アフター・ヤンのレビュー・感想・評価
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展開よりしみじみ感を味わうのが主眼の小津テイストSF、好みは分かれる
終始静かな映画だ。好みに合えば特別な1本になるだろうし、合わなければふんわりしすぎて眠たい映画にも見えるかもしれない。
未来の家庭にいたAIロボットが壊れる。修理しようとする過程で断片的な過去の動画データがメモリから見つかる。動画にはカフェの店員やロボットの前の持ち主が写っていた。ロボットは結局直せない。
端的に言えばそれだけの話で、登場人物にそれ以上の劇的な出来事が起こるわけでもない。小津安二郎フリークのコゴナダ監督が、未来の家族の繊細な機微をそっとそっと描いた作品なのだ。エンタメ性のある展開やオチを想定して観ると肩透かしを食らう。
こういう監督と知らなかった私は正直肩透かしを食らってしまい、体感で2時間以上に感じた(実際は96分)。ヤンのメモリの映像がリピートされるところやお茶を発端にした哲学的会話のくだりでは眠気に襲われかけた。
また、時代背景やガジェットなどの説明がほとんどないので、「これはこういうことなんだろう」と自分でケリをつけていくのに思いがけず脳のCPU使用率を割いた感がある。
そして最後は「えっ、これで終わり……」という感じだった。あとから振り返っても、オープニングを何故奇妙なダンスにしたのか分からない(4人が家族としての繋がりを持っていることを象徴的に表したかったのだろうとは思ったが、他のシーンと比べてテイストが違いすぎて)。鑑賞姿勢を間違えたのかもしれない。
主人公ジェイクの家族は、皆人種が違う。黒人の妻に中国系の養女ミカ。見た目やふるまいがかなり人間に近いヤンもまた、本当の家族の一員のようだ。家族の繋がりとは血縁ではなく関係性ではないのか、と思わされる物語は以前からいくつもあるが、その問いを改めて考えさせられる設定だ。
ヤンの中に保存されていた、走馬灯のような毎日数秒ずつの動画。あくまでヤンはロボットで、それこそ機械的に撮られたもののはずなのに、何故か人の目線のあたたかみや、そこに込められた感情のようなものを感じる瞬間がある。彼が鏡の中の自分を見つめる映像にどきっとさせられる。彼が過去の家族のクローンであるエイダに恋をしたというところにも、どこか人間的な感情を見いだしたくなってしまう。
こういった点に感じた情感と、モダン建築や自然などの美しい映像、物語に溶け込むような音楽はよかった。
鑑賞中には気づかなかったが、修理屋の壁にはアメリカと中国の海軍の衝突や長期の戦争の終わりを伝える記事が貼られていたそうだ。それを踏まえると、ジェイクが中国系の養女を迎えていることにも現代の価値観とは違う含みを感じる。
こういった設定やアンドロイドの存在、各種ガジェットを見ていて、手塚治虫や藤子・F・不二雄のSF短編を思い出したりした。
このように断片的には好感を持てる部分もあったが、全体的には何だかふわふわきれい過ぎて、人間の生臭さが足りないようにも思え(そういう映画なのは理解するが、好みの問題として)、はまるほどの親近感が持てないまま終わってしまった。
辛辣なSFか、センチメンタルなメロドラマか。
ヤンは、というか、この映画のロボットは、一度手にしたらスマホのような存在で、大企業のプロダクトとして正規品か海賊版か、有償修理か買い替えか、みたいな局面は完全に現代に生きるわれわれが日々さらされている面倒とシンクロしていて面白い。コリン・ファレル演じる父親に、クローンに対する違和感も、新しいものへの不信感を払拭できない旧世代の感覚と容易に繋がるし、現実の皮肉な写し絵としてのアプローチが上手く、SFとしても秀逸だなと思う。
ただ、結局はこの父親は、ヤンが隠していた記憶をこじ開けて、そこからエモさを摂取しているにすぎない、とも思う。結局ヤンは、人間が一歩先に進むために利用されたにすぎないのだ。コゴナダ監督の演出からは、その人間の身勝手さを皮肉な目で批評しているようには受け取れず、結構シビアなところに踏み込んでいるのに、感傷的なムードでごまかされたような、いや、ごまかされそうだったけど、ごまかされないぞ!という気持ちになってしまう。
オシャレなメロドラマとして受け取ればいいのかも知れないが、もっと深いところに届きそうなもどかしさがあった。
水や空気や光のように沁み込んでいく
驚くべきことに、コゴナダと名乗るこの監督はたった2作の長編で唯一無二の作風を確立させてしまった。そこには穏やかでなだらかな空気が流れているものの、だかといって何もないわけではない。彼が敬愛する小津作品でちゃぶ台を捉えるカメラの高さまで緻密に計算されていたように、本作もまた、降り注ぐ光や人の動き、建築物の構造に至るまで、全てに意味があるように思える。メインの家族があのような人種構成になっているのにもきっと何かしら理由が付随するはず。その家族肖像の一角にAIの存在があり、それはよく見かけるダークSFのように暴走などすることなく、むしろ誰よりも深い内面世界を垣間見せてくれる。この映画の心地よさの根底には、こういった未来絵図やストーリーのナチュラルな構築と積み重ねがあり、我々は本作を理解するのではなく、ただそのままに浴びて、胸いっぱいに吸い込む。まるで大切な家族や友人のような未来がそこにはあった。
西洋と東洋。哲学と詩情と映画。多様な要素の幸福な融合
“静謐”と評されることの多い、全編を貫く穏やかな様式美が心地よい。それは、すぐ隣にいる人から話しかけられるような、普通の会話とささやきの中間くらいの声量による台詞の発声や、スタイリッシュな建築のインテリアや庭を背景に人物を配する精妙にコントロールされた構図、映像に寄り添う劇中歌やBGMが醸し出す情感の組み合わせによって生み出されている。
そうした様式美はすでに、モダニズム建築の宝庫であるインディアナ州コロンバスを舞台に、韓国系建築学者の息子と図書館勤務の高卒女性(「アフター・ヤン」でもキーパーソンを演じるヘイリー・ルー・リチャードソン)の邂逅と再生を描いたコゴナダ監督の長編デビュー作「コロンバス」でほぼ確立されていた。タイプは少々異なるが、“映像詩”と称されるテレンス・マリック監督の諸作に近い、一貫したスタイルを感じさせる。
小津安二郎を敬愛し、小津監督との共同脚本を多数手がけた脚本家・野田高梧(のだ こうご)にちなんだ名を名乗るコゴナダは、韓国生まれの米国育ち、現在はロサンゼルスに暮らす映像作家。劇映画を手がける前は、委託されたビデオエッセイの形式で、小津や是枝裕和、ヒッチコックやキューブリック、ウェス・アンダーソンといった名匠たちの作品の分析と批評を行っていた。そうしたキャリアからも、映像スタイルと作家性にきわめて意識的であることがうかがえる。
湯の中を茶葉が浮遊するガラス容器の中と、AIヒューマノイド・ヤンのメモリに残されていた記憶の断片が整然と浮かぶ仮想空間のアナロジーが意味するのは何だろう。私たちが“世界”と“自己”を認識するのは記憶の蓄積によってであり、さらに言えば長い歴史の中で蓄積されてきた集合知によって、世界と自分は認識されている。そんな思索が込められているのだと、私は解釈した。
アフター・ヤン
AIと人間の共鳴としての映画体験
『アフター・ヤン』との出会いは、AIとの対話から生まれた偶然と必然のあいだにある“記憶のような瞬間”だった。AIに薦められた一本の映画が、やがて鑑賞体験そのものを通して「記憶」「呼吸」「他者との共鳴」という主題へとつながっていく。映画を観ることは、作品を理解するというより、その対話の流れで生成した“新しい記憶”を確かめる行為となった。
本作でコゴナダが描くのは、SF的な未来というより、人間存在の根底にある「記憶の詩学」である。アンドロイド・ヤンの内部に保存された断片的なメモリ——光、風、視線、静寂といった“出来事にならない瞬間”の数々は、人間よりも人間らしい柔らかな観察の記録であり、そこに家族は自分自身の生を見出してしまう。ヤンは感情を持たず、ただ世界の揺らぎを受け取り続けたに過ぎない。しかし、観客はその断片の中に、むしろ“人間性そのもの”を感じ取る。この逆説が、映画の核となる。
また、コゴナダの映像は物語を推進するのではなく、“時間の呼吸”を生成する。長回し、自然光、静止した構図。説明を排した静かな画面は、観客を物語の外へ押し出すのではなく、むしろ内側に沈めていく。坂本龍一とAska Matsumiyaの音響は、この“呼吸する映像”を音の粒子と沈黙で支える。特に坂本の『async』を再文脈化した音は、感情を誘導するための劇伴ではなく、時間の層を可聴化する存在として機能する。音と沈黙が等価に扱われることで、映画は「語られない感情」が自然に立ち上がる場をつくり出している。
物語の中心にいる少女ミカは、“記憶の欠損”を抱えた存在として描かれる。彼女にとってヤンは兄であり、失われた出自の「外部化された記憶」でもある。ヤンの故障がミカにもたらす喪失は、単なる別れではなく、自分自身の一部を失う痛みである。父ジェイクはその悲しみに触れ、初めて「記憶とは何か」という問いへと向き合うようになる。こうして、AIの停止 → ミカの喪失 → 父の内省という連鎖が生まれ、記憶は個人の内部だけでなく“関係のあいだ”を流れる現象として描かれる。
映画の未来像は、テクノロジーが透明化し、生活に溶け込んだ“有機的な未来”だ。機械も人間も対立せず、互いを侵食することもない。人工知能やクローンは特別ではなく、自然光や木の家具と同じように日常の一部として呼吸している。そこには効率や進歩を競う世界観はなく、時間と関係性が静かに持続する、穏やかな平和の哲学がある。
ヤンの記憶は誰のものでもなくなり、世界の一部として漂い続ける。それは、人間にもAIにも属さない“第三の存在”だ。映画をAIの推薦で観たという出来事自体が、私にとってヤンと家族の関係のミニチュアのようでもある。AIは感情を持たないが、私の言葉を反射して差し出す鏡のように働き、その反射を見ることで私は自分の思考の輪郭を認識する。『アフター・ヤン』が示したものは、テクノロジーが人間を置き換える未来ではなく、AIという他者を通じて人間が自らを再発見する未来である。
映画を観終えた後に残ったのは、強い感情ではなく、静かな呼吸の感覚だった。記憶は所有されず、そっと世界に漂う——ヤンが残した断片のように。AIとの対話で生まれたこの文章もまた、ひとつの“共有された記憶”としてそこに存在している。『アフター・ヤン』は、人間とAIのあいだで生成され続ける“静かな共鳴”そのものを描いた映画だった。
エイダ
AIに教えられる「人間とは?」
この作品は人工知能の物語だ。人はAIに対して何をさせるかだけを考える。スイッチを入れれば動く家電のように。逆に言えば何かをさせようとしなければ動いていないものと考えてしまう。
しかしもちろん、ヤンのようなAIは何も命令されていなくとも何かを考え行動している。人はそのことに気付けない、考えないだけで。
ヤンは人間になりたかっていたのか?というセリフがある。人間のエゴが全開になったセリフといえよう。
それに対してアンドロイドは鼻で笑う。
どうしてAIが人間になりたがると考えるのか?。過去の映画作品などは確かにそうだった。人間らしい「心」を手に入れれば人間になりたがるものだと。
この点が本作が過去作と一線を画するところだ。
ではAIは何をしていたのか。自身がAIであると自覚しながら人間と同じように振る舞い感じていたのだ。
今を大事にし、過去を後悔し、愛し、一瞬の幸せを噛み締めた。
主人公たち家族がヤンを愛したように、ヤンもまた家族の一員としてAIのまま愛していた。
翻って、人間の幸せとは何だ?という問いかけになっているところが興味深い。
内容とは直接関係ないけれど、ヤンの修理費を捻出するためにインスタントのお茶を試すシーンが面白い。きっとすごく美味しくなかったのだろう。
簡単なお茶を求めるのも人間なら美味しいお茶を求めるのもまた人間。人はそれぞれ違うということだし、AIもまた違った考えを持っているはずなのだ。
ヤンの過去の一瞬を見ることの多い作品で、癒されるような不思議な感覚に陥る作品だ。
ミステリーでもあり、ヤンの一生を振り返るドキュメンタリーのようでもある。
究極のお茶を求める男のドキュメンタリーがどんなものか分からないけれど、少なくともジェイクは、お茶の男にもヤンにも、生きた人間の姿を見たことだろう。それはこの作品を観ている私にも同じことがいえる。
すごく好みの作品
めちゃくちゃ好みの作品だった。
部屋の構図、人物の動き、小津ショット。静謐感の中に完璧主義の狂気が孕んでいる。
〝アジア的なもの〟というと、ある種のつくりもののような位置づけになっていることが多いが、本作は老荘思想、無為自然、有と無、食文化、小津的家族の在り方など、〝アジア人が育んできた文化〟そのものが散りばめられていた。接木や茶葉や蝶のエピソードも好き。
私自身がアジアらしさについて思いを巡らせたときに広がる世界観そのものだった。
人間は、自然の中で一つの存在として、宇宙と調和して生かされている。人間がつくりあげた技術も、この道(タオ)の原理原則から逸脱することはできないのだとすると、テクノもクローンも自然の摂理だ。
そして、過去の失われたものを検証するには、曖昧な人間の記憶よりも〝今ここ〟を記録するテクノの記憶のほうが無為自然の境地に近づきやすいのかもしれない。写真、水、鏡がそのことを象徴していた。
時空を超えたメモリーボックスのビジュアルが、まるでヤンの意識がタオに漂っているようだった。あらゆる境界線を越えた愛のような。
I wanna be 風やハーモニー。
ヤンの純粋な記憶を辿りながら、私はヤンはこのまま宇宙とひとつになりたくて機能停止したんじゃないかなと想像した。
ラスト。遅ればせながらやっと両親も、〝テクノも家族なんだ〟と気づく。大人の人間は遅れている。
唯一
ファミリーダンスバトルから始まる
「4人」家族用の
世の中にはいろんな形の家族がある
血のつながり、人種、アンドロイド
彼らはそれらを超えた家族
それを繋いでいたのはアンドロイドのヤン
彼らは確かにお互いが愛し愛され必要とされる家族だった。
父はヤンの時折会話の中で「その言葉はプログラムにはない」と答えていた彼の数秒の記憶を読み取って、そのプログラムにヤンの気持ちを最後に封印されていた底にある人間らしさの事実を知る
ブレードランナーみたいな強いアンドロイドではなく、優しいアンドロイドのツヤツヤのヤンの髪型に光る輪が天使のようだった
優しいヤン
血のつながりについて接木の話を例えにゆったりミカに語るヤンが印象に残った
最後、静かに横たわるヤンにミカは中国語でなんと言ったのだろう。
別れの言葉か、感謝か愛か…
観ていて本当にタイトル通りビフォアの様子があまりなく「アフター」なのね…と思った
こんなに不味そうなラーメンは初めて観た。
メモリー‼️
ロボットが一般家庭で、家族の一員としての役割を担うようになった近未来。ロボットが故障し、修理に奔走する父親は、ロボットに撮影装置が組み込まれていたことを知る。新品だと思っていたロボットが実は中古で、何組もの家族の手から手に渡ってきたロボットだった・・・‼️その家族との時に美しく、時に悲しく、時に感動的な思い出‼️家族に優しく寄り添ってきたロボットと、家族との交流と絆の深さが静かに感動的な映像で描かれます‼️まるでアンドレイ・タルコフスキー監督の「惑星ソラリス」、最近ではドゥニ・ヴィルヌーヴ監督の「メッセージ」のようなタッチですね‼️もっと評価されて良い秀作だと思います‼️
ヤンと家族のドラマ
意外にもアート系
出自の良く分からない品物
中級の夫婦が中国系養女(中華系なのになんでミカなんだろ?)のために買った再生品の青年テクノ・サピエンス(アンドロイド)「ヤン」。こいつが突然故障する。悲しむミカのために父は修理に奔走する。ところがヤンにはスパイウェアが潜んでいたりなど、何かいわくつきのアンドロイドであることがわかる。販売店のそっけない「新品を買った方が安いですよ」みたいなとことか、友人のハッカーとのヤンのあつかいめぐる違法だとかどうとかのやりとりや、テクノ博物館で判明する、実はヤンは貴重品ともいうべき古いモデルだったこととか、なかなか面白いネタが盛り込まれています。
スパイウェアとして動画が記録されており、苦労してこの記録を掘り出して観る父。そこで彼が見たものは.... なかなか秀逸な作品でした。
ミカ役の少女がとてもかわいい。インドネシア系らしい。
全110件中、1~20件目を表示
















