「某「ゴジラ」との表と裏」鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎 加藤プリンさんの映画レビュー(感想・評価)
某「ゴジラ」との表と裏
たまたま先に鑑賞した某「ゴジラ」との対比レビューになりますが
特に、「敗戦」というものが日本人のアイデンティティに与えた影響がね。
この二作、当然、連作でもなければ、関連性もない二作なのですが
モチーフとテーマが裏表なのですね。
先に述べましたが「敗戦」というものが、日本人に与えた大きな文化的、精神性の影響が大きくて
この屈辱とコンプレックスをどう飲み下し、納得し、反芻するか。それが各々の、この国の隠れたテーマだった訳なんですね。
昭和後期の高度経済成長もそうですし、それが行き過ぎたバブルが弾けたとて、
平成の30年は再び失いたくなかったほどに安定し、平和だったのです。失われた30年とはよく言ったもので、
失いたくなかった30年間だったのですよ。実はね。こんなに平和で良い時代はなかった。
飢える事もなく、弾圧されることもなかった。だから文句が自由に言えたのですよね。
そしてこれらの作品が、この令和の世の中に生まれたタイミングが重なったことは
不安定になり、時が動き始めた(失われた30年がようやく終わった)社会情勢を鑑みて、
未だ尾を引く(どころか、現代日本の根底にある)先の敗戦と、科学技術と社会の発展と
そしてそれが崩れ始めた現代令和の価値観に、訴えかけるには、丁度良いタイミングが重なったのだろうなあと
結果論的に思いを馳せる機会に恵まれ、たいへん感謝しております。良作とも、観られて良かった。
戦中派は、自分たちで勝つも負けるも、可能性があったのですね。
結果、国家という単位で負けてしまった結果は、ある種の自己責任として、抗い、結果、受け容れることができるのですね。
(この受け「容れ方」こそが今回の「ゴジラ」のテーマでもありますね)
ゴジラにおける敷島も、鬼太郎における水木も、この立ち位置ですよね。
ひどい時代だったし、ひどい体験も、己の意志でリベンジすることも、克服する機会もあったのですね。
ところが、戦後生まれ世代は(私も含め)全員が負け犬としてのレッテルが貼られたところからの人生スタートなのですね。
ここが大きな価値観の立脚点の違いを感じるところです。諸説異論ありますでしょうが、必ずここが現代史としてのターニングポイントです。
鬼太郎における沙代も含め、我々戦後生まれは「犠牲者」だという捉え方もあります。
その一方、ゲゲや敷島や秋津のいう「貧乏くじ」は、自分で選択できる価値観なのですね。
おそらく、今現在もウクライナや中東で行われている戦争(生きるか(=殺すか)死ぬかの極限状態)で失われることは、
社会性、道徳性、人間性であると同時に
人間としての誇り、尊厳。それはおそらく、「自らの意思決定の権利」という事なのですよね。おそらく。
どちらの作品も、そこを取り扱っています。
それが表層では、選択できないという事はないのだけれども、根底に、選択できないという戦後派の下敷きがあるのですね。
そしてまた同時に、その根底にある「日本人ならではの国民性」として、「社会やコミュニティへの自己犠牲が美化されて描かれる」という事は
我々が逃れられない種族としての価値観を、描かざるを得ないのではないかと思われます。
「ゴジラ」はそこからの脱却を描いていますし、「鬼太郎」もそこを踏まえた上での戦後や悲惨な状況を描いています。
ゲゲがその選択を自らの意思で選び、そして水木(ああ、左耳の欠損こそは、水木先生(左腕ですよね)そのものですね)が墓場から鬼太郎を取り上げた
鬼太郎こそが、その可能性、未来そのものと描いています。
エンドロールの止め絵アニメーションは素晴らしかったですね。
ちなみに、そのあたりの整合性のとれない謎(私はアニメ第三世代ですので、鬼太郎の母は雪女との認識もありましてw)も含め、
どちらの作品も、ああ、敗戦と科学という、光と闇を描いた作品として、(個々の作品レビューとして、ルール違反であありますが)
非常に高く、評価させていただきたいと思います。
面白いのが「戦後の銀座」というワードが、どちらの作品にも登場しまして、その光と闇の対比が、とても良いですよね。
最後に各作品の美点を述べますが
特筆すべきは「鬼太郎」の仕事の良さで、前半は凡庸な作画と謎脚本と演出に辟易するものの
アクションシーンからの、メリハリのある作画と演出に、現場の負担を減らしつつ、作品のクオリティは落とさないという
非常に職人芸的な、カロリーの配分にとても特化した采配には、脱帽致しました。
デフォルメという江戸時代の浮世絵にもある現代絵巻であるアニメーションの特性を良く活かした演出だと感じました。
一方「ゴジラ」の、監督の得意技だけを練り上げたような、いわゆる商業的には成功が約束された
このような職人技のようなゴジラが描かれたのは、とても良かったと感じました。個人的には、機雷戦と、伊福部昭の使いどころが、とても良かったですね。
(おかしなところも沢山ある映画でしたが。監督が了承済みならば、観客も了承するのがマナーでしょうね)
最後になりますが、両作品とも、必見の映画です。そこに浮かびあがる、令和現代における「日本」そして「科学」というものの両面性、
ゴジラも妖怪も、しょせん、人間が生み出した価値観であり、概念です。
そして結局は、「人間(が生み出したもの)こそがいちばん恐ろしいのだ」というのは、
すべてのホラー、ドキュメント、サスペンス、ミステリー、SFなどに共通した真理ですね。
それをどう描き、どう捉えるのか。そこに映し出されるものは、常に「人間」(日本人)そのものなのですね。
過去を踏まえ、どう未来を築いてゆけるのか。その人間の可能性を見出したいと思います。
昭和は生きるのにも苦しく、生き抜いてゆくには意地悪になるしかなかった時代だったと思います。
令和は優しい時代になれますでしょうか。なりますよね。なりつつありますよね。
私はこれらの作品を通じ、未来を信じたいと思います。