「冤罪は認めるが謝罪はしない。それは神を冒涜することだから……」白い牛のバラッド バフィーさんの映画レビュー(感想・評価)
冤罪は認めるが謝罪はしない。それは神を冒涜することだから……
夫ババクが処刑され、それが冤罪であったことが明らかとなるが、すでに夫はこの世にいない。夫の友人を名乗って現れる男レザは、親切で新しい住居の世話までしたくれた。ミナはレザの親切に感謝しているが、実はレザこそが、夫に死刑の判決を下した判事だったのだ。
死刑になったのであれば、それがたとえ冤罪であっても、神が決めたこと、導いたものとして、過ちを認めない。
事務的に処理され、賠償金は支払われる。しかしミナは、ただ過ちを認めて謝罪してほしい。それは自己満足でしかないかもしれないが、ミナにとっては唯一、夫が救われ、自分自身が救われると信じている。
イラン本国で上映禁止になった理由は、恐らくここにあるのだろう。イランという国は、宗教が支えている国であるだけに、過ちだったと認めさせること、謝罪させることは、神の決定が間違いだったと認めることでもあったからだ。
だからこそ、行政や国としては、謝罪をすることが許されない環境下において、ミナの行動は神への冒涜とも捉えられてしまう。国民性と言ってしまえば、それまてかもしれないが、国や宗教、人種が違っていても、人が人を想う気持ちというのは、どこでも変わりはない。
レザも言葉にできない罪悪感から、ミナに近づいて、少しでも助けになればと親切にするが、それはそれで、未亡人になったばかりなのに、家に男を連れ込んでいるという噂をされて、家を追い出されてしまう。
父親が死刑になったことを知らなかった娘も、次第に父親がもう戻らないことを悟っていくが、幼いながらミナの気持ちを察して、あまり追及しない。静かに娘との時間を過ごすミナと娘の姿がなんとも切ない……。
イランの「裁判制度、死刑制度を変えろ!」というような革命的な物語では決してなく、その事実を受け入れて、前向きに生きることしかできないという、何とも言えない違和感を残す作品ではあるが、これは現実にあり得ることで、おそらく今後も変わらないのだろう…..