「終盤の水木へ」鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎 PAさんの映画レビュー(感想・評価)
終盤の水木へ
余韻が残る映画。
私が観に行った映画館は基本ガラ空きなので、話題のゲゲゲといえど10人いくか、いかないかくらいの観客数。
そしてその全員が、映画が終わってもすぐに席を立たなかった。私自身、終わったときはすぐに立てなかった。
圧巻された…という派手さではなく、ただ呆然としてしまった。
もしかするとみんなそうだったのかもしれない。
とにかく、誰もすぐに席を立たなかった。10人いくかいかないかの少人数とはいえ、すごいことだと思う。
本編の話。
映像は個性を出しすぎず、潔さを感じるほど万人が観やすいという印象。妖怪たちもオドロオドロしさよりキャッチーさが目立つ。子供も怖がらず見れる妖怪だと思う。(話の凄惨さは別として)
話自体の凄惨さや残虐さも映像と演出でかなり緩和してると思った。
ストーリーはシンプルだし飽きない。ただ説明シーンが少ないため、キャラクターの強さや背景がよくわからず、結果的にご都合主義にみえるところもあった。とはいえ考察できる方や、モチーフ・背景を知ってる方にはご都合主義ではなくスマートな進み方なのかもしれない。そこらへんは妖怪にも鬼太郎にも物語のセオリーにも詳しくない私にはわからなかった。
終盤の水木が、泣きながら沙代に謝るシーンは何に対しての謝罪だったのだろう。
鑑賞中は沙代の思いをバカにして真面目に受け取らず、利用しようとしたことへの謝罪かと思った。
しかし鑑賞後、あまりにもうまく行き過ぎる展開について考えた時、水木は何に対して沙代に謝ったのか?という疑問がでてきた。
沙代が暴走する最後のトリガーは水木のセリフだった。
「お前らのせいで(沙代さんは)妖怪に憑かれた」(要約)という水木のセリフ。
知られたくなかった自分を、水木に知られていたという絶望?をトリガーに暴走した沙代は、水木とゲゲ郎の敵を一掃。そして自身も死ぬ。
これは、水木が考えたシナリオだったのではないだろうか。沙代を最後まで利用するシナリオ。だからあの時泣きながら謝ったのか?と思えてきた。
もしそうなら、というかそうですよね?考えすぎか?でも、さすがにそうじゃないと水木が無謀すぎるしご都合主義すぎる。いや、まあ知らんけど。
それはそれとして、沙代の搾取され続けた人生はあまりにも…。村に囲われ、尊厳を踏みにじられ、なにもできない沙代には、東京からきた水木がさぞかし魅力的に映っただろう。運命の人だという極端な発想になるのも、あの状況下なら理解できる。むしろわかりやすく狂ってない沙代はかなり強い人間だったと思う。
個人的にはゲゲ郎の奥様が、沙代との比較対象に見えた。2人は同じく搾取された側でありながらも明確に違う。
奥様にはゲゲ郎との絆という確かな愛があったし、鬼太郎という愛をのこすこともできた。
対して沙代は、利用価値のある物として扱われるか、同情や哀れみを受けるかのみ。そして愛どころか、亡骸すら残らない。ただ、ときちゃんだけは例外で純粋に沙代を慕っていたように見えた。
でも、地獄からの希望に見えた憧れの人からも利用され、あげく憐れまれるというのは、従弟との絆すら断ち切るほどの絶望だろう。そんなの大人だって耐えきれない。
沙代が「東京もここと同じだと知っている」と言ったのは、水木を通して見えたものだったと思う。
かける言葉がない。
最初の水木の回想で兵士たちがバタバタと死んでいくシーンを観て、なんて無意味な死なんだろうと。兵士たちは何を言われたら救われるのだろう、という気持ちになった。なにもわからない。でも、そのシーンだけで作品への信頼度がものすごく上がったし、実際に最後まで手に汗握りながら観れた。
すごい映画でした。
もう一回観たい。