「守ってくれる君」少年の君 近大さんの映画レビュー(感想・評価)
守ってくれる君
『ドライブ・マイ・カー』が本年度米アカデミー賞国際長編映画賞にノミネートされて話題だが、こちら昨年の同賞同部門にノミネートされた中国/香港合作映画。
続くアジア映画の勢いと底力を知らしめてくれる、メガトンパンチ級の力作。
進学校に通う高校生チェンは、大学受験を控え、日々勉強に向かう。内向的な性格で、友達は一人もおらず。
彼女の学費を稼ぐ為、母はインチキ商売に手を染め、借金を抱える。母はずっと家を空け、帰っても借金の取り立てが来る家にいつも独り…。
そんなある日、クラスメートがいじめを苦に自殺。その死に同情を示した事をきっかけに、チェンが新たないじめの標的に…。
OPやEDのメッセージから分かる通り、本作は反いじめ映画。
日本だったら文部省推薦のお利口さん作品になる所だが、本作はそんな生易しいもんじゃない。
とにかく衝撃なのは、その凄惨ないじめ描写。
仲間外れ、除け者、陰口悪口なんてまだまだ甘口。それら精神的ないじめに加え、体育時間でのボール当て、階段突き落とし、窒息寸前の羽交い締め、髪切り、殴る蹴るの暴行…。
集団での襲撃、果ては執拗な追撃、ナイフまで持ち出し、明らかな殺意…。
もはやいじめどころのレベルではない。れっきとした犯罪だ。
しかもそれを、隠れコソコソ陰湿にではなく。時には大勢の前で堂々と。
そんないじめを加えるのは不良少年たちであったり、クラスの女生徒だったり。そのリーダー格がクラスの優等生女子。決まって美少女というのが殊更ムカつく!
まるで生き地獄。
何故、いじめの標的に…?
明確な理由は描かれない。ある日から突然に。
そうなのかもしれない。だって、いじめそれ自体が、無意味無益な事。
少数のいじめが大きく、国レベルになれば、大国が小国へ軍事侵攻する戦争だ。
愚かさと恥を知れ!
いじめだけではなく、作品が描くのはいずれも重く、苦しい。
異常なまでに過熱する受験戦争。
先生から、時には自分で、重圧的なプレッシャー。
合格=勝てば天国、失格=負ければ地獄。
いじめ女子もプレッシャーとストレスの捌け口としていじめを…? 他に無かったのだろうか…?
皆、自分の開かれた将来の事だけ。
いい人生を歩みたいのは誰だってそうだが、それが全てなのか…?
情け容赦無い競争社会。
その社会自体も問題だ。いつの間にかそういう図式にさせてしまった社会システム。
敗者には地獄が待っている。借金、ほとんど一生陽の当たる事の無い暮らし…。
社会の底辺で生きる人たちは浮かばれない。救いも希望も無い。
現代が抱える闇であり、病気。…いや、地獄そのものと言っていい。
格差社会という名の…。
…しかし、そんな世界にだって、一筋の出会いがあった。
ある日チェンは、集団暴行を受けていた少年シャオベイを咄嗟に救う。
片や優等生、片やチンピラ。が、シャオベイも母親に捨てられ、住む家すら無い独り身。
孤独者同士、いつしか心を通わせていく…。
日本の少年/少女漫画の設定のような“優等生女子と不良”。
が、日本映画に氾濫する非現実的キラキラ甘々ラブストーリーにはならない。
チェンへのいじめは日に日にエスカレート。受験のプレッシャーものし掛かる。
チェンはシャオベイにボディガードを頼む。
ボディガードという異色の関係。勿論当初は恋愛感情など無い。
孤独な者同士の秘密の関係。そこから始まった二人の物語。
そんな二人に一貫して、ハードでシリアスでスリリングな世の不条理が襲い掛かる。
二人の関係は公然の秘密。当然かもしれない。
優等生と不良。知られたら、受験の際に不利になる。
だから四六時中片時も離れず、ぴったり傍にいるという訳ではない。登下校とか、いじめの標的になりそうな時だけ。
さらに、肩を並べて歩いていてもバレてしまう。シャオベイはチェンの少し後ろに離れて位置する。
何だかこれが二人の関係性を表している気がした。もっと寄り添い合いたいのに、それが出来ない。
が、必ず後ろに居る。時折ストーカーのように見られる。
周りがどう言おうと知ったこっちゃない。安心しろ。俺はここに居る。
二人になった時だけ、二人は唯一距離を縮める。
面と面を向かい合わせたり、肩を並べて寝そべったり、各々の事を話し合ったり…。
ある時、二人でバイクに乗って街中を快走。
息苦しいと思えた世界が、こんなにも美しい。一時の心地よさ、幸せ…。
大きな望みなど無い。チェンが受験に合格したら、この街を出て他所の街で一緒に暮らす事を誓う。
ただ、それだけなのに…。
シャオベイはいじめリーダー女子を脅していじめを辞めさせる。
いじめは無くなったが、今度は別の女子が標的に。
その女子はチェンとシャオベイの関係を知り、自分も守って欲しいとチェンに付きまとう。
そしてある時、裏切り…。
シャオベイにも婦女暴行の疑いが掛かる。
全てチェンとシャオベイを離す巧妙な罠。
これまでにない壮絶ないじめ…いや、報復が加えられる。
ある日、いじめリーダー女子が遺体となって発見された。
婦女暴行の疑いがあるシャオベイに容疑が掛かる。
実は、殺害したのは…。
衝撃。
警察からマーク。
受験を終えたばかりで、このままではチェンの将来が危うい。
二人が下した決断。
それは死別よりもある意味悲しい決別…。
全ての罪をシャオベイが着る。犠牲。
そうすれば、チェンの将来の妨げにならない。
しかし、自分はどうなってもいいのか…?
いいのだ。こんな希薄な孤独の世界なのだから。
悲しむ者なども居ない。
…いや、居る。ただ一人、心を通わせた。
彼女が真実を打ち明ければ、シャオベイは救われる。
が、二人共、一切口を開かない。
それどころか、一切知りもしない、会った事もない、“他人同士”を貫き通す。
彼女の為に。彼の思いを汲んで。
どんなに警察から問い詰められても。
例えどんなに我が身が苦しくなろうとも。
暗黙の了解で、二人で決め合ったのだから。
いじめは罪。断固許されない。
かと言って、二人の行った事も決して正当化されない。してはいけない。
だが、社会や他人には分かるまい。
こんな世界で、唯一心を通わせた二人だけの関係。
“恋愛”など安直な言葉で言い表したくない。
勿論それも込め、さらにそれを超えた、あまりにも純粋一途な想いと想い…。
メイン俳優業の傍ら、監督としても活躍。高い評価を受け、“傍ら”などではない。確固たる実力監督。作品を見たのは本作が初めてだが、確信した。
これが監督3作目の若手監督とは思えない、デレク・ツァンの堂々たる演出力。
重苦しい題材を扱い、テーマを突き付けながらも、瑞々しい青春ストーリーとして見る者の胸を打たせる。
主人公二人が置かれた境遇、壮絶ないじめシーンなど、見るに耐えないくらい。が、決して目を背けてはいけない。監督からも激しく、純粋な思いを感じた。
全身全霊体現したチョウ・ドンユイとイー・ヤンチェンシーの若手二人。
ヤンチェンシーのアウトローな姿、生きざま。そこから儚い刹那的なものも感じさせる。
ヤンチェンシーも素晴らしいが、やはりチョウ・ドンユイに尽きる。
私も以前見た『サンザシの樹の下で』で、“中国13億人の妹”と呼ばれるチョウ。
同作では純愛という言葉がぴったりの純情お下げ髪少女だったが、あれから数年。
あどけなさは残しつつ、孤独や悲しみ、苦しみや一時の幸せを感じさせる佇まい、魅力。
彼女の存在あってこその作品だ。
彼女と少年の出会いあってこその作品だ。
3つの若き才能が弾け合って生まれた“奇跡”だ。
時として、社会は若者の純粋な思いの障害となる。
二人を追い詰める刑事。彼もまだ若手だが、二人からすれば大人。
決して二人を酷く貶めようなんて気はない。寧ろ、最善の道で二人を助けたい。
チョウへのいじめも気に掛け、いつでも頼っていいと言いながら、大人の不条理。一番助けて欲しい時に連絡が取れない。
結局はこんな社会の中の大勢いる冷たい大人の一人…。
が、彼が最後に計らってくれた場。
その時の二人の心底からの涙と笑みが忘れられない。
大人も決して、若者たちの思いを奪おうとはしない。
ラストシーンは人によって様々な解釈があると見た。
一応作品上では…
罪を認めたチェン。禁固刑を受けるも、いじめで減刑され、4年で刑期を終えた。
出所後、英語教師となったチェン。孤独そうな少女を気に掛ける。
一緒の帰り道。その後ろを、シャオベイの姿が…。
二人の関係が今も続いているような、一見ハッピーエンド。
中国では2018年にいじめ防止が条例によって定められた。
いじめを無くす。その代わり、ラストの不穏な監視カメラ映像から滲む、新たな犯罪への警鐘。いつまでも付きまとわれる“ストーカー”。
これはあくまで深読み過ぎた別の見方。
私はそんな背中に冷や水を落とされたような気持ちで本作を見終えたくない。
私の解釈は、間違ってると思うが…
あれ以来、二人が会う事は無かった。
だけど今、私がいじめから子供たちを守っている。
かつて、君がそうしてくれたように。
私はもう孤独じゃない。だって、私には、
後ろに今も居てくれる。守ってくれる君。いつまでも。