白い牛のバラッドのレビュー・感想・評価
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分かるけど黙ってては…
駄目だろう。無実の人に対して死刑判決を下してしまった贖罪の意味もあって、近付き財産を与え、面倒を一生見ようとしたのか。イランにおいて子持ちの未亡人ほど生きにくい中で、優しい男が寄ってきたら頼ってしまう、これは正体を明かさなかった判事がやはり悪い。裏切られたミナの心中たるや計り知れない。ラストは復讐せず、出ていってしまったのだろうか。復讐のシーンは彼女の妄想なのか、引いたはずのルージュが部屋から出ていく際には消えていた気がする。
とても悲しい物語
観終わって思ったのは、とても悲しい物語。
この女性の選択は、怒りに身を焦がした結末だったのか。
彼女の身に起こったことはとても悲しく許されるべきものではないのかもしれないが、彼女の取った行動は自己満足で忌むべき副作用を産むことに哀しみを覚えた。
また国における冤罪の発生率の高さもあるだろうが、この物語ではその点をフューチャーしてる訳ではない。
未亡人も離婚したオンナも前科者扱いのイスラム社会で。
あー、なんか最近、飲み込めて来た。イラン映画。あれですよ。一発の衝撃狙い。インパクト追求型、って言うか。一発ホームランの大振り、ワンスイング主義、って言うか。
だがだがだが。
処刑されたダンナの知り合いだと名乗る、この、謎の紳士の正体がですよ。うっすらと想像できたりする訳で。あー、来たよ。やっぱりだよ。と言うか、そういう風に謎がバレる訳ね。
で、鍋で沸騰するミルク。ヘロインですかね?過剰摂取?
捕まれば死刑は間違いなし。
イスラム教徒は牛を食べても良いが、気絶処理(スタニング)の後に絶命処理される。一方、宗教処理(ハラール)では、意識があるままでと殺が行われます。意識のある動物に苦痛と恐怖を与えるものであり、現代社会では忌諱されているものです、が。
白い牛のバラードとは、ハラールなんですね。繰り返し見る夢の中に出てくる白い牛は、彼女の深層心理に眠っているハラールの欲求であったと思われ。ゆえに、恋心を抱いている相手であっても躊躇が無い。衝撃的なオチでしたが、これがイランの流儀だと分かって来ると、あーそうですか?的なガッカリ感もあったりして。
結構、微妙だった。
よかった
宗教と司法の結びつきが強くて怖い。冤罪で死刑になっても、神の思し召しと言われる。主人公は、夫の判決を導いた判事を憎んでいるのだけど、その判事の一人と正体をしらずに親しくなる。体を許したようなことがほのめかされる。その判事は判事で長男に死なれてしまうし、つらい。
大家の権利が強くて、独身なのに自宅に夫以外の男を招き入れたことで契約を解除される。人権の扱いが軽い。旦那さんの実家の人たちもひどいし、女性が生きづらい。シングルマザーで育児して工場で働いて、内職までしてあまりにハードだ。
社会も厳しいし、個々の人生も厳しい。判事が娘と手話を習いながら会話していた場面がとても暖かいのだけど、その直後に正体がばれるので、きつい。
白い牛は供物かと思ったら捕食者!
父。誰かをなぐって、相手が死亡。取り調べで嘘の自白を強要され、殺人罪で死刑に処せられます。日本であれば、殺意がなければ傷害致死罪のケース。処刑後に証人が証言を覆し、実は致命傷を与えたのは別人であったことが判明します。法も証拠も捜査もおざなり、そら冤罪が多発しますわ…。①傷害致死罪に死刑を適用する法体系②自白や証言に頼った検察の捜査③「疑わしきは罰せず」という裁判の原則が徹底されていない判決、以上の3点がこの冤罪事件の要因だと思います。「神の思し召しだ。しゃーない。賠償金払うし」で済ませようとするのは社会の未熟さの現れです。判事は判決を誤ったとは言え、法を犯した訳ではありませんし、冤罪の責任を判事個人に追及したところで仕方がない。でもこの映画は一人の判事にフォーカスしていきます。
元判事の男。誤った死刑判決に加担した責任を感じて判事を辞任。身分を隠し、死刑になった男の古い友達だったと嘘をついて未亡人に接近。貧乏に苦しむ彼女に大金を渡し、彼女がアパートを追い出されたら立派な家をあてがいます。元同僚が男を説得するシーン。「冤罪はお前の責任ではない。法の問題だ。職場復帰してくれ」筋が通っているのに、なぜか男は聞き入れません。「初めての死刑判決で冤罪だった…僕には刑事事件はムリだ…」この元判事、どこまでナイーブなのでしょうか。それとも、元は傲慢だった男が、冤罪事件のせいで変質したのでしょうか。理由はよく分かりませんが、彼は妻に逃げられ、息子には心を閉ざされています。
未亡人の女。夫が冤罪で死刑になったことが許せません。当然です。ですが、彼女の怒りは偽証した男ではなく、判事に向かいます。新聞広告で判事に謝罪を求め、さらに最高裁に訴えます。妻の怒りが判事に向かった理由、判事があそこまで責任を感じる理由、そこに共感できないので、この二人に感情移入できません。どんなに判事を責めたところで、どんなに判事が責任を感じたところで、冤罪がなくなるわけじゃないのに。事件で死んだ被害者の妻が女の元を訪れるシーン。「冤罪であることを知らなかった。私は偽証した真犯人を許してきた。あなたも私を許してくれ」泣きながら許しを請う女性に、彼女は許しを与えません。身分を偽り、自分に親切にしてくれた元判事にも許しを与えません。そもそも許しとはなんなのか。彼女が許しを与えない理由はなんなのか。ちょっと理解できませんでした。
彼女には耳の聞こえない小学生の娘がいます。死刑になった父のことを「仕事で遠くに行っている」と嘘を教えます。それを信じた娘は学校で先生や級友に「嘘つき」と非難されています。彼女は、なぜ自分が周囲から受け入れられないか、理解できないでしょう。家でソファに寝ころんで古い映画のビデオを見ている彼女の姿を見ていると、なんともやるせない気分になります。彼女は父が死んだ理由も、2度の引っ越しの理由も、謎のおっさんの正体も、世の中や世界で起こっている現実も、何も知らないままに育っていくのでしょう。果たしてそれがやさしさと言えるのか。真実を隠すことが親の愛情なのか。何気ない会話の中での母の一言「お母さんがお婆ちゃんになったら面倒見てくれないの?」娘は何も答えられずにうつむきます。このお母さん、俺から見たら毒親です…。娘の親権をめぐって義父と争うのも、果たして愛情からなのか…。もし娘の将来を真剣に考えているのなら、あのラストはあり得ませんが…。
かわいそうな未亡人と親切な元判事は、徐々に距離を縮めます。未亡人は手料理と看病で男を籠絡、男が弱ったところで、毒々しい赤い口紅を塗った女は男を捕食します。女と、何も知らない娘は街を離れ、流れていきます。
父は嘘の供述を強いられ死刑になり、母は嘘で誤魔化し、信じた娘も学校で知らずに嘘をつき、元判事は嘘を重ねて破滅する。みんな嘘をついている。嘘も方便とも言いますが、相手のことを思ってつく嘘が、実は相手をダメにする。真実を告げないという罪深さ。そんなことを考えさせる映画でした。間違った方向へ怒りを向け、誰にも許しを与えず、娘をスポイルし続け、親族にも心を開かず、孤立していく母親。彼女の心の闇を思うと空恐ろしい気分にさせられました。白い牛は供物かと思わせて実は捕食者、慈愛の象徴であるミルクで命を奪うあたり、この監督、なかなかの遣り手です。
しかし、本作が本国で上映禁止になるという風土や文化が変わらない限り、あの国では今後も冤罪で死刑に処せられる人が後を絶たないのではないでしょうか。
見事な宣伝文句です
「冤罪サスペンス」と謳いながら、サスペンスぽい要素があったのは、ラストの牛乳を飲むシーンだけでした。宣伝文句に見事に騙されましたね。観る前、観ている途中までは、真犯人がどんな経緯で暴かれるのか、死刑になった夫からお金を借りたと言って突然現れた男は誰で、何の目的があるのか?などと、ちょっとドキドキしながらあれこれ勘繰ったりしていました。しかし、そんなことは早々とどうでもよくなり(つまりタネ明かしされて)、母子2人とその男、あるいは、母と男との交流、もしくはその次第に変化していく関係性のほうが私としては見ものでした。サスペンスではなく、人間ドラマとしてよく出来た作品だったと思います。
とにかく色々と考えさせられる難解な映画でした
映画はいきなりクルアーンの牝牛章、第68節の引用で始まるわけですが、その後、刑務所らしき場所で複数の人たちに囲まれている白い牛が映り、なんともシュールな映像でした。クルアーンの中でも最長の280節あまりの章句を含む、総則的な章である牡牛章には、牝牛をアッラーに供える物語やキサース(所謂同害報復の法)の定めについて書かれていることから、この映画が無辜な人が犠牲となる物語であることを予感させてくれます。
このキサースをテーマに冤罪とからめて扱っているだけに、死刑制度について考えさせられることになるのですが、劇中にはレザの同僚判事が、死刑が不可逆な刑罰であるとしても、仮に有期懲役で処罰したところで、冤罪の場合、失われた時間は取り戻すことができないという趣旨の発言をする場面があり、死刑制度だけではなくて、死刑を含む司法制度そのものについて日本においてもしっかりと考えなければならないと思わされました。また、人を裁くということは、特に冤罪の場合、劇中のレザのように職業裁判官ですら悩み、良心の呵責を覚えるようなことなのですから、我々一般市民が裁判に参加する裁判員制度について、もう一度考えてみる良い機会だとも感じました。
また、現在のイランにおけるシングルマザーの問題などについても鋭い視点で描かれていることに感心しました。一夫多妻制や女性のヴェールについて、それは女性を抑圧するものではなく、女性を外部の人間の悪意から保護するためのものであるなどと偉そうなことを言っておきながら、自分を守ってくれる人のいないシングルマザーなどの女性に対するセーフティーネットが貧弱であるイランの現状を見事に明らかにしてくれています。また、親戚でもない男性を部屋に入れたというだけで、部屋の契約を解除されるというのは、我々日本人にはなかなか想像がつかない世界だと思いました。
上映された映画からは少し離れますが、この親戚でもない男を部屋に入れたシーン等について、youtubeにアップロードされていた第38回ファジュル映画祭の記者会見を見たところ、ファールス紙の記者が「良識のあるイラン人女性が見知らぬ男性を部屋に入れるわけがないから、この女(ミナ)はイラン人ではない」などと発言したことに対して、「ミナはイラン人です」と一刀両断にマリヤム・モガッダムが答えていたのが気持ちよかったです。タブーに挑戦する姿にあこがれます。タブーに挑戦と言えば、ミナが口紅を塗り決意を固め、レザのいる部屋に入る際に、ヘジャーブを外してから入室するわけですが、イラン映画で女性がヘジャーブを外し、髪の毛がすっかり見えている状態を画面内で見ることができるとは、本当に本当に本当に驚きました。素晴らしい攻めの姿勢です。
さて、物語は、このミナとレザが少しづつ距離を縮めてゆき、二人が一緒になるのかと思ったところで、ミナの義理の弟からレザの正体を暴露され、最終的にはこの二人がともに人生を歩むことにはならないという切ない終わり方をするのですが(劇中では、毒入りのミルクをレザが覚悟をもって飲み、死んでしまうようなシーンがありますが、これはミナの想像や何か象徴的なもので、実際には決定的なことをミナから告げられ、レザは覚悟をもってそれを受け入れたということなのだろうと思います)、自分がミナの夫に死刑判決を出した判事であると伝えることのできなかったレザの気持ちも分かるような気がしますし、無償の愛で自分を支えてくれたわけではなかったのだと、そして自分との面会も謝罪も避けていた判事が実はレザだったのだと分かった時のミナの裏切られたという気持ちも分かるような気がするので、なんとも辛い気持ちになります。
取り返しのつかない過ちを犯した時に、自分は素直にそれを認めて謝罪できるだろうか考えてみると、なかなかレザを責めることができません。レザはずっと悩んでいたと思いますし、何かきっかけを待っていたのではないでしょうか(そのようなきっかけは、仮に二人が一緒になれたとしても、一生訪れなかったかもしれませんが…)。例えば、車での移動中に、「理由もなくこんなに親切にしてくれるなんて」と言ったミナに対して、「理由はあるかも」とレザが答えるようなシーンがあったと思いますが、これなどは真相を伝えたいけれども、伝えられないレザの気持ちが表れている気がしますし、また、同じく車内の会話で、夫ババクへの借金を返してもらえることに、ミナがお礼を言った際に、「正しいことをしただけ」だと「正しいこと」に鍵括弧付きでレザが答えているようなシーンがあったと思いますが、これは翻訳が雑なので趣旨が伝わりにくいのですが、ペルシア語では「義務」という意味のVAZIFEという表現を使っており、「当然のことです」とでも訳すべきだったと思います。誤った判決を言い渡してしまい、死刑が執行された以上、最低限、金銭的に彼女を支えなければならないという気持ちがそのセリフになって現れているような気がします。「正しいこと」だと、自分には義務まではないけれども、そのほうが正義にかなうからという感じで、少し鼻につく気がします。レザーはそんな正義を気取る鼻持ちならない奴ではないと思います。
先ほど、取り返しのつかない過ちと書きましたが、今回の冤罪についてレザにどれほどの責任があったかを考えてみると、彼一人の責任でもないような気がします。確かに、証人の偽証が見抜けなかった点に過失があれば責められるべきかもしれませんが、問題は、取り調べの段階でババクが罪を認めるに至った警察等での(恐らく暴行や脅迫を伴う)取り調べにもあった気がします(イランの刑法では、判断力のある成人の1回の自白によって事実が認定されるので、今回の場合は証人がいなくても事実が認定されたかも? あるいは取り調べの状況から判断能力がなかったと認められることになる?)。このような取り調べを許す制度そのものが問題なのに、責められ、罪の意識を感じさせられるのは特定の個人というのは何とも辛い話です(ところで、ミナが最高裁に訴えを起こそうとした際に、時間の無駄だからやめるよう諭された時、「裁判官に怠慢はない」と字幕に出たような気がしますが、qosurを怠慢と訳すのは怠慢では? 裁判官としてなすべき注意を果たしていたかどうかが問題なのですから、過失と訳すべきだと思いました。それにqosurは怠慢の意味より、過失の意味で使われるほうが多い気がします。いや、恐らく、私の見間違いで、適切な訳がなされていたのでしょう)。
制度ということでキサースについて考えてみると、劇中でもキサースが権利と考えられていることはとても興味深いことでした。イランの刑法上、殺人事件の犯人をキサースで死刑にするか、死刑にする代わりに血の代償として賠償金を払わせるか決めるのが、捜査機関側でなく、被害者の遺族に委ねられているのですが、誤判で別人がキサースされたと聞かされた時の、被害者の遺族の心中たるや、さぞかし居心地の悪かったことでしょう。ちなみに、この賠償金も刑法上、ラクダ○頭等といった形が定められていて、ラクダや牛では支払えないことから、毎年これを金銭に換算して公表しているわけですが、今年は賠償金は47億トマンのようです。映画が公開されてから2年で金額が上がったとみるよりは、物価がそれだけ上がったということでしょう。イラン社会、本当に生活が大変そうです。
神は無謬であるかもしれませんが、神ならぬ人が人を裁くことの難しさや、過ちを償うことの難しさ、古くからの因習にとらわれる社会の生きにくさ(特に女性にとって)、等々色々と考えさせられることの多い映画でした。
ミナの心理を推し量る映画
自由にモノが言え無い国の人々は、色々なモノで置き換えたり暗示したりすると言う。冒頭 唐突に白い牛が登場するが 冤罪で死刑になった夫を表しているというが、私はイラン国民を示しているのではと思った。
未亡人のミナは 冤罪なのに夫を死刑にした裁判官からの謝罪を得ようと新聞広告まで出す。が、自分の子ビタに対しては パパの死をあえて 希望的な嘘をついて信じ込ませる。そのビタは聾唖なので 母親からしか情報が入らない。
聾唖者のビタはイランの国にあって「女性」というだけで声高にモノ言えぬ有様を表していると思った。
そんな二人に 夫の友達で、彼からお金を借りていたと言って身分を明かさずに近づくレザ。親切そうだが優柔不断で狡いレザはイランに於ける「男性」を体現しているのかと思った。
ミナとレザは、なんとなく親しくなっていく。無論 子どものビタも懐いていく。
ところが、兵役に行っていたレザの息子が突然亡くなってしまう。レザは、重油にまみれた海鳥のようにボロボロになってしまう。そんなレザを必死で看病するミナ。ミナは久しぶりに口紅をし、スカーフを外してレザを慰める。お互いを分かり合えたと思ったのかもしれない。が、しかし、レザは死刑判決を出した裁判官その人だったと知ってしまう。
最後の場面は分かりにくいが、私は、やはり「目には目を」の国の人だから 謝りもしなかった不誠実なレザに苦しみを与えたのだと思った。複雑なのだ、ミナは。
そして、そんなレザと共に歩めないと決断したのだと思った。いや、そういうイランという国ではダメなのだと表したかったのかもしれない。
シンドイ!
イラン映画
冤罪で死刑になった夫の無実がわかり
やるせない未亡人 娘さんは、聾唖者
そこに、親切な夫の友人が現れて
シーンひとつひとつが
重い
娘さんには、何も知らせてない。
義理の弟や夫の家族とも争わなくてはならない。
判決した判事も辛い
冒頭とラストの白い牛が鬱陶しい。
せめて
モー結構って言ってくれたら
うらみはらさでおくべきか!
日本人好みのする映画だと思う。いやいや、目には目をだから、我々日本人には分からないか。いずれにしても、微妙な映画。
似ている話は四谷怪談って所か。
魔太郎だ。
うらみはらさでおくべきか!
やっばり、日本人好みのする映画だ。
牛と牛乳
冒頭、コーランの引用から、牛はイスラム教だと、生贄になるものだと想像する。
そうすると、黒い群衆に囲まれた、白い牛のシーンでいきなり鳥肌ざわざわ。
全体的に、画が放つメッセージが強い強い。
あれが旦那さんてことでしょ…そういうことでしょ…公開処刑が主だということですし。
旦那さんはなにかの生贄ってことなんだ…?なんの…?死刑制度を存続させるため…?
牛が生贄だとすると、主人公が牛乳工場で働いてるのは何かの皮肉もこもってるのか、考えるけどわからない。
牛が白いのには、なにか意味があるのか…
ラスト、毒を盛ったのか一瞬思ったけど、
あんだけグツグツ煮立てた牛乳だから、高血圧でぽっくりいってもおかしくないよな…とも考えたり。
心臓発作に見せかけて…そして二人で家を出る。イスラム教の女性が、一度、スカーフを外して顔を見せたほどの相手なのに。
うーん、こわい。
しかも、この牛乳を提供するシーン、化粧してますよね。
イスラム教で、化粧は女性の唯一の自己表現とググったらでてきた。まじか…
ここで牛乳を飲ませた理由も考えると止まらない。
個人的には、悪いことした人にはそれ相応の罪を…と思うので、この映画をきっかけに死刑制度について考えを寄せるつもりはないけど、
家族を亡くした女性の気持ちの強さ、たくましさを受信しました。
冤罪はもちろんだめ。冤罪でなくなった人への物言いもドライすぎて、これがイランでは普通なのか、って衝撃強すぎたけど。
宗教とか神様って、重要なことでも神様のせいで片付けられちゃうから、救いにもなんないね。
宗教が関係する映画は難しいですねー、やっぱり。一回じゃ足りん。
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