「日常の音楽と建築のなかの悲劇」ファーザー kthykさんの映画レビュー(感想・評価)
日常の音楽と建築のなかの悲劇
この映画をただボケ老人の悲哀として読み取るだけでは面白くない。そうか描かれているのは我々の日常的な日々の悲劇、それを「音楽と建築」により表現している。
ビゼーの「真珠採り」にはじまり、マリア・カラスが歌う、ベリーニのノルマの「清き女神」、たぶん監督が聴かせたいメインはイタリアのエイナウディの「My Journey」かもしれない。しかし、ボクはそのバラエティに興味深々、まだ解けない監督のメッセージはその組み合わせにあるようだ。
ドラマは認知症のアンソニーを演じるアカデミー賞のアンソニー・ホプキンスの独演劇。彼はロンドンの自身の高級フラットと娘であるアン夫婦のフラット、そして、痛ましい老人ホームの小さな個室に取り残される。どの部屋も決して惨めではなく、エスタブリッシュされニートなのだが、気がついてみるとそこはたった一人の迷宮空間。
そして最後のシーンはアンが一人歩くパリの広場の頭部が欠落したイゴールの彫像「月の光」。その彫像はアンソニーの象徴だ。
彼のニートなフラットの窓の外の広場の子供の自由が彼と空間、その迷宮を一層強調する。
彼の迷宮空間は認知症にあるのだろうか。
いや、この映画を建築批判とするならば、テーマは認知症ではない。
「去年マリエンバート」と全く同じ、現代社会の建築的迷宮にあるのだ。
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