なんのちゃんの第二次世界大戦のレビュー・感想・評価
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こねくり回すだけ
関谷というのは鎌倉にあるが劇中の関谷市は架空の町、ロケは淡路島、もっともブラックコメディだから場所などどこでもよかったのでしょう。タイトルからして子供目線でのあの大戦への回想かと想像したが、訳ありの石材店の南野一家と市長一家の過去の私怨を巡る泥仕合でした。
アカミミ亀の異常繁殖問題を借りて戦争を揶揄している、亀はアメリカからの外来種だが飼えなくなった人が池に捨てたのが元でしょうと、先の戦争も被害者ぶってはいるが身勝手な日本人こそが加害者なのだと・・。
一見、高尚なテーマを扱っているようだが脚本、俳優も含め素人感が拭えない、映画表現としては稚拙すぎて、単にこねくり回しているだけで終わってしまった残念な映画。
残念ながら、よくわかりませんでした。
戦争関連の作品は出来るだけ観ようと
思っているので鑑賞しました
なんでしょう?これは。
なんとか理解しようと努力しましたが、
話が進むほどに頭がクラクラしちゃいまして。
監督は一体何を言いたいのか?
何のためのこの表現なのか?
最後までよくわかりませんでした。
ガチャガチャしてさっぱりわからなかった。
様々な比喩、メタ表現をしているんでしょうが
「で?」って感じなんですよね。
さらにそれらのデコレーションが多すぎて
味がわからなくなってしまいました。
題名の意味することすらわかりません。
僕の鑑賞力が足りないということもあると
思いますが。
僕はいつも前情報ゼロで鑑賞するのですが
本作は監督の製作意図くらいは読んでおけば
良かったかな?とちょっと後悔しました。
戦争に正しいも間違いもない。
被害者、加害者明確にない。
語り手によって事実が変容して伝わる。
戦犯者決定過程は不条理。
平和の捉え方って色々ある。
人によって優先順が違う。
うん、そーだね。そーだよ。知ってるよ。
で、なんなの? です。
本作は自身の考えを押しつける、
押し通す人しか出てきません。
相手を知ろう、解ろうとする人が
これっぽちもいない。
それって、本作の監督自身のスタンスが
表れているのかな?とも思いました。
「なぜ、そう考えるのか?」
「なぜ、そう捉えるのか?」
それを知り得てから思考が始まり
意見も出てくるだろうに。
そこに立ち入ることなく、入ってきた
情報を様々な表現方法で並べている
だけなんですよね。
(そうみえてしまいました)
そこに監督自身の考えが見えてこない
のです。
もしかして、主張がぶつかり合い、
わかりあうことなくぶつかる=>戦争。。。
ってことを言いたかったのかな?
それは考えすぎか?
また、本作の演者さんの8割が
撮影現地の住人の方々だそうです。
残念ながらそれは失敗していると思います。
キャスティングは重要な演出と考えます。
役柄にマッチしているとは言えない
未経験の方々の慣れないセリフ回しを聞くほどに
泳いでいる目線を見るほどに冷めていくのです。
未経験者を出演させるなら、
本気でやって欲しいものです。
高いハードルを設定したならやり切って欲しい。
見苦しいだけでした。
最近作のノマドランドと比べるのは酷ですが、
プロじゃなくても役柄にマッチすれば作品を
より良いものに昇華させることができます。
当日上映後に監督さんのトークがありました。
どこのシーンがウケたウケないじゃなく、
どのような考えで作ったか?などを語って
欲しかったです。非常に薄っぺらい監督だなぁ
という印象しか持てませんでした。
僕には残念な一作でした。
混沌の中の核
(一時期、映画.comにログインできず、今は基本filmarks使っています。以下filmarks記載分より転記)
一作目「極私的ランナウェイ」(2012PFF入選。会場で鑑賞)、二作目「ひつじものがたり」(ゆうばり出品しており当時スカパーで観た)。
数年の潜伏期間を経て放たれた、河合健監督第三作。
圧巻。圧倒的112分。
遥か遠くの記憶としての太平洋戦争、その意味するものは何か。
現在まで脈打つ光と陰、多面的存在としての人間という生き物。
「人に聞けば聞くほど、もうわけがわからなくなってくる。」「その感覚をそのまま映画で表現しようと思った。」と河合監督は述べている。
訳の分からないものを、訳の分からないまま表現する、その危うさ。カオスの淵に沈んでしまってもおかしくない、ギリギリのところで踏み止まり、カオスはカオスのまま取り込みつつ、絶妙なバランス感覚で作品としてまとめ上げていく。
亀に託されたメタファーや河合監督の捧げているオマージュ(映画の浴び方が足りず全ては分からないけれど)、エンタメであることを忘れず、かつ、人間の無意識の中にある、ヌメっとしたモノを掴みにいく感覚。
笑ったし、時に唸ったし。
つまらなかったらどうしよう、と(ほんの少し)思っていたが、杞憂に終わった。
おそらく大した予算はなかったと思うけれど、ここまで冒頭からラストまでしっかり作り込めるとは。脚本がすばらしく、映像の質もそこらのいわゆる商業映画と比べて全く遜色ないと感じた。
この監督は化ける。いやもう化けているのかもしれない。
今年、コレを超える作品に私は出会えるのだろうか。
第二次世界大戦と言うタイトルが大風呂敷を広げ過ぎと意味を成していない作品です。
劇場に置いてあったチラシを見て、なんとなく気になったので鑑賞しました。
タイトルのなんのちゃんと言う単語になんとなくスウェーデン映画の「ロッタちゃん はじめてのおつかい」を思い出したのとなんのちゃんと言われると南野陽子さんの愛称を連想w
なので、可愛らしい子供が主人公でシニカルな感じの作品かな?と勝手に想像しましたw
で、感想はと言うと…なにこれ?
いろんな物がごっちゃごちゃに入っているけど、全然整理されてなくて、正直よく分からん。
一言で言うなら…アナーキーでパンキッシュと言うんですかねw
正直辛口な感想ですw
架空の街、関谷市の清水市長は太平洋戦争の平和記念館設立を目指していたが一通の怪文書が届く。
送りつけてきたのは、街で石材店を営む南野和子と言う老女。
弁が立つ和子おばあちゃんを相手になかなか上手くいかない。
だが、ある事件をきっかけに和子おばあちゃんは死去。
そこにスナックを営む長女のえり子や国際ボランティア活動を行う孫の紗江。もう一人の孫で石材店を共に営む光。そして、紗江の娘の幼子マリが合流し、清水市長と対立する南野一家。
様々な思惑と思想をぶつけ合い、被害者と加害者の境を見失い、物語は思いがけないラストへと向かっていく…
と書くとなんとなく面白そうにも感じますが、テーマは反戦かと思いますが、正直何が言いたいのかがよく分かんない。
反戦をテーマに様々な政治的思想感を出してはいますが、なんのちゃんにお婆ちゃんが憑依した様になってるのも意味不明だし、いろんなトッピングをやり過ぎてジャンルの焦点がボケボケになってる。
亀がキーポイントになっている様でそうでもないし、ラストの子供達の妨害工作も意味不明。亀を投げるのってどうなんでしょうか?
もういろんな事がごっちゃごちゃなのでコメディやらファンタジーやらと何がなんだか…
ただ、セリフのテンポが割りと良いだけに惜しい。
シニカルに進んでいくのも良いし、言葉遊び的なのも楽しめるのに、結局やりたい事を詰め込んでやったけど…的なんですよね。
「本作品は、太平洋戦争の平和記念館を設立させることで、ある人物の過去を改竄しようとする市長と、それに反対する戦犯遺族の物語。登場人物が、バラバラの思惑で対立し錯綜していく様は、フィクションでありながらも現代社会“そのもの”をあぶり出す。平成生まれの監督が描く、現代と戦争の不透明な距離感を表現した他にはない作品が誕生した。」
との事ですが、錯綜と言うか、明らかに迷走で現代社会そのものをあぶり出し、現代と戦争の不透明な距離感を表現したと言われても、正直キチンと伝わってない。
物は言いようかなとw
清水市長を演じるのは名優、吹越満さんで孫娘のマリ役の西めぐみちゃんは現地オーディションで選ばれたとか。他のキャストの8割も撮影が行われた淡路島の住人の方々との事だが、町起こし的な物が多分に含んでいるのか、正直その意図が見えない。
単純に予算を浮かしてとした思えないんですよね。
いろんなメッセージ性が含んだ作品と言うのは分かるし、反戦を訴えるのも良いと思う。
でも、正直中途半端。
架空の町としているのはいろんな複雑な事情や妨害なんかもあっての配慮かと思いますが、であればもっと毒を撒き散らしてもよいのに表面をなぞる程度に感じて、結局言いたい事が不明瞭。
「大人なんて信じない」と言うキャッチコピー程、子供のストレートな思いやメッセージも無いし、子供が主人公でもない。
タイトルの第二次世界大戦も大風呂敷広げ過ぎ。
とある町の小さな主導権争いなのに、何故この様なタイトルを付けたのかが謎。完全に名前負けです。
もう、いろんな意味でこんなに迷走している作品も珍しい。
あと、作品の内容とは無関係ですが、個人的に不快だったのは鑑賞した渋谷のユーロスペースで上映中に場内をうろうろされている方がいて、途中立ち止まったりして鑑賞の邪魔になっていたんですが、その方が上映後の登壇された作品スタッフか出演者の方。
コロナ禍の緊急事態宣言で劇場から舞台あいさつがストップになって、とりあえず挨拶だけでもと一言も発せずに挨拶をするのはよいとしても、鑑賞中の邪魔になったのが登壇された方と言うのが理解出来ない。はっきり言って自己満足の登壇にしか思えなかった。
作品も含めて、いろんな意味でちょっと?が幾つつければよいのやらな作品です。
あくまでも個人的な一意見ではありますが、いろんな事を含めて残念でした。
【分かるけど、同意しない理由】
なかなかレビューが難しい…なあ。
この作品のゴールはなんだろうか。
きっと、河合監督が上映にあたって寄せた以下のコメント、そのものなのだろう。
『僕が戦争に対して切実に感じること。それは戦争の悲惨さよりも前に、語り手によって事実が簡単に崩れ落ちてしまう恐ろしさだ。何があったのか、誰が悪いのか、人に聞けば聞くほど、もうわけが分からなくなってくる。この混乱、何かと似ているなと思ったら、今の政治に対しても同じだった。その感覚をそのまま映画で表現しようと思った。平成生まれの僕と太平洋戦争との不透明な距離感。どうか、実感してほしい。』
そういう意味で言うと、映画は目的を達成していると思う。
多くの若者がこうした不透明な距離感を抱えていることは理解できるし、確かに、昨今は匿名性の高いSNSのおかげで歴史修正主義者の戦争責任を曖昧にしようとも取れる主張も多くなって、混乱を助長しているようにも思う。
そういう意味で、僕は、この映画や監督のコメントは理解できる。
しかし、申し訳ないが、好感度はほとんどない。
大学の恩師は、僕達に対して「分からないのは、君達の責任だから」とよく言っていたのを思い出す。
勉強不足は僕達の責任なのだということだ。
中高生だったら、理解できないのを教師のせいにしたい気持ちは分かる気がする。
だが、いい加減、大人は、仮に若者とされる人間であっても、考える能力は備わっているのだから、自分が理解できないことを、社会や、自分より年齢が上の人たちのせいにして良いわけはないのだ。
それに、平和だとか戦争だとかは、習ったり、人から聞くだけで、自ら考える必要はないのだろうか。
いろんな大人はいる。
様々な意見はある。
社会生活をしていても、なんでも人に責任をなすりつけようとする輩は一定程度いる。
それでも、人々は何が正しいのか、仮に手探りであっても、混乱はあっても、前進しようとしているのだ。
この太平洋戦争のことも基本的には同じではないのか。
いつまで日本は中国や韓国に謝罪しなくてはならないのかと主張するネトウヨとカテゴリーされる人は少なくない。
でも、そもそも、彼等自身は謝罪したことなどあるのだろうか。
謝ってもいないのに、いつまで謝る必要があるのかという問いは、根本からおかしいのだ。
戦争犯罪者の子供や子孫であることは辛いとは思う。
でも、その鬱屈した気持ちを、平和主義を掲げる人や、世間一般に向けても意味はないだろう。
仮に、それがエセ平和主義者であってもだ。
マリが言う。
「あなたは悪くないよ。だって、皆んながあなたのこと好きだもの」
このセリフは、人気者を大目に見る僕達の世界の風潮でもあるように感じるが、人気者が過ちで地に落ちる姿を僕達は沢山見てきたはずだ。
ただ、どちらかと言うと、特定の思想を代表しているような政治家には当てはまることがあるような気はする。
安倍晋三は、秘書をトカゲの尻尾切りのようにして、政治家をのうのうと続けている。
これは支持者がバカなだけだ。
マリが言う「被害者面した加害者」とは、何を意図してるのだろうか。
そうした人に会ったことがあるのだろうか。
戦争犯罪者とされた人の子孫は、こうしたことで迫害を受けてきたという意味なのだろうか。
でも、戦争犯罪者の子供は別人格なのだ。
過去に囚われずに考える機会はあったのではないのか。
囚われているのは自分自身なのではないのか。
平和とは、戦争や紛争の不在という定義で片付けられるような簡単なものではない。
共産主義や宗教の原理主義など思想的な問題を取り上げて危険視する人は多いと思うが、戦争や紛争の背景にある大きな問題は、実は搾取や貧困だったりする。
だが、援助を増やしても、その資金は貧しい人には行き渡らず、豊かな社会支配層にピンハネされることは多い。
そして、社会階層の固定化することもある。
だから、世界は、問題を洗い出しながら、より良い方法を見つけるべく、様々な努力をずっと続けているのだ。
結果が今見えないからダメということではないはずだ。
仮に理想主義的すぎるとしても、平和は、仮に100年以上かかってでも構築するに値するものだと僕は思う。
その間に、紆余曲折、多くの誤解などなあってもだ。
近道はないのだ。
LGBTQや、発達障害、障害者への理解、権利、インフラづくりなども、途方に暮れるような年月をかけて、先人の努力などもあって獲得されたものだ。
平和をどう定義するのかだって、刻々と変化する世界情勢の中で時間をかけて考えたり、微調整することはあっても良いはずだ。
今の中国の覇権・専制主義的な動きは、マルクスの考えた共産主義とは全く異なるし、中国漢民族の特徴であるという保守極右の主張にも違和感が残る。
対立を煽ろうとする人達は概ね、相手をデフォルメして貶めようとするからだ。
僕は、安倍晋三が嫌いだ。
同様に文在寅など韓国の日本との対立を煽る政治家も嫌いだ。
中国の習近平も、彼の専制主義も嫌いだ。
インドのモディのヒンズー教ナショナリズムも危険だと思うし、プーチンや、ブラジルのボルソナロも、中東諸国のイスラム思想で人々を縛って、甘い蜜を独占している支配者層も嫌いだ。
だからといって、こうしたトラップに僕はハマらない。
世界は考え続けなくてはならないのだ。
最後にひとつ。
先般、NHK・EテレのETVで鈴木義男(ぎだん)さんなどが行った、平和憲法への追加・修正についてのドキュメンタリーが再現付きドラマで再放送されていた。
よく保守右派の無知でバカな連中は、アメリカに押し付けられた憲法で改正が必要だなんて言うが、平和を希求するという平和憲法の精神性の部分や、当時としては画期的な生存権、国家賠償に関する条文は、日本の専門家によって付け加えられたものだ。
生存権は、現在のコロナ禍で生活が危ぶまれるような人が多くなっていることから、その意味と、国として、政権がどのように対応するのか、実効性が問われている。
そして、こうした追加・修正の中心にいたのは鈴木義男さんら、戦前戦中には、危険思想の持ち主とされ、政治的弾圧を受けたり、要職から追放された人達であったことを、多くの日本人は知らないままだ。
この作品に出てくる幼いマリと非常に似ているのかもしれない。
こうした重要な事実は、傍観しているだけで得られるわけではない。
考え、求め、更に考え続けるとことが大切で、それは、人や社会のせいにするようなことではないと、やはり強く思う。
勉強不足を他人のせいにしてはいけないのだ。
※ 長文になったお詫びで、少しずつ加点はしますが、好感度は低い作品でした。
面白いとかつまらないとかいう感想すら持てない難解な作品
正直なところ、とてもシュールで、全く理解できなかった。
「カメ」や「ボーイスカウト」や「清水正一老人」だけでなく、「平和記念館」自体が、何かのメタファーなのだろうか?
大嘘つき一家と、戦犯一家の争いなど、犬も食わないケンカである。どちらにも正義はないだろう。
「被害者と加害者の境」などはなく、ただ単に2種類の加害者がいるだけではないのか?
“なんのちゃん”は、大方斐紗子演じる老女の“生まれ変わり”かと思ったが、そうでもないらしい。
西山真来が演じる、意識高い系の役は、正しいことを語っているものの、文脈が見当違いだ。
金をたかられるほど、市長が低姿勢なのも解せない。
唯一良かったのは、各々の役のキャラが立っていたこと。
面白いとかつまらないとか、そういう感想すら持てないほど、ぶっ飛んだ難解な作品であった。
カメをつかまえよう!
平和事業として、市と第二次世界大戦に纏わる平和記念館を設立しようする架空の市、関屋市を舞台に、戦犯遺族と市長達の争いをみせる話。
105歳になる祖父が戦時下から反戦を唱っていたとして、マスコットに据えて事業を推進しようとする市長。
他方、市長の祖父の真実を知ると共に、BC級戦犯として死刑となった父親を持つ石材店の婆さんとその曾孫までの家族達という構図。
まあ、南野家は主張の足並みが揃っていないけどw
なんせ大繁殖するミシシッピアカミミガメが武器になっちゃったり、それを喰らっちゃったり、シュールだったりナンセンスな表現や、黒い皮肉めいた笑いをふんだんに織り込みながら、悪ふざけの様に展開していくけれど、私欲の為に事実をねじ曲げた主張で良い顔すんなよってことですね。
直線的には何一つ触れないけれど、某半島国を揶揄してる様にも感じたのは自分だけ?
言いたいことはわかるけれど、映画として大きく盛り上がったり響いたりはないし、折角この規模の映画なんだから、もっと直接的だったり、真っ黒だったりに表現しても良かったのかなと感じた。
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