「周りの大人たちが、かつて“誰かの子ども”だと知って、不思議な気がしたことがあるすべての人へ」秘密の森の、その向こう しろくまさんの映画レビュー(感想・評価)
周りの大人たちが、かつて“誰かの子ども”だと知って、不思議な気がしたことがあるすべての人へ
ネリーは8才の女の子。
彼女が病院を後にするシーンから本作は始まる。
病院で彼女の祖母(母の母)が亡くなったのだ。
ネリーは個室を回って、入院患者たち(祖母のお見舞いで病院に通ううちに親しくなったのだろう)に「adieu」とさよならの挨拶を交わす。
その後ネリーは両親と一緒に祖母の家(つまり母の実家)に行く。
亡くなった祖母の家を片付けるためである。
だが、母親のマリアンは姿を消してしまう。
祖母の家は森の中にあった。
父親が家を片付けているあいだ、ネリーは近くの森に出かけ、そこで自分と同い年の少女と出会う。
その少女はネリーとそっくりで、しかも、彼女の母と同じ名前「マリアン」と名乗った。
2人はすぐに打ち解けるが、少女の家に招かれたネリーは驚く。
その家は、いま自分が過ごしている祖母の家と同じだったからだ。
そこで出会ったマリアンの母は、足が悪く杖をついていた。その杖は、ネリーが祖母の形見にもらったものと同じだった。
マリアンはネリーの母親、そしてマリアンの母親は、ついこないだ亡くなったネリーの祖母だったのだ。
本作の原題はPetite Maman、つまり「小さなママ」。
誰もが、自分が子どもの頃、親も含めた大人たちが、みな、かつては「誰かの子ども」だったということに、不思議な感覚を覚えたのではないか。
本作の主人公ネリーは、「子どもの頃のママ」と出会い、まさに、そういう事態に“リアルに”向き合うことになる。
ネリーはだから、とても奇妙な感覚を覚えただろう。
でも、いくら未来の自分の母親だとしても、目の前のマリアンは同い年の少女だ。2人は仲良くなり、いっしょに遊んだりクレープを作ったりして楽しく過ごす。
子ども特有の、気が合えばすぐに親しくなって心が通じる。そういう関係が描かれている映画は、これまでもたくさんあったが、この2人が、未来においては母と娘である、というところが本作のミソである。
母親と「友達になって」、少女のときを楽しく過ごす。それは、映画の中でしか有り得ない、おとぎ話だ。
“おとぎ話”の時間で母との距離が縮まったネリーは、ラスト、母親を「ママ」ではなく「マリアン」と呼ぶ。
ネリーたちが行ったときから祖母の家は片付いていて、入院生活が長かったことが窺えた。長い入院生活の世話からだろう、ふさぎがちになっていたママに、ネリーはさらにうまく寄り添うことが出来るようになったみたいだ。
少女のマリアンは手術のため、もうすぐ入院することになっている。ネリーは、その手術を乗り越えた母を知っているし、話も聞いている。
だから、ネリーは少女のマリアンを励ますことが出来る。
そもそも現代のマリアンも、母を亡くし悲しみの中にいた。
身近な人が元気を失っていたら、相手が年上だろうが、自分が子どもだろうが関係なく心配になるもの。
相手は母親で、自分はまだ子どもなんだけれども、身近な人をいたわるネリーの純粋さがいい。
ネリーは、祖母の臨終には立ち会えなかった。そのため、亡くなった祖母に、「adieu(さよなら)」と言えなかったことを悔やんでいた。
「おとぎ話の時間」の中で、彼女は心残りを解消する。入院するマリアンを乗せて車を出そうとする祖母に、ネリーは「さよなら」と言った。
今度は大切な人に別れの挨拶が出来たネリーは満足そうだった。
青い服のネリーと赤い服のマリアンのコントラストが美しい。
何より、2人の子役が可愛い。ちょっとしたいたずら、いっしょに冒険を楽しむ表情が印象に残る。
現代の、祖母が亡くなった家は寒々しいが、少女マリアンの住む家は、同じ家だが暖色系で彩られ、温かく描かれている。
こうした対比も見事だ。
子どもは若いのだから、当然、周りの大人の死を経験しながら成長する。
生きるということは、すなわち、死者を見送る、ということでもあるのだ。
本作は、そういう、生きていれば誰にでも起こり得る人生の1コマを取り出し、ネリーにとっての特別な時間を描き出した。
上映時間73分の小品ながら、大切な人との喪われた時間への想いに満ちた素敵な“おとぎ話”である。