劇場公開日 2021年5月14日

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「天下一品の演技」ファーザー 耶馬英彦さんの映画レビュー(感想・評価)

4.0天下一品の演技

2021年5月17日
PCから投稿
鑑賞方法:映画館

 ストーリーに多少の違和感を感じることがあったが、痴呆症の老人には世界がこのように見えるのかもしれないと、最後は納得した。救いは、アンソニー・ホプキンスが演じた主人公アンソニーが暴力的でなかったことだ。
 当方は過去に、旅行先で大酒を飲んで前後不覚で眠ってしまい、迎えた旅館の朝に自分がいまどこにいるのか一瞬わからなくなったことがある。または、急いでいるときに忘れ物をして取りに戻ったときに、映っていたテレビのニュースが気になって、自分が何を取りに戻ったのか忘れてしまったことがある。あるいは、目の前の友人の名前を失念したこともある。痴呆症というのはああいう感じがずっと続くようなものなのだろうか。
 アンソニーが残してきたものは家と少しの蓄えと、それに娘だけである。徐々に記憶が朧になり、夢と現の境さえあやふやになっていく中で、時々覚醒して自分の記憶の齟齬に愕然として整理を試みもするが、上手くいかずに再び痴呆の浮遊感に戻っていく。娘のアンを呼んでみるが、やって来たのは知らない中年女だ。誰だ、この女は。いや、本人が娘のアンだと言っているからにはアンに違いない。もしかすると自分は痴呆症なのか。このあたりのアンソニー・ホプキンスの演技は天下一品である。
 年老いて誰からも必要とされず、世話ばかりをかけるようになってしまったら、誰でもこんなふうになってしまうのかもしれない。孤独と悲哀と喪失感がアンソニーを包み込む。優しさはいっときの慰めになるが、救い出してくれる訳ではない。もはやアンソニーを救うのは死だけだ。
 真面目に生きてきた。ときには羽目を外しもしたが、世間に顔向けできないようなことはしていない。日の当たる道を胸を張って歩いてきたのだ。この道の向こうには光が見える。あそこにはルーシーがいるのだろうか。
 意識と無意識の間を朦朧として歩いていくアンソニーを支え続けてきた娘のアンを演じたのは、オスカー女優のオリヴィア・コールマンである。映画「女王陛下のお気に入り」の演技も見事だったが、本作のアンは、痴呆症の父親に対する溢れるような愛情が伝わってくる最高の演技だったと思う。

耶馬英彦