白い牛のバラッドのレビュー・感想・評価
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死への代償は何か?
神が下した判決を人間が代わりに執行する話 本当に神って素晴らしい、なんでも神のせいにしても文句ひとつ言わないのだから。 冤罪は人が人を裁く上で必ず起きてしまう事だけれど、それを神の名のもとにしょうがないよねって言えてしまう社会は怖いですね。他人事ではないので。 冤罪は取り返しがつかない、残された家族も裁きを下した判事も深く傷つき立ち直れない。 死刑が一番多い国の闇に触れた画期的で心に刺さる映画でした。 贖罪をいくらしても命は戻らないし、許しも無い。 人間は罪を背負って生きるしか無いのだと改めて考えさせられました。 劇中、偽りの二人の関係がよくなるのが辛い、もしかしたら幸せになれるかもって希望があるのがなんとも言えないですね。いやこの二人が幸せになることはほぼ不可能なんですけれど・・・ 唯一、幸せ?楽?になれる方法は「許すこと」なのですがそれが出来ない。 心はそう簡単に割り切れない。 死刑への疑問、冤罪への批判、許しへの選択、ただただ重いテーマでしたが作品の完成度が高くて素晴らしかったです。 司法と宗教、人間が生きるために作り出した概念はどうやっても摩擦が生まれてしまうのですね。 ------------------------------------------------------------------------ 劇中セリフより 「君に報いが無いことを」 知らなかったからでは済まない事、しょうがないでは済まない事、物事には必ず報いが待っている。 反省の償いも、怒りの前では無力なのかも知れません。
話題負けしない、芯のある深い映画
本国イランでは上映禁止処分を受け、たった2回しか上映できなかったというキャッチフレーズが話題の映画 夫の死刑から一年経ち、冤罪だったと知らされる主人公 その賠償金を狙う亡き夫の親族 不意に訪れる亡き夫の友人 夫が殺人罪で死刑となり、聾唖の娘と2人、貧しいながらに懸命に生きる主人公 ある日突然、夫は無罪で死刑は過ちだったと告げられた日から、人生が思わぬ形で動き出す 何の罪もない主人公が、他人や環境に振り回される系のストーリー イランという独特の文化と風習の社会で、苦しみ悩みながらも凛と前を向き戦う主人公 そして意識的にも無意識的にも彼女を苦しめる男たちと社会 亡き夫の弔問に訪れた男性を家に招き入れただけで、アパートを追い出される現実 それを昨日まで友好的で夕飯もお裾分けしてくれた大家に告げられる残酷 "許す"と"許される"が日本とは比にならない重さを持つ社会で、主人公の最後の行動をどう受け取るか イランという国で、この映画を女性が制作・監督・主演したなんて、素晴らしい勇気と才能に感嘆する 話題負けしない、芯のある深い映画でした
冤罪は認めるが謝罪はしない。それは神を冒涜することだから……
夫ババクが処刑され、それが冤罪であったことが明らかとなるが、すでに夫はこの世にいない。夫の友人を名乗って現れる男レザは、親切で新しい住居の世話までしたくれた。ミナはレザの親切に感謝しているが、実はレザこそが、夫に死刑の判決を下した判事だったのだ。 死刑になったのであれば、それがたとえ冤罪であっても、神が決めたこと、導いたものとして、過ちを認めない。 事務的に処理され、賠償金は支払われる。しかしミナは、ただ過ちを認めて謝罪してほしい。それは自己満足でしかないかもしれないが、ミナにとっては唯一、夫が救われ、自分自身が救われると信じている。 イラン本国で上映禁止になった理由は、恐らくここにあるのだろう。イランという国は、宗教が支えている国であるだけに、過ちだったと認めさせること、謝罪させることは、神の決定が間違いだったと認めることでもあったからだ。 だからこそ、行政や国としては、謝罪をすることが許されない環境下において、ミナの行動は神への冒涜とも捉えられてしまう。国民性と言ってしまえば、それまてかもしれないが、国や宗教、人種が違っていても、人が人を想う気持ちというのは、どこでも変わりはない。 レザも言葉にできない罪悪感から、ミナに近づいて、少しでも助けになればと親切にするが、それはそれで、未亡人になったばかりなのに、家に男を連れ込んでいるという噂をされて、家を追い出されてしまう。 父親が死刑になったことを知らなかった娘も、次第に父親がもう戻らないことを悟っていくが、幼いながらミナの気持ちを察して、あまり追及しない。静かに娘との時間を過ごすミナと娘の姿がなんとも切ない……。 イランの「裁判制度、死刑制度を変えろ!」というような革命的な物語では決してなく、その事実を受け入れて、前向きに生きることしかできないという、何とも言えない違和感を残す作品ではあるが、これは現実にあり得ることで、おそらく今後も変わらないのだろう…..
とにかく、頑張って最後まで観ること❗
イランの死刑制度については、国際社会ネタに弱い私も聞いたことがある。 この制度に果敢に挑むインドの映画人には敬意を評する。 さて本作は、夫が殺人犯として処刑された未亡人の物語で、その夫は冤罪だったということから展開するサスペンス。 キーパーソンとして、その判決を下した判事が登場する。 かなり衝撃的な内容なのだが、その割りには、動かないカメラに動かない被写体で静かに物語が進む。これが、観る者に忍耐を要求する。アメリカの刺激主義映画に慣れ過ぎた弊害か。 幼い聾唖の子供を抱えた未亡人は、イスラム社会の不条理に晒され、消化しきれない事実を知ることになる。 そして、行き着いた決断と行動はハッピーエンドではない。 この悲しくも衝撃的で、解釈が難しいエンディングを味わうためには、忍耐をもって(充分な睡眠をとって)本作に取り組むべき。 主演女優のマリヤム・モガッダムという人は、共同監督・共同脚本も務めている。 本業は女優なのだろうが、本作が検閲によって本国での上映が禁じられたことで、女優としての活動は続けられるのだろうか。
見事な宣伝文句です
「冤罪サスペンス」と謳いながら、サスペンスぽい要素があったのは、ラストの牛乳を飲むシーンだけでした。宣伝文句に見事に騙されましたね。観る前、観ている途中までは、真犯人がどんな経緯で暴かれるのか、死刑になった夫からお金を借りたと言って突然現れた男は誰で、何の目的があるのか?などと、ちょっとドキドキしながらあれこれ勘繰ったりしていました。しかし、そんなことは早々とどうでもよくなり(つまりタネ明かしされて)、母子2人とその男、あるいは、母と男との交流、もしくはその次第に変化していく関係性のほうが私としては見ものでした。サスペンスではなく、人間ドラマとしてよく出来た作品だったと思います。
牛乳アレルギーだったと思いたい
とにかく眠~い。 冤罪とかよくありそうなイラン?イラク? 判事さんが好い人過ぎる❗ 息子は政府に殺された? 💋は2通りの使い方。 どちらも女の決意。 国からの和解金を巡って旦那の弟や真犯人が彼女にスケベ心で忍び寄るサスペンススリラーかと思ったら、眠~いのよ。本当にまいりました。
冤罪と贖罪
理不尽な運命に翻弄される主人公 周りは運命を神の意志と受けとめろと言うが、納得できない彼女 三國連太郎似の謎の男が彼女に光明を与えるが‥ ラース・フォン・トリアーの映画を観ているような、とことん試練が襲ってくる 最後のショット、強すぎる
とにかく色々と考えさせられる難解な映画でした
映画はいきなりクルアーンの牝牛章、第68節の引用で始まるわけですが、その後、刑務所らしき場所で複数の人たちに囲まれている白い牛が映り、なんともシュールな映像でした。クルアーンの中でも最長の280節あまりの章句を含む、総則的な章である牡牛章には、牝牛をアッラーに供える物語やキサース(所謂同害報復の法)の定めについて書かれていることから、この映画が無辜な人が犠牲となる物語であることを予感させてくれます。
このキサースをテーマに冤罪とからめて扱っているだけに、死刑制度について考えさせられることになるのですが、劇中にはレザの同僚判事が、死刑が不可逆な刑罰であるとしても、仮に有期懲役で処罰したところで、冤罪の場合、失われた時間は取り戻すことができないという趣旨の発言をする場面があり、死刑制度だけではなくて、死刑を含む司法制度そのものについて日本においてもしっかりと考えなければならないと思わされました。また、人を裁くということは、特に冤罪の場合、劇中のレザのように職業裁判官ですら悩み、良心の呵責を覚えるようなことなのですから、我々一般市民が裁判に参加する裁判員制度について、もう一度考えてみる良い機会だとも感じました。
また、現在のイランにおけるシングルマザーの問題などについても鋭い視点で描かれていることに感心しました。一夫多妻制や女性のヴェールについて、それは女性を抑圧するものではなく、女性を外部の人間の悪意から保護するためのものであるなどと偉そうなことを言っておきながら、自分を守ってくれる人のいないシングルマザーなどの女性に対するセーフティーネットが貧弱であるイランの現状を見事に明らかにしてくれています。また、親戚でもない男性を部屋に入れたというだけで、部屋の契約を解除されるというのは、我々日本人にはなかなか想像がつかない世界だと思いました。
上映された映画からは少し離れますが、この親戚でもない男を部屋に入れたシーン等について、youtubeにアップロードされていた第38回ファジュル映画祭の記者会見を見たところ、ファールス紙の記者が「良識のあるイラン人女性が見知らぬ男性を部屋に入れるわけがないから、この女(ミナ)はイラン人ではない」などと発言したことに対して、「ミナはイラン人です」と一刀両断にマリヤム・モガッダムが答えていたのが気持ちよかったです。タブーに挑戦する姿にあこがれます。タブーに挑戦と言えば、ミナが口紅を塗り決意を固め、レザのいる部屋に入る際に、ヘジャーブを外してから入室するわけですが、イラン映画で女性がヘジャーブを外し、髪の毛がすっかり見えている状態を画面内で見ることができるとは、本当に本当に本当に驚きました。素晴らしい攻めの姿勢です。
さて、物語は、このミナとレザが少しづつ距離を縮めてゆき、二人が一緒になるのかと思ったところで、ミナの義理の弟からレザの正体を暴露され、最終的にはこの二人がともに人生を歩むことにはならないという切ない終わり方をするのですが(劇中では、毒入りのミルクをレザが覚悟をもって飲み、死んでしまうようなシーンがありますが、これはミナの想像や何か象徴的なもので、実際には決定的なことをミナから告げられ、レザは覚悟をもってそれを受け入れたということなのだろうと思います)、自分がミナの夫に死刑判決を出した判事であると伝えることのできなかったレザの気持ちも分かるような気がしますし、無償の愛で自分を支えてくれたわけではなかったのだと、そして自分との面会も謝罪も避けていた判事が実はレザだったのだと分かった時のミナの裏切られたという気持ちも分かるような気がするので、なんとも辛い気持ちになります。
取り返しのつかない過ちを犯した時に、自分は素直にそれを認めて謝罪できるだろうか考えてみると、なかなかレザを責めることができません。レザはずっと悩んでいたと思いますし、何かきっかけを待っていたのではないでしょうか(そのようなきっかけは、仮に二人が一緒になれたとしても、一生訪れなかったかもしれませんが…)。例えば、車での移動中に、「理由もなくこんなに親切にしてくれるなんて」と言ったミナに対して、「理由はあるかも」とレザが答えるようなシーンがあったと思いますが、これなどは真相を伝えたいけれども、伝えられないレザの気持ちが表れている気がしますし、また、同じく車内の会話で、夫ババクへの借金を返してもらえることに、ミナがお礼を言った際に、「正しいことをしただけ」だと「正しいこと」に鍵括弧付きでレザが答えているようなシーンがあったと思いますが、これは翻訳が雑なので趣旨が伝わりにくいのですが、ペルシア語では「義務」という意味のVAZIFEという表現を使っており、「当然のことです」とでも訳すべきだったと思います。誤った判決を言い渡してしまい、死刑が執行された以上、最低限、金銭的に彼女を支えなければならないという気持ちがそのセリフになって現れているような気がします。「正しいこと」だと、自分には義務まではないけれども、そのほうが正義にかなうからという感じで、少し鼻につく気がします。レザーはそんな正義を気取る鼻持ちならない奴ではないと思います。
先ほど、取り返しのつかない過ちと書きましたが、今回の冤罪についてレザにどれほどの責任があったかを考えてみると、彼一人の責任でもないような気がします。確かに、証人の偽証が見抜けなかった点に過失があれば責められるべきかもしれませんが、問題は、取り調べの段階でババクが罪を認めるに至った警察等での(恐らく暴行や脅迫を伴う)取り調べにもあった気がします(イランの刑法では、判断力のある成人の1回の自白によって事実が認定されるので、今回の場合は証人がいなくても事実が認定されたかも? あるいは取り調べの状況から判断能力がなかったと認められることになる?)。このような取り調べを許す制度そのものが問題なのに、責められ、罪の意識を感じさせられるのは特定の個人というのは何とも辛い話です(ところで、ミナが最高裁に訴えを起こそうとした際に、時間の無駄だからやめるよう諭された時、「裁判官に怠慢はない」と字幕に出たような気がしますが、qosurを怠慢と訳すのは怠慢では? 裁判官としてなすべき注意を果たしていたかどうかが問題なのですから、過失と訳すべきだと思いました。それにqosurは怠慢の意味より、過失の意味で使われるほうが多い気がします。いや、恐らく、私の見間違いで、適切な訳がなされていたのでしょう)。
制度ということでキサースについて考えてみると、劇中でもキサースが権利と考えられていることはとても興味深いことでした。イランの刑法上、殺人事件の犯人をキサースで死刑にするか、死刑にする代わりに血の代償として賠償金を払わせるか決めるのが、捜査機関側でなく、被害者の遺族に委ねられているのですが、誤判で別人がキサースされたと聞かされた時の、被害者の遺族の心中たるや、さぞかし居心地の悪かったことでしょう。ちなみに、この賠償金も刑法上、ラクダ○頭等といった形が定められていて、ラクダや牛では支払えないことから、毎年これを金銭に換算して公表しているわけですが、今年は賠償金は47億トマンのようです。映画が公開されてから2年で金額が上がったとみるよりは、物価がそれだけ上がったということでしょう。イラン社会、本当に生活が大変そうです。
神は無謬であるかもしれませんが、神ならぬ人が人を裁くことの難しさや、過ちを償うことの難しさ、古くからの因習にとらわれる社会の生きにくさ(特に女性にとって)、等々色々と考えさせられることの多い映画でした。
ミナの心理を推し量る映画
自由にモノが言え無い国の人々は、色々なモノで置き換えたり暗示したりすると言う。冒頭 唐突に白い牛が登場するが 冤罪で死刑になった夫を表しているというが、私はイラン国民を示しているのではと思った。
未亡人のミナは 冤罪なのに夫を死刑にした裁判官からの謝罪を得ようと新聞広告まで出す。が、自分の子ビタに対しては パパの死をあえて 希望的な嘘をついて信じ込ませる。そのビタは聾唖なので 母親からしか情報が入らない。
聾唖者のビタはイランの国にあって「女性」というだけで声高にモノ言えぬ有様を表していると思った。
そんな二人に 夫の友達で、彼からお金を借りていたと言って身分を明かさずに近づくレザ。親切そうだが優柔不断で狡いレザはイランに於ける「男性」を体現しているのかと思った。
ミナとレザは、なんとなく親しくなっていく。無論 子どものビタも懐いていく。
ところが、兵役に行っていたレザの息子が突然亡くなってしまう。レザは、重油にまみれた海鳥のようにボロボロになってしまう。そんなレザを必死で看病するミナ。ミナは久しぶりに口紅をし、スカーフを外してレザを慰める。お互いを分かり合えたと思ったのかもしれない。が、しかし、レザは死刑判決を出した裁判官その人だったと知ってしまう。
最後の場面は分かりにくいが、私は、やはり「目には目を」の国の人だから 謝りもしなかった不誠実なレザに苦しみを与えたのだと思った。複雑なのだ、ミナは。
そして、そんなレザと共に歩めないと決断したのだと思った。いや、そういうイランという国ではダメなのだと表したかったのかもしれない。
シンドイ!
イラン映画
冤罪で死刑になった夫の無実がわかり
やるせない未亡人 娘さんは、聾唖者
そこに、親切な夫の友人が現れて
シーンひとつひとつが
重い
娘さんには、何も知らせてない。
義理の弟や夫の家族とも争わなくてはならない。
判決した判事も辛い
冒頭とラストの白い牛が鬱陶しい。
せめて
モー結構って言ってくれたら
ひたすら我慢の映画です。最後に心を動かせます。
冤罪により夫が死刑執行された妻とその死刑判決を下した元裁判官の物語です。寛容と償罪のイラン映画です。 イスラム教やイランの刑事法制度を知っていないと理解が難しいと言う評者もいますが、そんなことはありません。死刑制度反対の意図も少しはあると思います。でも、私が感じたのは、先に述べた寛容と償罪はどのようにしたらいいかです。 今のイランは、イスラム教を骨格として国家運営されていると聞いています。私達のいる民主主義国家ではありません。未亡人に聾唖の娘がいたり、元裁判官には不和な息子がいたり、またその息子が兵役について死んで帰って来たりと現実の厳しさを表しています。元裁判官は官憲に監視されたり、未亡人は訪れた男性を家に入れただけで、家主から退去させられるなど宗教国家イランの閉鎖社会を描いています。この二人は声をあげて訴えたり、悔やんだりしません。淡々してそと見では現実を受け入れているように見えます。おそらく、現在のイラン人を表象しているのでしょう。だから、山がなく退屈極まりない。最後の夕食の場面で、未亡人の心の内が明かされ揺り動かせます。それまでが本当に我慢の映画です。牛はイスラム教の神に捧げる御供物の意味らしい。人間は全て神に捧げる御供物とだと私は解釈しました。最後の場面がなければ、星一つ減点していました。私が聞いた話では、日本にも死刑執行された方で冤罪ではないかと噂されている人が1人いるそうです。勿論、法務省はだんまりです。死刑制度を揺るがしかねません。
「無実の罪」というテーマ
「疑わしきは罰せず」という言葉はあるが、「無実の罪」というテーマは、常に、この世に存在し続けている。 イスラム世界では、罪は厳格に裁かれるのだとは思うが、人権意識は日本や欧米諸国よりも、低いといえるのかもしれない。 冤罪を作り出した判事が、罪の意識を持つことは、良心が許さないからだとは思うが、その償いの手段を誤ってしまうと、これもまた、罪を作り出してしまう。 世界から、このような問題はなくなることはないだろう。そして、この映画のようなドラマも繰り返されていくことだろう。 日本にいると、交通事故に遭うよりも、低い確率かもしれないが、このような世界があることも、知っておく必要があるのかもしれない。 ぜひ、劇場で確かめてみてほしい。
"許す"と"許される"が、日本とは比にならない重さを持つ社会
本国イランでは上映禁止処分を受け、たった2回しか上映できなかったというキャッチフレーズが話題の映画 夫の死刑から一年経ち、冤罪だったと知らされる主人公 その賠償金を狙う亡き夫の親族 不意に訪れる亡き夫の友人 夫が殺人罪で死刑となり、聾唖の娘と2人、貧しいながらに懸命に生きる主人公 ある日突然、夫は無罪で死刑は過ちだったと告げられた日から、人生が思わぬ形で動き出す 何の罪もない主人公が、他人や環境に振り回される系のストーリー イランという独特の文化と風習の社会で、苦しみ悩みながらも凛と前を向き戦う主人公 そして意識的にも無意識的にも彼女を苦しめる男たちと社会 亡き夫の弔問に訪れた男性を家に招き入れただけで、アパートを追い出される現実 それを昨日まで友好的で夕飯もお裾分けしてくれた大家に告げられる残酷 "許す"と"許される"が日本とは比にならない重さを持つ社会で、主人公の最後の行動をどう受け取るか イランという国で、この映画を女性が制作・監督・主演したなんて、素晴らしい勇気と才能に感嘆する 話題負けしない、芯のある深い映画でした 個人的に☆5中☆3.6
脚本、監督、主演のマリヤム・モガダムは大変に見事だった
監督、脚本、主演のマリヤム・モガダムという女性は本作品ではじめて知った。素晴らしい才能である。テヘランの現在がよく伝わってくる。 夫を失ったイスラム教徒の女性がテヘランで暮らすことがどういうことなのか、ハンディキャップのある子供を抱えて生きていく勇気はどこから導き出せばいいのか。役所も裁判所も大家も、社会はいずれも冷たい。義理の家族は金目当てで接してくる。主人公ミナはどうやって生きていけばいいのか。 娘との関わりの中で、ミナは夫が処刑されたことを話せない。だから嘘を話す。嘘が嘘を呼んで、夫ババクに関することは、ほぼ嘘だらけになってしまった。自分は娘ビタに本当のことを話せなかった。教師にそのように説明する。説明するということは理解を得ようとすることだ。しかし自分に嘘を吐いた男のことは許せない。自分がビタに本当のことを話せないことを思い起こせば男の嘘も許せたはずだが、そこまでミナが追い詰められていたということなのだろう。 夫が死んで、遺族がもらえる給付金が月に20万トマンだと役人から告げられるシーンがある。イランの通貨について調べておけばよかったと思ったが、そのあとのシーンで新聞を買うときに、3部でいくらと聞くと6000トマンという答えが返ってくるシーンがあった。新聞が200円だとすれば、トマンは円の30倍くらいである。ということは20万トマンの給付金は月に7,000円ほどだ。給付金にしては少ない。道理で金額を聞いたときにミナの反応が素っ気なかった訳だ。 夫が無実と分かったときの賠償金は2億7千万トマンほどで、日本円だと900万円くらいということになる。ミナの年齢を考えるとババクは処刑時にはまだ40歳より手前である。日本式の賠償金計算では、それから死ぬまでに稼ぐ金額から夫の分の生活費を引くので、年平均400万円-200万円=200万円×25年で5,000万円くらいとなる。5,000万円×30=15億トマンとなる。2億7千万トマンはやはり安すぎる。 ミナは夫の命を金で、、、と言っていたが、下世話に考えれば、安すぎたからと見ることも可能である。そして、そんなはした金を求めてミナの娘の親権を求める義理の家族の愚劣ぶりも明らかになる。 ラストシーンの解釈は人それぞれだと思うので、当方なりの解釈を披露してみる。 レザと名乗った男は牛乳の食品アレルギーである。重度のアレルギーだ。ミナはレザの覚悟を測るために温めた牛乳を飲ませる。レザはミナの真意を知って、意を決して牛乳を飲む。案の定、アナフィラキシーを発症したが、死ぬほどのことはなかった。ミナはレザを許すが、一緒にいることはできない。 イスラム教が政治を支配するイラン。国民全員にイスラム教が強制される。信教の自由はない。中には無宗教の人間もいるかもしれないが、言葉にはできない。国外退去になるか、場合によっては死刑になる。厳格な宗教だから罪刑も厳しい。もちろん極刑は死刑だ。本作品は死刑廃止の問題を正面から問いかける。 イランの映画は検閲を経なければならないから、イスラム教支配の問題を正面からは扱えない。本作品は鑑賞した観客の誰もが、イスラム教が支配する政治には問題があると気づくように出来ている。脚本と演出の工夫が伺える。マリヤム・モガダムの面目躍如である。 本作品は、イスラム教支配の社会の中で差別や格差と戦いながら生きていく姿を、検閲をかいくぐりながら上手に描いてみせた佳作である。脚本、監督、主演のマリヤム・モガダムは大変に見事だった。
女性監督の秀逸なイラン作品
昨年鑑賞した「ジャスト6.5 闘いの証」と「ウォーデン 消えた死刑囚」の傑作ぶりが記憶に新しいイラン映画。本作はフランスと共同ですが監督がイランの方で女性、観ないわけがないです、期待大。 この独特と言っていい映像の雰囲気が好きなんです。モノクロのような感じだけどそうじゃない。色はあるけど無機質な感じはイラン映画の特色なんでしょうかね?すごくいいです。なんでこんなに温度を感じない殺伐とした雰囲気があるんだろう?ただの先入観なのかなぁ?けど、それが作品の厚みを演出してくれます。 さて、本作。コーランがベースになっているようですね。全く詳しくないので読みかじりですが、白い牛は生贄・・・さらに「目には目を」の同害報復も絡め「罪の償いとは?」「人が人を裁くとは?」を女性の目線や立場からイスラム社会を風刺しながら描くという・・・なかなかのお腹いっぱいになりそうなテーマがわんさか入っています。そりゃ、本場では上映できないですよね。納得です。ですが、それらがストーリーの中にスッキリ描かれていてかつ考えさせられる1本になってます。 本作は死刑制度の是非についてがテーマとなっておりますが、イスラムの世界における<弱者=女性>の立場に関するアンチテーゼにもなっている・・・というかそちらの方が強いのではないかなぁ?って思える味付けでした。死刑制度云々というのならラストの描き方がちょっと消化不良なんですよね。あれ?認めちゃうじゃん・・・な感じが、むぅぅぅぅぅんなんですよね。 ただ、兎にも角にも男性社会に翻弄されるものの奮闘するシングルマザーのミナの「一人の女性として」「母として」「一人の女性として」「未亡人として」の描かれ方の方が印象に残るのです。口紅の演出がシビれました。女の決意と妻の決意ってとこでしょうかね。おぉぉぉぉぉぉって感じで。女優さんが上手いのかなぁ?(監督さんですけどね) 演出上、いくつかのメタファーを使うのも好きですね。結構散りばめられていると思います。白い牛然り、クライマックスの飲み物然り、ビタが声を出せないのはイスラム女性の現れ?とかとか。また、登場する男性が大体傲慢っていうのもの。また画面の作り方もいいです。ひび割れた鏡の使い方もよかったなぁ。 派手な作品ではありませんが胸に迫る作品でした。
遠いところ
夫を死刑にされてしまってから1年、実は冤罪だったと告げられ嘆く未亡人の元に、夫の世話になったという親切な男が現れ、聾唖の娘と共にいつしか家族のように過ごすようになっていくが・・・と言った物語。 初っ端から胸が張り裂けそうな展開。 死刑になる夫に会いに行くミナの表情1つひとつがなんともやるせない。。 これで最後だという悲哀? 最後に一度だけ会えるという慰め? 個人的に早くもここがピークだったかも。 全体を通し、BGMもなくスローテンポな展開で少しウトウトするが、イスラム社会のシングルマザーの生きづらさ、ミナの悲壮感がよく描かれている。 謎の男、レザは一体何者なのか。 ・・・という謎はもっちょっと引っ張っても良かったような。まぁサスペンスですし、わかってる上でミナ達の動きに注目するのが正解でしょうか。 あとは毎度、何でもかんでも神のご意志とか言って片付ける風潮はやっぱり好きになれない。 とは言え、終始マッタリなテンポの割には、登場人物皆の仕草等々味があって飽きずに観られたのは良かったし、色々察したビタちゃんとミナのシーンは胸に迫るモノがあった。 重厚なサスペンスが好きな人にはおすすめです。 そして本作、本国イランではすぐに上映中止となってしまったようですが、そんなに問題作には見えなかったけど・・・? 確かに重苦しくはあったけど、向こうは色々と表現規制が厳しいんですかね??
bitter milk
殺人罪で夫が処刑されて1年、夫が冤罪であったことが判明し、担当判事からの謝罪をし続ける未亡人の話。 夫の冤罪が告げられた7歳の聾唖の娘と暮らす主人公のもとに、夫から金を借りていた、世話になったと述べる男が現れ巻き起こって行く展開で、かなり早いうちに観ている側はあれ?この男って…と感づくこと必至。 親族以外の男性の出入りで、アパートを退去させられ、又、新たな住まいを探すのに苦労して、とイスラームの社会事情をみせつつ、そんな主人公の良き理解者、支援者となっていく男を共に映し出して行く流れは、なかなか面白くはあるけれど、ず~っと煮え切れ無さというか、振り切れなさというか、そういうものを感じてイマイチ物足りず。 もしかしたら製作国のお国柄から、倫理的に引っ掛かってしまうのかな? 途中から妙にマッタリテンポも悪く感じるし。 いよいよ主人公が突き付けられた事実、からの展開は、おっ!!となったけれど、それも何だかあやふやにされちゃって、最後の最後までもう一歩というのは感じだった。
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