「ヒッチコック、スティーヴン・キングを継ぐサスペンスの語り手」RUN ラン 高森 郁哉さんの映画レビュー(感想・評価)
ヒッチコック、スティーヴン・キングを継ぐサスペンスの語り手
2018年の「search サーチ」で鮮烈な長編監督デビューを果たしたアニーシュ・チャガンティによる第2作。前作はPCやスマホの画面上だけでドラマが進行するという映像スタイルが大いに注目を集めたが、ストーリー自体の面白さがあったからこそ映画もヒットした。そんなチャガンティ監督が、今回は映像的ギミックに頼らず、オーソドックスなストーリーテリングに徹して上質のサスペンスを楽しませてくれる。
冒頭、ダイアン(サラ・ポールソン)が病院で未熟児の娘を出産。画面が暗転して、テキストで不整脈、ぜんそく、糖尿病などの病状が順に説明される。最後の項目の麻痺では、「筋肉機能の不全により、体を動かせなくなる。走ることができない」と記される(英文のテキストでは文末の"run."だけが残って他が消え、これがタイトル表示にもなっている)。
これらの症例は、ダイアンの出産から17年後、現在のクロエ(キーラ・アレン)が抱える病状であることが、開始5分過ぎあたりでクロエの視点に切り替わってから明らかになる。クロエは車椅子生活を余儀なくされているが、ホームスクールの教師でもあるダイアンの指導により高校生レベルの学力を身につけ、受験した地元大学からの合格通知を心待ちにしている。
一見、生まれつき多くの病気と障害を抱えながらも明るく前向きに生きる十代の娘と、そんな娘の生活を献身的に支える愛情に満ちた母の美しい親子関係のようだ。だが、母親がキッチンに買い物袋を置いて離れたすきに、クロエが袋の中から見慣れない錠剤を見つけたことで、彼女の中にダイアンに対する疑念が芽生え、それが次第に大きくなっていく。
殺人犯や精神異常者といった映画の悪役に狙われる主人公に身体的なハンディキャップを持たせることは、サスペンスを盛り上げる手法としてたびたび使われてきた。ヒッチコックの「裏窓」(54)や英国の傑作サスペンス「恐怖」(61)などの主人公は本作同様車椅子を使っていたし、オードリー・ヘプバーン主演の「暗くなるまで待って」(67)以降は、盲目のヒロインが命を狙われるサスペンスも何本か作られた。
歪んだ愛情、監禁、身体的ダメージという要素でチャガンティ監督が手本にしたのは、スティーヴン・キング原作、ロブ・ライナー監督の「ミザリー」だ。クロエが緑のカプセル薬のことを尋ねた薬剤師の名前はキャシー・ベイツ。「ミザリー」の主演女優の名を拝借し、オマージュを表している。
さて、以降は本格的なネタバレになることをあらかじめ申し上げておく。
おそらく他のレビューで“毒親”や「代理ミュンヒハウゼン症候群」(これに代わる「他者に負わせる作為症=FDIA」という症名が近年米国などで推奨されている)という用語を目にすることも多いだろうが、微妙にずれている気がする。鑑賞済みの方ならおわかりのように、クロエはダイアンの実の娘ではない。真の娘は出生後すぐに死亡し、ダイアンが同じ産院にいた他人の乳児を誘拐して育ててきた。幼少期は健常者だったクロエは、ダイアンが与えてきた薬物によって下肢の麻痺をはじめとするさまざまな障害を持つようになった。FDIAの主な動機は、他人からの注目や評価、経済的な利得だという。これらもダイアンには当てはまらない。
ダイアンとクロエの歪んだ危険な関係の本質は、端的に言えば、虐待の連鎖だ。他人の子を誘拐したこと自体は、出産直後に娘を亡くした悲しみと喪失感を埋める代償行動だったろう。しかし我が子として育てていくうち、クロエが健常のまま大きくなったら、いずれ自立して手の届かないところへ行ってしまうことに気づく。それを防ぐには、クロエの体を薬物で弱らせて、庇護する親と庇護される娘の関係を永続させればいい。
ダイアンがシャワーを浴びるシーンで、背中に古い切り傷があった。また、YouTubeで視聴可能な削除されたシーンでは、ダイアンが7歳の時に目の前で母親が自殺したこと、母親もまたダイアンを虐待していたことが新聞記事で明かされる。つまり、ダイアンの背中の傷は幼少期に母親からつけられたもの。ダイアンがクロエをいつまでも手元に置いておきたいのは、虐待する対象を欲しているからだ。
そう考えると、ラストの30秒は、クロエの単なる復讐ではない可能性が高くなる。クロエもまた、虐待する対象を欲しているのだとしたら。いつかダイアンに薬を飲ませることができなくなったとき、その矛先は我が子に向かうのではないか――そんな恐ろしい未来を予感させる。虐待の連鎖はどこまでも続く。
観賞後レビューを読ませて頂き納得がいきました。
クロエがラストで「息子に初めて義足をつけて」といったような話をしていましたが、すでに連鎖が起きてしまっているのですかね?