アフター・ヤンのレビュー・感想・評価
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結局
その映画の雰囲気を好きな人は、その映画に対する評価は高いし、そうでなければ、当然低い評価となる。(と思っていた)
よく、矛盾点などを見つけて、厳しい評価にする人がいて、どうしてそこが気になるのかなあ、と不思議な気持ちを持つことも多かった。しかし、この映画を見て、評価の観点が違ったんだという当たり前のことに気づいた。
たぶん、この映画の内容については私はあまり理解していないが、それでもこの雰囲気はとても好きだ。
雰囲気(その映画の世界観)を作っているのは、音響だったり、構図だったり、出演者の演技だったり(もちろんストーリーも)するのだろう。そして、それらを形作っているのは何より監督の意図であろう。
なのに、今回、監督の意図をさほど読み取ったわけでもないまま、どこがどうというわけでもなく、見ていて心地よく、とても好きな映画のひとつになった。
追記)
二回目を見て、改めてよい作品だなと思った。アジア的というよりも日本的なものを感じた。「日日是好日」と共通なものを感じた。
この監督さんの他の作品を見てみたい。
AIロボットに感情はあるのか?
AIの進化が著しい昨今だからこそ、ここで描かれる物語を観ると色々と考えさせられるものがある。
ジェイクの家庭は少し複雑である。白人のジェイク、アフリカ系黒人のカイラ。そして娘のミカは中国人の養女である。人種はバラバラであるが、彼らは強い絆で結ばれている。そして、おそらくミカが寂しい思いをしないために、ジェイクは同じ中国人型のAIロボット、ヤンを購入したのだろう。ミカはヤンのことを本当の兄のように慕っている。
そのヤンが、ある日突然機能不全に陥ってしまう。様々な思い出が詰まったヤンと別れることなどできない…とジェイクは奔走することになる。
故S・キューブリックの原案をS・スピルバーグが監督した「A.I.」は、AIロボットに感情が芽生えるという物語だったが、それと今作のヤンはよく似ているという気がした。
機能を停止したヤンには記憶のメモリが残されており、映画の中盤以降はジェイクがその中身を紐解いていくミステリー仕立てとなっている。その中で、彼は自分の知らなかったヤンのもう一つの過去を知ることになる。他人には打ち明けることが出来なかった孤独、愛する人との思い出、何気ない日常の一コマ、美しい田園風景等。ヤンが何を思い、何を欲していたのか。それを想像すると実に切なくさせられるのだが、これは同時にAIにも感情があったことの証にも思えた。
AIの技術開発はまだ進化の途中である。しかし、本作を観ると、もしかしたらそう遠くない未来に本当にAIは感情を実装することになるかもしれない。そんなことを思ってしまった。
本作は、そんなヤンの死を通して、人とAIロボットの死生観についても言及されている。映画の後半、カイラの回想の中で、思想家・老子の言葉を引用してヤンと死について問答を交わすシーンが出てくる。死は新たな始まりなのか?それとも無なのか?という哲学的な問いなのだが、なるほどAIロボットのヤンにとって”死”とは知識としては理解していても実感の持てない未知なるものなのかもしれない。
このシーンは本作で非常に重要なポイントだと思った。というのも、残された家族がヤンの死をどう受け止めるかという、いわゆる”喪の作業”というテーマに深く結びついているからである。
もし死が新たな始まりだと考えれば、この映画のラストはかすかな希望を灯しているように受け止められるし、逆に死=無と捉えれば実に悲しい結末と言わざるを得ない。
個人的には前者と解釈した。劇中で「グライド」という楽曲が二つのシチュエーションで流れるのだが、その使用の仕方を見てそう確信した。
ちなみに、この楽曲は岩井俊二監督作「リリィ・シュシュのすべて」の中で使用された小林武史プロデュースの曲のカバーソングである。
監督、脚本はコゴナダ。前作「コロンバス」は未見だが、全編抑制されトーンが貫かれており、これがこの監督の特徴なのだと思った。
SFとは言っても、ビジュアル的な派手さはなく、現代とさほど変わらない日常が淡々と綴られるのみで、画面もジェイクの邸宅や自動車の中といった屋内シーンが多く、外の世界は極力映し出されない。インテリアなどの装飾品が一々アーティスティックで観てて飽きさせないのだが、メリハリという点では若干物足りなさを覚えた。確かに見ようによっては地味に思えるかもしれない。
ただ、そんな中、オープニングのアップテンポなダンスシーンはアイディアが斬新で一際印象に残ったし、ヤンのメモリにアクセスする映像演出はスピリチュアルなテイストも感じられ新鮮に見れた。真っ暗な空間にたくさんの光が星のように輝いており、その一つ一つからヤンの記憶を再生するという仕掛けが面白い。まるでアルバムのページをめくるような感覚を覚えた。そして、おそらくAIのメモリにも容量があるのだろう。それぞれ数秒程度の断片的な映像というところが何だか切なくさせる。
切ない記憶
前作の『コロンバス』は、とても穏やかで美しい映画だった。
今作でも建物やインテリア、漂う茶葉など、随所に美しい映像が差し込まれている。鳥の囀りすら計算されたかのような世界観。
前作と同じ撮影監督かと思っていたら違うのか。ならば小津安二郎に影響を受けた監督の美的センスなのだな。
コゴナダ監督すごく好みだ。
予告編でも使われていた、家族の幸せそうな写真撮影から始まり、その後の謎のダンスシーンに困惑。
故障したヤンを修理する過程で、タイトルの意味を理解、メモリーからヤンの事が少しづつ明らかになっていく。ヤンの過去を知れば知るほど切ない気持ちになる。
いろいろな愛情に溢れた映画だった。
さすがA24、もっと素直に表現したら!最後にミカが喋った中国語を誰か訳して下さい。
ミカが中華民国(台湾)でヤンが中華人民共和国と思いこんで見ると面白かった。
ヤンの圧縮アルファデータの奥にあったのは中国四千年の歴史。
西洋人(含む黒人)から見た中華思想に対する黄禍論だろうと僕は推測した。がしかし、お茶の作法、切子細工、盆栽、ラーメン、作業着、メイメイの名前。が全て日本の様に見えるが、何か意図する所があるのだろうか?
『分かる?』『プログラムされていないので分かりません。』つまり、一党独裁の中華人民共和国には、『民主主義』は分からないだろう。って言っている。
この映画をファンタジーとかSFと見るべきで無い。クローンもAI技術もある意味実現している。だから、
AIの奇跡(人間の感情を持てた)は表現していないと僕は思う。
AIが人間の感情を超える事は絶対に無いと断言できるし、唯一超えられるとすれば、本性とか本能だろうと思う。つまり、AIに搭載されたロケットがそれだ。
AIは絶対に人を越すことは出来ない。その理由は言うまでも無い。理由を現実的に考えて貰いたい。
人工物の死生観
コリン・ファレル久しぶりでした。
「フォーンブース」がお気に入りで、リメイクの「トータルリコール」はそのあとだったと思うけど、それ以降はいくつか観た気もするけど、あまり印象が無いです。
コゴナダ監督は初見ですが、固定カメラで美しい画面が印象的ですね。ヴィルヌーブ監督が洋の様式美とするならば、こちらは少しアジアの様式美を取り込んだ感じか。
SF映画としてのギミックは、映話というべき電話と、全体像が見えない車、”テクノ”と呼ばれる人工人間くらい。未来を押し付けずに、現代人からして違和感のない、未来の当たり前の生活感をうまく表現できていた。
中国系の子供ミカが慕うテクノであるヤンが、ある日突然動かなくなってしまう。ヤンを治そうと父親(コリンファレル)はあちこちあたるが、うまくいかない。そんな中で、ヤンの中のチップにビデオデータが記録されている事が判明。その映像を手掛かりに、ヤンの過去を遡る。そして、静かに静かに物語は進み、ヤンに関わっていた人たちの思いや人生をほんのりと映し出す。
アイボのように、人工ペットを家族として愛情を注ぐように、人工物に人が情を移すのは普通だと思う。本作はそれを超えて、その人工物がどのように感じていたのかを想像していく物語だ。もしかすると、深い想いがあったのかもしれないし、そうではなく無機のプログラムの反応があっただけなのかもしれない。
ヤンが動いているうちはわからなかったが、彼が失われてしまったからこそ動く感情があることで、彼の存在がより際立つ。彼に感情や感傷があったかは定かではないが、彼を取り巻く人間たちに影響を与えていたのは事実として残る。生物か否かに関わらず、その影響が重要だということだろうか。
テクノであるヤンの死(?)は、治るかもしれないという期待感と、治らないと判るまでの間の曖昧な時間が、人間の死とは違う。こうした今までに無い状況を、どう受け入れればよいのか、ヤンの遺したものは何だったのか、心の体操として捉えると面白い作品であった。
シネフィル系映画オタクの品のある小津オマージュ
本作のコゴナタ監督はvideo essayという、映画監督の映像から様々な作家性を分析するという動画を何本もつくっていた生粋の映画オタクである。
そこでは小津安二郎、ベルイマン、ヒッチコック 、ブレッソン、ゴダールなどの大巨匠の作品を取り上げており、彼の作風もそれらの作品を土台とした映画の美学が通底していることがわかる。
特に小津への敬愛は相当なもののようで、
本作でも何回かその片鱗をみせていた。
しかしそれもこれ見よがしなオマージュでは一切なくて、さりげなく品がある。
家族愛というテーマ、定点カメラや建築などの空間へのこだわり、細やかな小津イズムが感じられる。
サントラは日系アメリカ人のaska matsumiya氏が手掛け、リリィシュシュのカバーソング、UAの水色などが使われており、テーマソングは坂本龍一に頼んだりと、日本オタク的な側面もみえて、映画、音楽マニアとしてはそういうマニアックな楽しみ方もできる。
意外だったのはオープニングのダンスバトルで、彼の作風的に考えられないようなテンションだったので、あのようなこともできるのかと伸びしろのようなものを感じた。
何も否定しない、アンドロイドもクローンもどんな人種の人間も。 優し...
何も否定しない、アンドロイドもクローンもどんな人種の人間も。
優しい映画でした。
映像もとても綺麗
「記憶」に関する物語を静謐な世界観で描いた一作。
短編小説を原作として、ノスタルジックな雰囲気とSF的な描写が絶妙なバランスで調和した作品。予告編を見ただけでも抑制的なトーンが伝わってくるけど、不思議な余韻を残すラストシーンまでゴゴナダ監督の語り口は終始一貫しています。さしずめ派手な見せ場を省いた『DUNE/砂の惑星』(2021)といったところ。ミニマリスト的、と表現しても良いような、簡素かつ静かな語り口が最近のSF映画の潮流なのでしょうか。
細部まできっちり描写しつつ、柔らかな光を多用するという画面作りは、静謐な作品の語り口と調和していて、より世界観の一貫性を高めています。SF的な要素は随所にちりばめられているけど、どれももう少ししたら実現しそう、という現実との地続き感があって、だからこそヤンの残した映像に奇妙な生々しさ、親近感を感じさせます。
コリン・ファレル(ジェイク)もジョディ・ターナー=スミス(カイラ)も、もちろんみごとな演技を見せてくれますが、二人の娘を演じたマレア・エマ・チャンドラウィジャヤは特に素晴らしく、印象的です。またヤンを演じたジャスティン・H・ミンは、人型ロボットの雰囲気を漂わせつつも、人間的な温かみのある視線、表情がとても良く、彼の演技によって物語に強い説得力が加わっています。
鑑賞前は『デトロイト:ビカム ヒューマン』のような作品なのかと思っていたら、サイバーパンクじゃない『サイバーパンク2077』だったとは!ブレインダンス的な技術も出てくるし。
SF好きでなくてもそうでなくても楽しめる作品ですが、静かで謎めいた描写が続くので、心身に疲労が溜まっている時の鑑賞は、人によってはよい導眠剤になるかも。作品を存分に味わうならば、おめめぱっちりの時に観るのがおすすめ。
ダブルミーニングなのか?
知人に勧められて観ましたよ。
前作「コロンバス」も勧められてたけどタイミング合わず未見。
お茶やらラーメンやら、住居もアジアのリゾート風。
映像も話の進みも緩やかで静謐。美しい。
家族も人種、養子、アンドロイドごちゃ混ぜで少し違和感感じたが近未来はそんな感じかも知れない、、、
慣れとかなきゃね。
新古品、認定中古という触れ込みで購入したが、ある日突然動かなくなったアンドロイドのメモリーを辿る話。
間違ってたらごめんなさいなんですが、、、、ヤンが昔支えた女性の血縁者をカフェで見つけて好きになったってはなし?
メモリーかなり使い回してるうちにAIが好意や恋愛感情持った、、、って話?
ある家族のアフターヤンと
感情を持ったアンドロイド、アフターヤンとダブルミーニングなのかな?
各自見て確認してみて下さい。
ヤンのメモリー空間が宇宙みたいで美しかった。
果てしない感じでメモリー探しするの絶望的だなと思う一方、記憶の美しさ大切さを感じられる良いカットであった、、、にしても父さん感傷的すぎやしないか?
お茶屋さんの経営が心配だ。
まあ、母さんキャリアでバリバリ稼いでるぽいから大丈夫か、、、。
俺たちはロボットじゃない人間そのものだ
コゴナダは韓国系アメリカ人らしいがそのせいかはわからないが、欧米人のシノワズリ、オリエンタリズムを感じてしまう。日本茶飲んで、座禅組んで、兵法読んでるようなIT系の人みたいな、ノリを感じてしまう。
何より、親が黒人、白人でその養子とそのケアをするロボットが黄色人って構図から差別的に思える。黄色人は黄色人から生まれるし、ケアするために生まれているわけでもない。黄色人男性優しそうというステレオタイプを踏襲している。
これ事態が差別的な見方かもしれないが、黒白カップルの間に黄の養子をもらって、黄ロボットに面倒みさせていたら、自らのルーツを認識するときにどうしたって黄ロボットに懐くだろう。そのあたりの考えをもっと聞いてみたいが、この映画ではそこに全く触れない。アメリカの養子文化を知る良い機会なのに。
アジア的循環型世界観に驚いてもいいけど、アジア人の私にはそれをロボットに言わせることで、アジア人をロボットかのように思ってしまうのでないか。欧米の他の肌の色の人がこれに感心するのはいいけれど、日本人がこれ観て感心するかな?
ラーメンすするのを下品と思い、ジャンプカットしてしまうのは悲しい。
【人形ロボット(テクノ)ヤンの"故障"により残された"家族"が、喪失感からヤンの過去を追体験する事で、癒やしに包まれて行く静やかで、美しいSFファンタジー。(寝不足での鑑賞は危険な映画でもある。)】
- 茶葉の販売店を営むジェイク(コリン・ファレル)には、妻のカイラ、中国系の養女ミカに加え、家庭用ロボット(見た目は人と変わりなし。)ヤンと家庭の様に、仲良く暮らしていた。
だが、ある日ヤンは故障して動かなくなってしまう。-
◆感想
・落ち込んだミカや家族の為に修理方法を探すジェイク。
そして、ヤンの体内に主観的な記憶を動画として記録する装置がある事を知る。
但し、その動画は一日、数秒間のみ・・。
- そのメモリーを再生、巻き戻しを繰り返しながら、ジェイクが見たモノ。
それは、エイダと言う女性であったり、彼が何に関心を持っていたかを知るのである。-
・ヤンの記憶が、鏡の様に機能し、生き残ったジェイクは自分自身のヤンに対する思いを再発見する過程がフラシュバックの様に映し出され、美しくも面白い。
・ヤンのメモリーには、ジェイクの家に来る前の記憶も刻まれている。それを観る事で、ジェイクの中にはヤンを失った悲しみと共に、ヤンに出会えた喜びを感じたのではないだろうか。
<近未来、人形ロボットは、人間にとって、家族の様になって行くのであろうかと思った、喪失と癒しの静やかで美しい、SFファンタジーである。>
A24 Ada lamb
tea leaf woods forest
river rain earth universe
spirit human clone life
spirit universe earth rain
water woods・・
reincarnation
粉も入れてー
ラーメン
スピルバーグの「A.I.」みたいな映画を想像して観に行ったので、ある意味、素敵に裏切られた。お茶屋さんのコリン・ファレルの家(店?)がとても素敵だった。どうして映画の食事シーンでラーメンは美味しそうに見えるのだろう。
ラーメンを啜るお茶屋さんのコリン・ファレル
必ずしも血でつながっていなくても間違いなく家族でいられることを、押し付けることなく、でもはっきりと教えてくれる映画が大好き。
帰り道、午後の光を浴びながら、わたしが見た世界の断片も、わたしが死んだあとにああやって残ればいいなと思った。
星のような記憶たちは、なんだかインターステラーを思い出した。
じわっと染み込んでくる。
見た目や役割に、序列や優劣を持ち込み、社会の中で固定化する。
肌の色や人種、民族が異なっても互いを理解し合うことで、より深い絆を得る。
悲しいかな、いずれも人間の所業。
このテーマを扱った作品はもとより、毎日のように報道を通して触れるものの、ここまで穏やかに、そして問題の凄惨さや押し付けがましさもない。「考える」ことではなく「感じる」きっかけを与える、そんな作品だったように思う。
このテーマでこの表現様式は、自分にとっては斬新だった。
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