「とにかく色々と考えさせられる難解な映画でした」白い牛のバラッド 正山小種さんの映画レビュー(感想・評価)
とにかく色々と考えさせられる難解な映画でした
映画はいきなりクルアーンの牝牛章、第68節の引用で始まるわけですが、その後、刑務所らしき場所で複数の人たちに囲まれている白い牛が映り、なんともシュールな映像でした。クルアーンの中でも最長の280節あまりの章句を含む、総則的な章である牡牛章には、牝牛をアッラーに供える物語やキサース(所謂同害報復の法)の定めについて書かれていることから、この映画が無辜な人が犠牲となる物語であることを予感させてくれます。
このキサースをテーマに冤罪とからめて扱っているだけに、死刑制度について考えさせられることになるのですが、劇中にはレザの同僚判事が、死刑が不可逆な刑罰であるとしても、仮に有期懲役で処罰したところで、冤罪の場合、失われた時間は取り戻すことができないという趣旨の発言をする場面があり、死刑制度だけではなくて、死刑を含む司法制度そのものについて日本においてもしっかりと考えなければならないと思わされました。また、人を裁くということは、特に冤罪の場合、劇中のレザのように職業裁判官ですら悩み、良心の呵責を覚えるようなことなのですから、我々一般市民が裁判に参加する裁判員制度について、もう一度考えてみる良い機会だとも感じました。
また、現在のイランにおけるシングルマザーの問題などについても鋭い視点で描かれていることに感心しました。一夫多妻制や女性のヴェールについて、それは女性を抑圧するものではなく、女性を外部の人間の悪意から保護するためのものであるなどと偉そうなことを言っておきながら、自分を守ってくれる人のいないシングルマザーなどの女性に対するセーフティーネットが貧弱であるイランの現状を見事に明らかにしてくれています。また、親戚でもない男性を部屋に入れたというだけで、部屋の契約を解除されるというのは、我々日本人にはなかなか想像がつかない世界だと思いました。
上映された映画からは少し離れますが、この親戚でもない男を部屋に入れたシーン等について、youtubeにアップロードされていた第38回ファジュル映画祭の記者会見を見たところ、ファールス紙の記者が「良識のあるイラン人女性が見知らぬ男性を部屋に入れるわけがないから、この女(ミナ)はイラン人ではない」などと発言したことに対して、「ミナはイラン人です」と一刀両断にマリヤム・モガッダムが答えていたのが気持ちよかったです。タブーに挑戦する姿にあこがれます。タブーに挑戦と言えば、ミナが口紅を塗り決意を固め、レザのいる部屋に入る際に、ヘジャーブを外してから入室するわけですが、イラン映画で女性がヘジャーブを外し、髪の毛がすっかり見えている状態を画面内で見ることができるとは、本当に本当に本当に驚きました。素晴らしい攻めの姿勢です。
さて、物語は、このミナとレザが少しづつ距離を縮めてゆき、二人が一緒になるのかと思ったところで、ミナの義理の弟からレザの正体を暴露され、最終的にはこの二人がともに人生を歩むことにはならないという切ない終わり方をするのですが(劇中では、毒入りのミルクをレザが覚悟をもって飲み、死んでしまうようなシーンがありますが、これはミナの想像や何か象徴的なもので、実際には決定的なことをミナから告げられ、レザは覚悟をもってそれを受け入れたということなのだろうと思います)、自分がミナの夫に死刑判決を出した判事であると伝えることのできなかったレザの気持ちも分かるような気がしますし、無償の愛で自分を支えてくれたわけではなかったのだと、そして自分との面会も謝罪も避けていた判事が実はレザだったのだと分かった時のミナの裏切られたという気持ちも分かるような気がするので、なんとも辛い気持ちになります。
取り返しのつかない過ちを犯した時に、自分は素直にそれを認めて謝罪できるだろうか考えてみると、なかなかレザを責めることができません。レザはずっと悩んでいたと思いますし、何かきっかけを待っていたのではないでしょうか(そのようなきっかけは、仮に二人が一緒になれたとしても、一生訪れなかったかもしれませんが…)。例えば、車での移動中に、「理由もなくこんなに親切にしてくれるなんて」と言ったミナに対して、「理由はあるかも」とレザが答えるようなシーンがあったと思いますが、これなどは真相を伝えたいけれども、伝えられないレザの気持ちが表れている気がしますし、また、同じく車内の会話で、夫ババクへの借金を返してもらえることに、ミナがお礼を言った際に、「正しいことをしただけ」だと「正しいこと」に鍵括弧付きでレザが答えているようなシーンがあったと思いますが、これは翻訳が雑なので趣旨が伝わりにくいのですが、ペルシア語では「義務」という意味のVAZIFEという表現を使っており、「当然のことです」とでも訳すべきだったと思います。誤った判決を言い渡してしまい、死刑が執行された以上、最低限、金銭的に彼女を支えなければならないという気持ちがそのセリフになって現れているような気がします。「正しいこと」だと、自分には義務まではないけれども、そのほうが正義にかなうからという感じで、少し鼻につく気がします。レザーはそんな正義を気取る鼻持ちならない奴ではないと思います。
先ほど、取り返しのつかない過ちと書きましたが、今回の冤罪についてレザにどれほどの責任があったかを考えてみると、彼一人の責任でもないような気がします。確かに、証人の偽証が見抜けなかった点に過失があれば責められるべきかもしれませんが、問題は、取り調べの段階でババクが罪を認めるに至った警察等での(恐らく暴行や脅迫を伴う)取り調べにもあった気がします(イランの刑法では、判断力のある成人の1回の自白によって事実が認定されるので、今回の場合は証人がいなくても事実が認定されたかも? あるいは取り調べの状況から判断能力がなかったと認められることになる?)。このような取り調べを許す制度そのものが問題なのに、責められ、罪の意識を感じさせられるのは特定の個人というのは何とも辛い話です(ところで、ミナが最高裁に訴えを起こそうとした際に、時間の無駄だからやめるよう諭された時、「裁判官に怠慢はない」と字幕に出たような気がしますが、qosurを怠慢と訳すのは怠慢では? 裁判官としてなすべき注意を果たしていたかどうかが問題なのですから、過失と訳すべきだと思いました。それにqosurは怠慢の意味より、過失の意味で使われるほうが多い気がします。いや、恐らく、私の見間違いで、適切な訳がなされていたのでしょう)。
制度ということでキサースについて考えてみると、劇中でもキサースが権利と考えられていることはとても興味深いことでした。イランの刑法上、殺人事件の犯人をキサースで死刑にするか、死刑にする代わりに血の代償として賠償金を払わせるか決めるのが、捜査機関側でなく、被害者の遺族に委ねられているのですが、誤判で別人がキサースされたと聞かされた時の、被害者の遺族の心中たるや、さぞかし居心地の悪かったことでしょう。ちなみに、この賠償金も刑法上、ラクダ○頭等といった形が定められていて、ラクダや牛では支払えないことから、毎年これを金銭に換算して公表しているわけですが、今年は賠償金は47億トマンのようです。映画が公開されてから2年で金額が上がったとみるよりは、物価がそれだけ上がったということでしょう。イラン社会、本当に生活が大変そうです。
神は無謬であるかもしれませんが、神ならぬ人が人を裁くことの難しさや、過ちを償うことの難しさ、古くからの因習にとらわれる社会の生きにくさ(特に女性にとって)、等々色々と考えさせられることの多い映画でした。