偶然と想像のレビュー・感想・評価
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【言葉の持つ力】
「ハッピー・アワー」や「寝ても覚めても」、「ドライブ・マイカー」、脚本の「スパイの妻」でも感じられた濱口竜介さんの言葉の巧みさとか、言葉の持つ力を感じさせる作品だと思う。
この作品には、短編ということもあるが、大きな場面転換はほとんどない。
そして、説明も少ない会話劇だ。
観る側にも想像力が必要になる。
更に「ハッピー・アワー」や、「ドライブ・マイ・カー」でもそうだったように、綴られる言葉が、俳優の力を最大限引き出しているようにも感じられる。
それぞれ、
偶然のもたらす切なさ、
偶然を装うことによってもたらされた偶然の悲劇、
偶然ではなかったが偶然を装うことによってもたらされる希望が、
「偶然」を題材にとったかたちで、更に、ユーモアを多く盛り込んで、様々な物語が創り出(想像)されるのだ。
また、興味深いのは、主人公の相対する相手が、主人公の思い描いていた人物像と異なっていることに内心慌てている様がよく表れているところだ。”想像と違った”…とか。
どこか思い込みの激しい僕たちに重なるようで笑ってしまうし、タイトルと関連がないとは思うけれども、どうだろうかと少し考えてしまった。
こうした細かい言葉のやりとりや演出が、更に、言葉で交流する重要性を示しているような気がする。
※ ここ追記 → なんか棒読みって揶揄してるレビューあるけど、シチュエーション考えたら、演出として棒読みのように聞こえるんじゃないのかしら。突然、親友の彼氏が元カレとか、相手を陥れるつもりが…とか、名前思い出せないとか人違いとか…。
(以下ネタバレ)
心の中にずっと秘めていたことが、偶然によって葛藤を巻き起こし、選択を迫られた結果、吹っ切れた新たな一歩になっていく。
良からぬ計画が、別の形の交流になり、どこかで期待が膨らむが、変な偶然が、実は不本意な一歩になってしまう。しかし、最後のバスの中のシーン。他二作と違い、ちょっと暗示的な気がするのは、僕だけじゃないと思う。
偶然だと勘違いしていたことが、今度は偶然を装うことで、心のどこかにあった、わだかまりを取り去り、希望の一歩になったりもする。
昨今、TwitterをはじめSNSの影響なのか、紋切り型の文章や表現が多くなって、それは映画のレビューでも同様に思う。
でも、よく考えたら、思慮して話しをせず、感情に流されて言葉を発する人は昔からたくさんいたような気もする。
教養も影響するとは思うが、昔の人には教養とは関係なく、激昂して、言葉が短調になる人だらけだった。
まあ、きっと、この作品にも、合う合わないとか、キャクホンガーとかよく目撃されるレビューは出てくると思うが、さまざまな感情を、可能な限り言語化してみることは意味のあることだと思う。
自分の言葉で綴り自分を表現したり、多くの会話で相互の理解を深めたりすることは必要だろう。
ユーモアもあって、なんかとてもステキな作品だった。
三話目好き
ドライブマイカーの濱口監督作品✨
タイトル通りの偶然が引き起こすストーリー展開
三話オムニバス映画
長回し多いですね
ときどき、ドライブマイカーっぽいところありますね
男優の人たち、棒読みというか、感情をのせない淡々としたセリフ多いですよね
掛け合いとか、
台詞をただ言ってます的な
監督の意図だと思いますが
言葉をしっかり観ているものに伝える為なんでしょうかね?
いつもの渋川さんなら感情たっぷり演技な役者ですが、感情を殺した演技でした
役に合わせてなんでしょうけど
この中では、三話目のもう一度が好きなストーリーです✨
少しほっこりする感じが良い☺️
観ている方達も少し笑い声が
年配のご夫婦など
最後笑顔になっていて
それをみて映画館を後にする
映画も、観ている人たちも総合して、ちょっぴり豊かな気持ちになりました
おっ、そうきたかが充分楽しめた
短編集だし、ネタバレになりやすいから短く評すると、おっ、そうきたかの3連発でオチもすごく評価できる。たのしめた作品だった。
舞台挨拶で第1作目の3人の俳優の方が出てこられたが、先入観および予備知識ほとんどなしでみたから、見たあとでの舞台挨拶の方が、自分は良かったような気がした。
『ラブアクチュアリー』のように心が暖まります。
思いもよらない偶然で生まれたシチュエーションだからこそ、思いもよらない自分の心の声や、自分が本当に望んでいたことや言いたかったことを言葉にしてみる。そして、言葉にしてみたら、実はもっと違うことも見えてくる。
そんな経験は、たぶん誰にでもあると思います。
と思っていたのですが、昨日見た『私はいったい、何と戦っているのか』の主人公は言葉にしないのです。
すべて呑み込んでしまいます。
そうですよね。
そういう人もいるはずです。
もちろん、いいとか悪いということではありません。
自分の意思や心の内の表明は、表明しないことも含めて人それぞれの選択です。
※意見が言える言えないというのは、生来的な気質に負うところが大きいのかもしれませんが、『マトリックス』に象徴される広い意味でのシステム(コンピュータ世界というより社会体制や社会的な規範のようなもの)にがんじがらめにされている現代では、周囲の人たちからは、その人の気質でなく選択として受け止められてしまうと思います。だから精神的に病んでしまう人も多いのだと思います。
でも、この映画を見てると、もしかしたら間違ったこと、或いは思っていることと違うことを言ってしまうかもしれない、それでも、その時なりの精一杯の言葉を発することは何か思いもよらなかった違う何か、違う感情が生まれるかもしれない。それで一歩か半歩かは分からないけれど、少しは前に進める。
希望というほど大袈裟ではないけれど、生き方についての新しい何かが見えて来る。
そんなささやかな勇気が湧いてきます。
第一話
『街の上で』の青とイハの長い会話のワンカットを彷彿とさせるタクシー車内での会話がなんとも秀逸。
第二話
瀬川教授〜❗️
その後の人生が心配です。気になって気になって…
私の場合、佐川と聞くと急便よりも理財局長という言葉が浮かんで、いい加減にしろ❗️と血圧が上がってしまいます。
第三話
マスクが定着したため、『アレ?見覚えがあるな、あの人』と感じることが前より増えましたが、マスクをとったらまったく知らない人という可能性も高いのでやり過ごしてました。
でも、この第三話を見てしまった今、人違いかな、と思っても取り敢えず、声をかけてみようかな、という気分になってしまいました。
むしろ、間違ったままのほうが虎屋の羊羹をご馳走になれるかもしれないし…
クリスマスとは特段関係のない映画ですが、この寒い時期の映画としては、『ラプアクチュアリー』のように、とても心が暖まるのは間違いありません。
短編小説的な会話劇。
映画というより、舞台の演劇と解釈して観たほうが理解しやすい。
まさに短編小説を、舞台の会話劇にした恰好だ。
評価は分かれるかもしれないが、演劇として観れば、面白い作品といえるのかもしれない。
棒読みのセリフも演出なのだろうが、これも評価が分かれるところだろう。
映画として観れば、低予算映画に分類てぎると思うし、脚本でつくる映画といえる。
フランス映画のようだと言えば、そうかもしれないし、海外ウケはするだろう。
ドライブマイカーに次ぐ好作品ということで評価は落ち着くと思われるが、ぜひ劇場で確かめてみてほしい。
アクロバティックな対話ファンタジー小品集
おそらく何をやってもこの方法論で楽しく見れる、そんなスタイルを確立している濱口監督。しかし誰もがこうは撮れないな、という3つのエピソード。
日本人監督として、というか海外の監督としても稀な論理的対話のセリフ劇、哲学的対話〜からのアクロバティックな決着へ。起承転結で考えても見事だな。そしてある種異常でもあるし、ある種リアリティしかないとも言えるこのセリフ劇を普通にこなすメソッドひっくるめてなんだか「円熟」とも呼びたくなる軽やかを持った小品集だった。あのズーム!
恋愛も復讐も再会も、何気ないリアリティから始まって、たいがい予想していた相手が予想以上の何かであって、たじろいで、でも克服していく、まさにゆらぎのドラマのような気がした。吐き出したキャラクターのたくさんの言葉から、また別次元の世界が生まれてそこで決着をつけていく、まさにFortune and Fantasy。親密な関係では話せない個性的な悩み、異様な悩み、わだかまり、が他者(赤の他人)へだからこそ炸裂する、というか他者だからこそ踏み込める私的悩みがファンタジーを生む、というか。
ちなみに劇場内はいっぱいで、ゲラゲラ笑えるくらい盛り上がりがあったし、確かに笑えるのだけど、その笑いじゃなくてもっと巨大な穴にスポッと入るのと同時なのでよくゲラゲラ笑えるな、と思いつつ観ていた。
しかし、配役もよく考えられている。ここはそこそこのキャリアでなくては、という人とここは初々しくていい人で、というか。楽しんで創造してる感じがしてよかったな。
日本映画の系譜じゃない監督
日本映画に「海外で大絶賛!」というキャッチコピーがあっても、具体性やプライズの内訳がないばあい、それはフォックスやワーナーやUIP(など)の海外映画部のアジア担当のバイヤーさんがとっても気に入ってくれた──ていどの話だと思われます。(憶測です。)
わが国で「海外で大絶賛!」を常用したのは、言うまでもなく日本をだいひょうする映画監督の園子温監督です。
ほんとは「担当さんがすごく気に入ってくれた!」ですが、それだとキャッチフレーズとして弱いため、かたっぱしから「海外で大絶賛!」と謳ってしまった、わけです。
その結果、まるで園子温がほんとに海外で大絶賛されているような錯覚を観衆に植え付けてしまった──のでした。
さいわい、このほど公開された海外進出第一弾のPrisoners of the Ghostland(2021)(の大コケ)によって「海外で大絶賛!」がマスコミの盛り報道だったことを自ら証明してくれましたが、今まで、絶賛されていないものを絶賛されていると持ち上げられ、ましてや、日本をだいひょうする映画監督に祭り上げられて、園監督もさぞかし迷惑していたことでしょう。
濱口竜介監督のドライブマイカーは海外で大絶賛されました。多数のプライズが根拠です。カンヌで脚本賞など4冠。アジア太平洋映画賞、シカゴiff、デンバーiff、ハリウッド批評家協会賞、ニューヨーク批評家協会賞。オスカーのレースにも入っていて、カイエデュシネマやインディーワイアも推しています。つまりほんとに海外で大絶賛されました。
ですが「ドライブマイカー!海外で大絶賛!」という謳いをあまり見ませんでした。
(憶測に過ぎませんが)濱口監督は映画をつくることも、映画を見てもらうことも、日本マーケットに限界を感じているのではないか──と思いました。
(TV出身者の映画・映画監督を除いて、)日本映画界は閉ざされた昭和ポルノ作家の宅老所です。古参がそれなら新進もみな裸の王様です。むしろどうやってロマンポルノを知り得たかわからない若い世代が先達とおなじロマンポルノをつくるのです。(such as:21世紀の女の子)。そんな古井戸で、世界を知らない蛙たちと競い合ったとて、なんのいみがあるでしょう。
寝ても覚めてもやドライブマイカーや本作も海外のマーケットから逆輸入的なマーケティングが為されたと感じました。海外のまともなアワードを獲ってしまえば、日本の権威的批評家が何と言おうと、疎外される心配がありません。
50年代を黄金期として70年。それだけ長い月日ならば、いくらなんでも日本映画から日本映画的でない人が出てきてもふしぎはありません。濱口竜介監督のウィキペディアに『ジョン・カサヴェテスの『ハズバンズ』から大きな影響を受けたことを公言している。』とありました。日本の映画監督にそんな人はいなかったと思います。
──
三篇のオムニバス映画。
話が面白い。画は日常だが、なんとなく非日常なおちがつく。
それも明解なおちではなく、倫理でも教訓でも不条理でもない、なんかふわりとした所へおちる。
寝ても覚めてもを見たとき、棒読みと棒演技が、東出昌大と唐田えりかの特性だと思っていた。ところがある。
この映画の渋川清彦を見て。ちがう。と思った。
渋川清彦が演じる教授は棒読みなだけでなく能面だった。
役者の演技が演技指導によっている。ことがこの映画でわかった。
となると演技がへたと世評のある東出昌大は、もしかしたら演技がうまいのかもしれない。わたしも誰かの演技について、うまいとかへたとか評定してしまうことがあるが──そもそもが、いいかげんな主観・見識にもとづいている、とは思っている。
たとえば木村拓哉は俳優キャリアのさいしょから今にいたるまで演技を云々される人だが、ドラマの主演として厖大なキャリアがある、だけでなく、演じてきたすべての役に「型破りなキャラクター」という共通点がある。
これは謂わば三船敏郎のような人物固有のダイナミズムで、したがって、木村拓哉がへた、という言い分は、三船敏郎がへた──の位相とすごく似ている。
三船敏郎が一貫して演じたのは「豪快なキャラクター」だった。よしんば三船敏郎がへただった──としてもキャラクターを確立している以上、へたを補ってあまりあるダイナミズムがあった。といえる。じっさいにあった。
木村拓哉も、そういう種類=リアルな演技ではなくキャラクタライズが売りの俳優だと言える。三船敏郎が「豪快なキャラクター」を身上としていたなら、木村拓哉は「型破りなキャラクター」を身上としている。じっさい、どの映画/ドラマでも間違いなくその配役が為されていた。
そして役者がキャラクターそのものに魅力を持っているならば、演技がへたかうまいかで、役者の価値ははかれない。という話。である。
ところで、能面でやってくれ──は、わりとよく知られた小津安二郎の演技指導方法だと思う。俳優は、小津映画の佐分利信みたいに、あるいは本作の渋川清彦のように、演技指導によって、能面や棒になる。
ところが強いキャラクターをもった俳優は、演技指導どうりの役作りにおさまらない。それ以前に、演技指導によって映画をつくりあげたい監督は強いキャラクターを持った俳優を使わない。たとえば濱口監督は木村拓哉に能面でやってくれとは言わない。に違いないし、もし使うとすれば、能面でやらなくていい役回りを充てる。と思われる。
ただし、木村拓哉が能面で演じたらぜったいに面白い。で、言いたいのは──渋川清彦を教授にし、能面にして棒にしたのがとてもフレッシュだった、ということ。
わたしはかつてゴールデンスランバーのレビューにこう書いた。
『渋川清彦は、この映画やフィッシュストーリーで見せた演技でブレイクした、はずである。その持ち味が理解されていない──と思う。キャスティングされると、まず間違いなく、だらしない人間、ダメ男、チンピラとして使われる。いったいこの紋切り型の発想はなんなのか、というくらい、一本調子のキャスティングを被る(こうむる)。クレジットされていると、ほぼチンピラ役なのである。
この国の演出家は何を見ているんだろう。(後略)』
ほとんどの映画で渋川清彦はかならずダメ男の役になるのだが、その発想に日本映画の限界があった。と、わたしは思っている。中村義洋監督以外だれひとりそれを解っていなかったが、濱口監督はそのあたりを解っている──と感じられた。
三篇を通しても渋川清彦のキャラクターがいちばん強烈だった。
ただし映画はなんとなく庶民的ではない。
東京は映画の発展度で言うと、ドレッドノート級の田舎なのだが、そこに巣くっているお百姓*の自称評論家が、偶然と想像のような、会話の妙味やロメールやアレンやゴダールやサンス風の「洗練されたすれ違いの零れ話」の映画を絶賛したばあい、かならず権威がまとわりつく。言いたいことが伝わっているか解らないし、映画に罪はないが、そういう権威がまとわりつきやすい映画だとは思った。
(*わたしは田舎の百姓なので百姓が差別用語には成り得ません。)
「偶然」から始まるが、いくつかの「想像」から選んだ着地点には・・・・「必然」がある。
対話劇ですね。でも映画として映像化する効果も(部分的に)感じられます。
①魔法(よりもっと不確か)
二人きりになったオフィスに、忘れ物をした従業員が(偶然ではなく)戻ってきたのは必然であり、主人公の気持ちも固まってきた。
夕景の写真を撮ったのは、この町への惜別の気持ちでしょう。(私の想像)
②扉は開けたままで・・・・・パスします。
③もう一度
二人でエスカレータを行ったり来たりする映像が効果的です。
同窓会と言うのは、当時に戻ったあけっぴろげな気持ちと、それを傍観できる今の気持ちが同居しますよね。
帰り道に相方が自分の気持ちが話せたのは必然。最後の最後にやっと名前が思い出せたのは、年寄りのアルアルです(笑)
「偶然『を』想像」?
あまりピンと来なかった。
偶然から始まる物語を描きたいことしか伝わってこなかった…
まるで、「偶然『を』想像」して描いたような…
役者さんの芝居はみなスゴかったとは思うが、ストーリーとしてはなぜ2話だけあれほど悪意に満ちた着地なのか、その他の話がなんとなく良さげに着地しているのか、意味が分からなかった。
それこそが『偶然』だ、ということなのかも知らないが…
短編3本立て、今一つ自分にはあわなかった。
海外でたくさんの賞を取っている旬の監督の作品です。
冒頭に監督の挨拶がありますが、カメラに視線を合わせずオドオド喋るのですごく違和感ありました。
(俳優・女優が演じたらNG出すだろうと ちょっとモチベーション下がってしまった)
作品は3本立てです。
1本目 元カノ女優さん 存じ上げないのですが有名な方ですか?
2本目 舞台演劇っぽい発声でとても違和感感じる
大規模組織であのメールアドレス設定はありえないんじゃないですかね(話の根幹に影響します)
3本目 特殊な環境下での話ですが、今一つしっくりこない。
正直、今一つ自分にはあわなかった。
(貶すつもりはありません)
わー!😵新しい〜映画だ! 演劇✖︎映画だ!
凄いぞ。
この台本(脚本)は、世界言語に訳しやすい。
つまり、世界の人に、伝わる(理解できる、考えさせるも)!
だからか、映像に隙、無駄がない!簡素。
だから、演者に芝居っぽさがない。
などを、思いながら見ていたら
あっという間に、終わっちゃった😢
目をつぶって、もう一回
映画を聞いててみたい。だめ?
あまり映画になっていなかった気がする。面白い部分は勿論あったけど、...
あまり映画になっていなかった気がする。面白い部分は勿論あったけど、それは話が面白いわけであって映画として面白いわけではないというか。難しい。
プラトニック
偶然」と「想像」をテーマにした繋がりのない3話のオムニバス。
魔法(よりきっと不確か)
友人から話された最近気になる男が自分の元彼で、という話。
いやいやいやいや、怖いは!キモいは!面倒臭いは!と突っ込みたくなる女と、中途半端さを見せ始める男と…「想像」で良かったw ☆3.0
扉は開けたままで
教授に落第させられたことを逆恨みする大学生のセフレが、彼の仕込みでハニートラップを仕掛ける話。
扉の件を含め、これはある意味「プレイ」ですねwそういう趣味はないけれど、わかりますwwバスの件も嫌いじゃなかったけれど、その前の方が良かった。 ☆3.5
もう一度
町で偶然出会った高校の頃の同級生2人の、あの頃の理想と今のギャップと思い出話と。
ウイルスの件は必要ですか?というのと、会話の流れで家に着く前から判ってしまったのは勿体なかったけれど、それでも笑いに持っていってくれたし、若者の様な盛り上がりをみせる2人とその内容に温かい気持ちになった。 ☆3.0
3話ともまるで違うシチュエーションにまるで違う展開だけど、どれも会話劇の様相だし、味付けは結構似ている感じだし、どれもマジメな話しと思わせつつのコメディでしっかり笑わせてくれるし、それでいてちょっと痛かったり優しさを感じたり。
全話とも面白かった。
偶然ってあるよな、と思わせる映画です
ちょっと笑っちゃうような偶然なのですが、こんな偶然って自分にもあったよなあ、と思って見ていました。
ちょっとした偶然から展開していくのですが、この先どうなるのかなあ、というところで終わっているので、文字どおり「偶然と想像」です。
その意味では映画らしい映画です。
朗読のようと言うか、棒読みのようと言うか、そんな台詞が続きます。これは演出だろうと思っているのですが、逆効果のような気がします。ちょっともったいない。
濱口竜介作品の世界をより明瞭にするオムニバス、言葉選びのセンスに驚く
いくつもの偶然と広がる想像。言葉通りとも行かない、多角的な見方とその展開に呆気を取られる。3話それぞれ面白く、フランス映画のような品の良さと、邦画だからこその会話劇に仕上がっているのが印象的だった。
まずは各話見ていく。1話の『魔法(よりもっと不確か)』は、キャストの相性もあるが、1番好きかも。友達の新たな恋人候補が実は2年前に別れた元カレで、居ても立っても居られず…。リズムに刻まれた言葉の重さと、裏打ちされるように構築される必然へのフラグ。想像を形にした独特のアプローチも絶妙で、緻密さと大人びた台詞回しに酔いしれる。作品の中では最もポップな気がする。
2話の『扉は開けたままで』もまた、独特なオーラが新たな体験を呼び起こす不思議な作品。大学生の専業主婦が、留年したセフレに頼み込まれ、復讐をするが…。玄理のきれいな声と、アンドロイドの様に受け答えする渋川清彦の会話に悶々とした空気を覚える。人間の変態な部分が顔を出し、想像つかない世界へ誘う。言葉の文がくすぐったい。
3話の『もう一度』も独特なSF味を帯びた現実の話。コンピューターウイルスによって連絡が出来にくくなった時代、確かな距離を見失った二人に起こる偶然とは…。こちらは少し平たくも分かりやすい作品であるが、優しさを感じる。
オムニバスとは言え、その空気に混じり気はなく、監督の一貫した雰囲気と、時折顔を出す言葉選びに驚く。それが実に人間の滑稽な部分を引き出しており、驚きと発見をくれる。重厚で味わい深い世界観が、マイルドかつオーソドックスに見せてくれる。
まだ『ドライブ・マイ・カー』に続き、濱口竜介作品2作目の為、その本質を理解した訳ではないが、海外で評価される理由と、洋画好きが唸る理由が分かる。こうしてミニシアターでかけてくれる所も含め、芸術家の域にいるのだと思う。凄く新鮮で愉しい映画体験だった。
タイトルなし
「偶然」と「想像」という共通のテーマをもつ
3つの物語
登場人物が交わす会話
朗読劇を観ているような感覚になった
第一話「魔法(よりきっと不確か)」
第二話「扉は開けたままで」
第三話「もう一度」
…
「偶然」からのよめない展開
「言葉は受け手の経験と響き会う」
この言葉が心に残りました
偶然は怖い?
2021年11月29日
映画 #偶然と想像 (2021年)鑑賞
3話からなるオムニバス映画で、どの作品も偶然からの展開が面白かった
朗読のようなセリフ回しは、言葉へのこだわりと会話の掛け合いを大事にしてるんでしょう
感情を出さない分表情に注目しますね
試写会 @fansvoicejp さんありがとうございました
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