「自分の葉を失うのはどんな気分になるか」ファーザー マルホランドさんの映画レビュー(感想・評価)
自分の葉を失うのはどんな気分になるか
この作品は映画の予告だけ見てすぐに劇場に向かってほしい。この作品は単なる認知症患者と娘の純愛のような作品ではない。映画というVRを通じて認知症の人の気持ちを体験できる作品だとおもう。
映画とは世界最古のVRである、と俺は思う。だからこそこの映画の意義は素晴らしい。まず開始5分でこの映画の異様性に気付けるはずだ。さっきまで娘と話していたがカットが切り替わると今度は違う人間が入ってきて「私が娘よ」という。そしてまたしばらくして最初に出てきた役者がまた映画のキャメラに出てくる。あるいは「パリに行く」とさっきまで言っていたはずなのに次では「そんなこといつ言ったの?」といわれる。次第にこれは悪い夢なのではないか、現実なのか非現実なのか、その時系列さえも複雑に混ざり合い本当に混乱してくる。また演者の出るタイミングもスムーズでさっきまでいなかったのにいつの間にか部屋にいたりもしかして最初からスタンバイしていたのかと思うくらいな自然さで計算されていると思った。
部屋のデザインも無機質だがきちっとバランスなどが綺麗に揃っていて、さながらキューブリックの映画みたいにセットがきっちりしていたり、窓から風景を見るシーンなどはヒッチコックの裏窓を思い出す。
またアンソニーの演技もとても味わい深く、ルービックキューブのように場面が切り替わるがそれに合わせて演技しているのが本当にすごい。笑っていたら次に真顔になったり、混乱して自身を失い子供のようになる人物造形は臨機応変を問われるしそれにちゃんと応えるのが見事だ。
娘が献身的に介護するが、アンソニーはそれに応えず、娘より既にいない妹の方を溺愛している感情を見せつける所はこの認知症がいかに厄介か、親と子の関係性を壊していくのかがよく知れる作品なのだと思う。
そして自分を失っていく恐怖も同時に描いている。人生のサイクルが見れて、人間は子供→大人→老人(子供)に戻っていく。それはまるで木が葉っぱをつけ、落とし、また生えるように生命のサイクルを自然に例えるのが命の儚さを感じられた。
最後施設に入院をし、看護婦さんにすがるシーンは、人間というのは人がいる限り人を求める。人がいるからこそ安心してそれを抱きしめられる。人と人の普遍的な愛の形、関係性、受け止めてくれる人がいるというありがたさを感じられとても余韻が深い。
アンソニーは終始時計に執着している。それは自身の時間が失っていく中でそれを唯一確かめられ流からこそ安心できるからなのかもしれない。人生は限られた時間だ。だからこそ子の映画でそれを考えられるのも本当によかったと思った。