古い映写機とフィルムが捨てられると見るや、トラックを追撃して処理工場まで追いかけていったり、といった凄いことがさらっとできちゃうわけだ。
逆に言うと、彼は「英語と数学を身につけて、新しい映画の世界に対応するため」なら、「良い子」に自分の意志で変貌することができる。
サマイには、目的達成のためには、「善い事をしていたほうが、最終的には近道なんだ」と気づけるだけの「頭脳」がちゃんとあったということだ。よかったよかった。
映画としては、「泣かせる」ことを目的に手練手管を使ってくるようなことをしない、どちらかといえば、淡々として落ち着いた映画であると思う。
そのへんも、モリコーネ・ミュージックと情緒的な台詞で、徹底的に泣かしにかかってきた『ニュー・シネマ・パラダイス』とは、映画作りの方向性がかなり違う。
だから、観て「めちゃくちゃ感動した」といったタイプの映画では全然ないし、そこに期待しすぎるとたぶん肩透かしを食らうことになる。
かわりに、インドの風俗や映画カルチャーの受容のされ方、子供たちの生活ぶりなどが、とてもわかりやすく描写されているのが、ひとつの見どころとなってくる。
この「わかりやすさ」は、明らかに「他者」(非インド人)の視線を意識したもので、本作が必ずしも国内の映画ファン向けに作られたインド映画ではなく、世界公開・配信を念頭に置いて作られた作品であることを示している。
駅の売店でチャイを売る父親とそれをカップと急須をもって売りに行く子供とか、
野生のインドライオンを観察しにいく子供たちとか(生で観られるとかうらやましい!!)、
映画館内で歌ったり踊ったりと、かなりライブ感のある観客たちの姿とか、
サマイの弁当とか、体の洗い方とか、学校での様子とか、貸しチャリとか、その辺に停まってるフクロウとか、いろいろ面白すぎて追いつかないくらいだ。やっぱり、インド、異文化すぎる。
とくに「食」に関するシーンは、ふだんインド料理にそれなりに親しんでいるぶん、観ていてとにかく興味深かった(自慢じゃないが、僕は東京のカレー百名店のうち98店、エスニック百名店のうち70店に訪店済みのカレー愛好家である)。
ちょっと広瀬アリス似の美人お母さんが、クッソ美味そうなナスのカレーやオクラのカレーや包み揚げを丁寧につくるシーンが何回も何回も出てくるのだが、あれはマジでヤバいね。てか、監督これやりたくてこの映画作ったろってくらい、食事をつくるシーンに力が込められている(そういや、昔インドの弁当屋の映画があったな)。
インドでは外で料理つくるんだとか、ハーブが普通に植えられててそこから葉っぱこそぎ取って使うんだとか、「マジで右手しか使わずに料理つくらないといけないんだ」とか、観ていていろいろ勉強になる。インドで、「すりつぶす」系の調理法が発達してるのも、右手しか使えないことが影響してるのかもなあ。
もちろん、食べるのも手食。そういや、ついこのあいだ手食推奨の祖師ヶ谷大蔵の某カレー屋にいったら、真正面で青年が手でいってたが、おじさん気が弱くてスプーンで食べてしまいました。今度こそ、手食に挑戦してみないと(一緒に出てきた水が、飲用なのかフィンガーボールなのかわからなくて口がつけられなかったというw)
スプーンといえば、廃棄された映写機とフィルムの廃品加工のシーンも、映画全体のバランスを崩しかねないくらいに力を入れた形で扱われていた。
さすがにインドだからといって、あんな子供がうろうろしていて怒られないはずないので、あのシーンは一種のファンタジーというか、サマイを案内役とした「工場見学のドキュメンタリー」がああいう形で挿入されていると考えたほうがいいだろう。
あのシーンには、娯楽産業の「儚さ」や、過ぎゆく時代への憧憬といった感情もたしかにこめられているだろう。でもそれだけじゃなくて、逆を辿れば「映写機」も「フィルム」もたかだか「モノ」であり、人間の力で加工して作り上げられた「製品」なのだ、という思いも同様にこめられている気がする。
すなわち、古くなった映写機とフィルムはリサイクルをへて、新たな「製品」に生まれ変わった。では新しい映画機材はどうすればいいのか。それは、また「作ればいい」のだ。そして、使いこなせばいいのだ。
重要なのは、古いものにこだわることではない。
それを作り上げられる人間の確かな技術力と、新たなイノベーションを生み出せる発想力こそが「真の宝」なのだ。
古いものをいつまでも惜しまず、新たな技術革新にアジャストしていこう、という考え方は、ラストでのサマイの姿にも、どこか通底しているように思われる。
涙、のち、笑顔。
これが、強烈な男尊女卑と階級社会を内包しながらも、理系大国・技術大国でもありつづける、インドという独特な国の底力であり原動力なのだろうな、とふと思った。
(以下、ラストのネタバレです)
ラストで流れる声。
子供のサマイが口にする「偉大な監督たち」の名前は、みなインド人だ。
だが、大人の声になったサマイの口からは、世界中の偉大な監督たちの名前が、つぎつぎとこぼれだす。そのなかには、小津も黒澤もいる。なんでか勅使河原宏まで(笑)。
そう。
たしかに、彼は村を出て、世界を広げたのだ。
そして、映画の正統な歴史を学ぶことができたのだ。
大人になったサマイの声は、もしかして監督自身の声?
たぶん、そうなんだろう。
そしてエンドロールのあとからは、この映画が始まる、というわけだ。
ほんのちょっとした名前の「羅列」だけで「その後」のすべてを暗示する、なかなかにうまいラストだと思いました。
ちなみに終わり方は、なんかベルイマンの『仮面ペルソナ』みたいだったな(笑)。
私はこの作品、(このレビューにあった通りの反応で)今一つだったのですが、こちらが思っていたことをズバリ書いてあったり、逆に思いつかなかったことを書いてあったり、と、いう具合で、再度、この映画を見直したような気になりました。
素晴らしいレビューありがとうございます。読み応えありました。特になぜ主人公がおとなしくなったのかの解釈、激しく納得です。
マッチラベルのシーン、あれがやがてフィルムコマに、最後はカットフィルムを繋ぎ合わせた動画になるということで、ストーリーテリングの才もあるのだなと思いました。また短いシーンでしたが、キャストに風を当ててフレーム枠から覗かせて、カメラがどうシーンを切り取るかを見せるのも、映像作りのセンスを感じさせました。入り口は技術的関心でも、それだけでない才能と行動力の持ち主だと思った次第です。