劇場公開日 2022年9月23日

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「母と娘、喪失と再生の森」秘密の森の、その向こう KAPARAPAさんの映画レビュー(感想・評価)

4.0 母と娘、喪失と再生の森

2025年11月25日
PCから投稿

自らの腹を痛め子を宿し産むことのできない男性に、この映画がどれほど深く理解できるだろうか。
おそらく、それは私の理解の外側にある領域に属する映画である。
祖母、母、娘——三世代の女性の関係が描かれる本作は、まぎれもなくフェミニズムの映画である。
ネリーが未来からやってきたのか? それともマリオンが過去からやってきたのか?
そんなSF的な整合性など、この映画には無用なのかもしれない。
「信じる? 私はあなたの子供——娘なの」
「未来から来たの?」
「裏の道から」
これで全てが完結している。
この映画の重心は、論理ではなく「信じること」にある。
そこにあるのは時間や空間の交差ではなく、感情と記憶の共鳴である。
ネリーは母の複製ではなく、母もまた娘の鏡像ではない。
親子の関係とは、たとえ同年代の姿で再会したとしても、決して対等な友人関係にはなり得ない。
映画冒頭、車中でネリーが母にお菓子を食べさせる場面は、一見微笑ましいが、どこか共依存の匂いを漂わせる。
母娘という血縁の特異な距離感が、やがて母の喪失感によって崩れ、母は娘を置いて姿を消す。
室内での撮影は、まるで時間そのものが柔らかい光に包まれているかのように設計されている。
特に双子の姉妹の真っすぐな眼差しを受け止めるような照明設計は見事である。
光は単に顔を照らすのではなく、彼女たちの内面に差し込む「記憶の明るさ」を映し出している。
カーテン越しに差し込む午後の陽光、森の木漏れ日、ランプの反射——それらはすべて“母と娘を隔てる時間”の比喩として機能している。
カメラは決して彼女たちを支配的な視点で捉えず、常に目線の高さで、静かに呼吸するように寄り添う。
この穏やかな光と視線の交錯こそが、映画全体の構造的中心軸であり、台詞以上に二人の心の距離を語っている。
残されたネリーは、喪失の痛みの中で森へと入り、そこに幼い頃の母——マリオンと出会う。
森は、過去と現在、記憶と現実が交錯する場所であり、二人の心が共鳴する“魔法の空間”として描かれる。
脚の手術を控えたマリオンの不安、母に置き去りにされたネリーの不安、祖母の杖に残る匂いの記憶。
これらすべてが森の中で交錯し、母と娘はお互いを「一人の人間」として再認識していく。
この映画の核心は、母と娘という関係を通して描かれる「喪失の不安」と「相互受容」にある。
森で過ごした時間は、母娘が互いの痛みを理解し、愛を取り戻すための再生の儀式だった。
祖母から母へ、母から娘へと受け継がれる眼差しの連鎖——。
その光は世代を超えて、性別や文化の境界さえも越え、観る者の内に潜む「喪失」と「受容」の記憶をそっと呼び覚ます。

KAPARAPA
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