ボストン市庁舎のレビュー・感想・評価
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市長の勇気に支えられているところが大きい
タイトルの通り、舞台はボストン。ボストンと言えば、川を隔てた対岸のケンブリッジにはハーバード大学とマサチューセッツ工科大学(M.I.T.)がある。マサチューセッツ州の州都であり、ボストン茶会事件という歴史的な出来事でも有名だ。アメリカで最も重要な都市のひとつである。
実は映画を観て少し驚いた。職員がこれほど真面目に話し合い、そして職務に努力している自治体が、トランプを大統領に選ぶアメリカにあるとは思ってもいなかったのだ。考えてみれば、アベシンゾーが長いこと総理大臣だった日本にも、まともな自治体はある。大変失礼した。
市長が誇らしげに演説するように、ボストンは失業率やその他の数字でアメリカの都市をリードしている。アメリカで最も優れた市政が行なわれていると言っていい。それを支えているのが、会議で繰り広げられる職員同士の熱い議論である。
なにせ、ひとりひとりの発言が長い。同じ長い話でも、井戸端会議の長い話とは違って、ちゃんとしたデータと自分の経験を踏まえての長い話である。こういうまとまった論理の展開が出来るのは、日頃からの問題意識と、その解決のための努力があってこそだ。
こういった会議が日常的に行なわれ、ときには市長も参加する。部署ごとの責任者に権限が移譲され、責任者が一同に介して市政を取りまとめる会議も行なう。そこでは市長から直接考え方が伝えられ、それに対しての議論もある。市長に賛成する意見もあれば、反対する意見もある。市政は上意下達ではなくボトムアップでもない。市長も職員たちも、市民の安全を守り市民の希望を実現するための対等なパートナーなのだ。だからフランクな議論ができる。
警察署長は単に法を執行するだけではなく、被害者のケアや出所した犯罪者の更生にも協力する。しかしどこまでもそれをやっていくと犯罪者の取締りが疎かになるから、どこかで次の部署にバトンを渡す必要がある。ボストン市庁舎には、既にその部署が用意されている。用意周到なことには、更にその次の部署まで用意されているのだ。
同じようなことが他の事案でも実施される。部署から部署へ引き継がれるのだ。市長は部署同士が少しずつオーバーラップしてスムーズに問題が解決されるように、部署の責任者を集めて議論を重ねていく。目指すのは民主主義の完全な実現だ。素晴らしい。実に素晴らしい。
市長は銃規制の法案が通らないことに憤る。学校での銃乱射事件が起こるのは世界でもアメリカだけだ。銃があるから乱射事件が起こる。銃を規制すればいいのは誰にでも分かることだが、全米ライフル協会が長期に亘って政権に圧力をかけ続け、共和党の政治家を中心に、銃規制法案が通らないようにしている。
市長は、不祥事を起こしたメーカーがリコールしたり改善策を示したりするのと同じように、全米ライフル協会は学校の銃乱射事件が起こらないように改善策を出す義務があると主張する。まさにその通りだ。この市長は当方が言いたかったことを百倍も上手く表現してくれる。見事である。そして勇気がある。
ボストンの職員が心置きなく働けるのは、市長の勇気に支えられているところが大きい。議論でも「市長が言っている」という言葉がたくさん出る。それだけ現市長に対する信頼が厚いということだ。こういう首長さんは日本にもいる。コロナ禍に対して画期的な対策を講じた世田谷区長の保坂展人さんや和歌山県知事の仁坂さん、東大出の元国会議員とは思えないほど熱い男、明石市の泉市長などだ。これらの首長さんたちは信頼されているだけではなく、尊敬されてもいると思う。総理大臣も首長のひとりだが、岸田文雄を尊敬している日本国民は何%いるだろうか。小池百合子を尊敬している東京都民は何%いるだろうか。
国が地方自治体にあれこれ規制をかけて、首長に手腕を発揮させないでいる面もあるが、それで諦めるのではなく、規制や条件の中で出来ることを工夫して実現するのが優れた首長だ。そういう首長の一番の仕事は、職員が働きやすい環境を整備することである。頑張りたい職員、努力したい職員は沢山いる。上から押さえつけて努力させないのが最悪の上司で、押さえつけを取り払って天井をなくせば、優れた職員はどこまでもハシゴを昇っていく。
首長によって都道府県や市区町村の住みやすさ、幸福度が変わるとすれば、有権者の使命は優れた首長を選ぶことだ。しかし日本では、ドブ板選挙と言われるような縁故政治がいまだに主流である。縁故資本主義と呼ばれるように、日本の社会自体が縁故主義なのだ。有権者は縁故に左右されてしまい、自分の判断を放棄している。これでは国民主権とは言えない。日本の有権者の多くは民主主義を放棄しているに等しい。無念だ。
この巨大なスケール感がワイズマンだ
フレデリック・ワイズマン‼︎
2017年(日本では2019年公開)の「ニューヨーク公共図書館 エクス・リブリス」は、図書館の持つ機能の多様性と存在意義を知らしめるだけでなく、アメリカの近代史、人種問題、格差社会、教育問題など雑多な内容に触れ、アメリカ社会そのもの、その過去、現在、そして未来までを俯瞰しようとする破格の傑作だった。
そして今作もまた、、、嫌になるほどの傑作。
これはワイズマンの生まれ故郷、マサチューセッツ州ボストンの市役所と街の姿を捉えたドキュメンタリー。274分(+休憩15分)と長尺だがストレスは一切なく、膨大な情報量と緻密な構造に圧倒され続けるのみ。
まずは市役所や公共機関がもつ様々な機能をわかりやすく提示していく。サービスを提供する側、される側の思いを丁寧に吸い上げる。
さらに高齢者、ホームレス、貧困、再開発、立ち退き、人種差別、LGBT(レッドソックスの優勝パレードも‼︎)など、山積みの問題に奮闘する市長マーティ・ウォルシュと市役所職員たちの姿をとらえた。
観る我々はボストンの市政をこれでもかと知ることになる。さらにはそれと相容れない州政、国政までもが透けて見えてくる構造。そう、トランプは対岸にいた。このスケール感がワイズマンだ。
それにしても featuring マーティ・ウォルシュ‼︎
この若き市長に対するワイズマンのシンパシーとリスペクトを強く感じた。マーティの言動は実に真っ当だった。
そして当のワイズマン。今は亡き自分の両親と同じ1930年生まれ、91歳のモンスター。彼の作品を観るとタルコフスキーやアンゲロプロスの作品と並べたくなる。彼らは神の領域にいる。
何故高評価が多いのか私にはわからない
うーん、「図書館」の方が数段よかった。タイトルはボストン市長かいなと思った。
あまり期待すると失望する。大雑把に何を言わんとしてるかは理解できたが、細かいことにこだわる人には勧めない。観る前に情報を仕入れとかないと理解できない箇所もあり消化不良の感もあり。短縮英字の組織名が出てきたり、オムニバスが飛び石的に繋がっていたり、休憩時パンフを買って読み多少慣れた。米国に直近まで住んでいた人以外でこのストーリーが理解できる人が何人いるのだろう。
結構満席近かったけど、左の大柄中年男性がやたら座り直し、右のお爺さんも2回トイレに行った。ふたりとも前半でひと時寝ていた。時折身を乗り出して観ている高年男性もいて、わかりやすいシーンではしきりに頷いていた。この映画を見に来た価値を見出そうとしていたのか⁉。映画よりも観客の様子の方が面白かった。
4時間半の映画を観たという話のネタにはなるが、自分としてはさほど評価できない。
絶賛してる人が多いのはちと奇妙。
【公共と、市民のリテラシーと、対話の力】
「パブリック」という映画を思い出した。
日本語タイトルには、確か”図書館の奇跡”というサブタイトルが付いていて、なんか、良い話っぽさが強調されているように感じたりしたが、あれは「公共」とはなんぞやということが、本当のテーマだったと僕は強く思っている。
なんでも、ウェットな感動に結び付けることを前提に考えるのは日本人の悪い癖だと思う。
この「ボストン市庁舎」は、アメリカの中でも、ボストン市が、その自治において稀有な存在であることを前提に制作されたのだと思う。
そして、アメリカ市民のみならず、日本の人々にとっても、その時々のリアリティ、出来る出来ないで判断せずに、”出来る可能性がある”、”やってみる”で実行すれば、多くの改善が実現できるのだと、4時間半と長い時間をかけて例示しているように思える。
驚かされるのが、市民や公共サービスに努める人々のリテラシーの高さだ。リテラシーとは、一義的に読解力のことだが、一(いち)言って十(じゅう)分かるというのも含めて、理解力と同義として使わせてもらいたい。
住民側に説明する市側の人は、日本ではありがちに思える妙にレベルを落としたり、独特なターミノロジーを用いた、市民の参加者をある意味バカにしたような説明はしない。更に、市民の側も、コミュニティを代表して来ている人も、論点をずらさず、議論したり要求を突き付けたりする。バカな日本の国会議員のようなヤジや、吉本芸人のようなボケもツッコミもない。
映画で取り上げられるボストン市の公務員は、業者の説明に対して、必要なところを厳密にチェックし確認して齟齬のないように努め、住民サービス担当の公務員も、問題に対する対処をパッチワークのようにせずに、更なる解決策があれば、それを提示するのだ。
これはボストン市の公務員も住民も市民としてリテラシーが高いことを示しているように思う。
実は、映画に取り上げられる場面にいちいち意味があると感じる。
だから長いのだ。
きっと、レビューに長いという人が結構想定されるが、果たして、それで良いのだろうか。
ボストン市は、アメリカの中でも屈指の大学が集まっている都市だ。
そして、多様でリベラルで、且つ、教育水準の高い市だ。
しかし、市民の間には、過度な競争意識が醸成されず、退役軍人の再就職や、貧困、高齢化、過度なコマーシャリズム化問題にも対処することが必要だとの認識を変えないでいる。
トランプ政権下で撮られた作品だが、自分たちこそが、ボストン市発信で、マサチューセッツ州を対話の力でリードし、米国政府も変えるのだというモチベーションも誇りも感じられる。
アメリカの白人至上主義者には、実現可能性がないとかリアリティがないという思考に対して突き付けられた対極の事実で、これを観たら単純に”感情的に”頭にくるだろうなと思うし、日本でも、「自助、共助、公助」の順番でと語呂の良さにうっとりし、過度に民族主義やパターナリズム(父権主義)に依存し、多様性を認めず、防衛も軍備拡張でしか考えることが出来ない安倍終了チーン三やアホウ太郎、菅義ひでえ、お二階から降りてくるな、竹中かとちゃんぺッ蔵、そしてネット右翼連中は発狂するかもしれない。まあ、こうした連中は長い映画には耐えられないし、自分の考えに固執したリテラシーがない人々だ。
僕は、どちらかというと宏池会押しなので、岸田さんには期待したいが、岸田さんの掲げる対話は、岸田さんにとどまるのではなく、各自治体に対話を促すようなこともぜひ力を入れてもらいたい。
都道府県議会までは何とか追いついても、区市町だと、あれ?みたいな人は多いはずだ。村は違う気がする。住民と対話し、改善の方向を見出せないような議員は国会であれ、県議であれ、区市町議であれ、不要なはずだ。
そして、宏池会をはじめ、保守本流であれば、多様な社会の実現の一歩として、LGBTQ差別禁止や、同性婚、別姓婚、外国人差別の禁止、入管の暴行まがいの行為禁止には絶対取り組むべきだ。
冒頭に戻るが、映画「パブリック」で感動するのは悪くないことだ。
だが、ボストン市民が、すべてとは言わないが、これを観たら、行政とは何か、公共サービスはどうあるべきかを議論すると思う。
僕の、このレビューで腹立つ人もいると思うが、申し訳ないけど率直にそう思う。
期待すると、思惑が外れます。
前作の「ニューヨーク公共図書館」を観て、一公立図書館がここまで市民にサービスを提供するのかと驚嘆、感動しました。その記憶があったので、期待してみたら見事に外れました。
この作品には感動はありません。目にするのは民主主義の原則、話し合いの重要性です。それと貧困問題。特効薬は無いのです。そのことを確認する映画だと思って下さい。合間合間に高層ビルを下から望む場面が出てきます。何か意味があるのかなと考えたら、バベルの塔を思い出しました。奢った人間が神を越えようした建築物です。思い過ごしかもしれません。しかし、駐車違反のキップを申し立てれば、チャラにしてくれるなんて良い制度だ。日本も見倣って欲しい
中学校の先輩評論家が「良い!」というから、観たけれど、 今回も単なる 民主党の選挙対策映画だった。
この映画は1本の電話からはじまる。
日本に当てはめれば
"'市役所 何でもやる課"
市長はどんな場面でも「私も皆さんと同じで、***なんです」と、同調して答える。
会話の中身を要約すれば「善処します」
いつでも同じで、対処はするが、根本的な解決はしない。
街には失業者があふれて、写しだされるが、それでも映画の説明では全米第2位の低さ。
働いていないのは教育が行き届かないアフリカ・中南米・カリブ系有色人種の中の一部であり、全体からすれば、たった0.2%とのこと。
また、映画の中ではいろいろな会議や現場での様子が延々と映しだされるが、
すべての会議 重要そうな会議でさえも、議事録を取る人間もマイクも録音機もない。本映画撮影以外ではカメラ撮影も、スマホ撮影すらもない。
もちろん内容を簡易メモする人もいない。
これでは単なるブレストーミングに過ぎず、何度繰り返しても何も解決はしない。
市としてはいろいろな意見をアリバイづくりの為に ガス抜き・はけ口として、取りあえず話を沢山聞くが、根源解決に向けた
市としての新たなる独自の試みはせず
あくまで国や州の下請けでしかない。
まるで我国の40年前の役所を観ているようだ。
近年の日本では、役所建物外では ひとめで役人と判るように、役所部署名が入った制服(作業ジャンパー)を着ている事が多いし
役所内では必ず名札を胸に付けている。
市民からすれば、固有名詞以上に、どんな立場の役職の人間が自分と話をしているかが、一目瞭然であり、それが解決に向けてへの重要な価値と補償になるのだが、
残念ながら、ボストン行政で行っている具体的な行動内容は、東京よりも数十年遅れたサービスである。
日本では行政を分業し、独立法人等が行っているような仕事でさえも
なんでも かんでも アメリカでは市政が直接に手を出しているようだが、それ故に横の繋がりだけは良いようだ。それは数少ない長所
諸問題についての対処は
縦割りが機能していない大阪と似たような行政スタイルなのかもしれない。
監督の試案らしいが、映画に登場する人物は誰が誰かが解らない テロップも名札もないので、 観ている対象が重要人物なのか 役人なのか 地域民なのか 貧困者なのかさえも判らない。
度々出てくる人がいるので、助役レベルの人がいるのかもしれないが。。。
映画の傍観者である我々には誰が誰だか判らないが、会議に参加している人間には お互い理解できている様子なので
それを 映画だからと言って、視聴者を傍観者として 更に外野に追いやる 意味はなく
会議に参加している人間と”同じレベルの知識”をテロップとして出してくれなければ、ドキュメント映画としての価値はない。
単に都合よく切り取られた”細切れ動画”集だ。
重要な場面をカットせずに、長回し するから、長い放映時間に成ったわけではなく、ひとつの案件に焦点を絞らせない為に
沢山の案件を詰め込んだので、長尺映画に成ったと 思われてもしかたない駄作映画だ。
映画を観ている我々に与えられているヒントは服装と髪形だけ。
しかし会話の内容を聞くと、役人 評論家 ブルジョア 貧困 という分類は外見でもすぐ判るし、肌の色も”層”によって違っている。
会話内容も、ネクタイをしている人間の会話は (英国ハイソ系どもりをする助役?はいたが)比較的に解りやすいが、
そうでない だらしない格好の人は 脚本がある訳でもなく、役者でもないので
無意味な会話をカツレツ悪く喋り、喋り方もだらしがない。。。
(例外的に、入札に参加できない事を訴えた零細企業を経営するカリブ系男性は、単ぺきで非常に判り安かったが )
そんな対話はネイティブでないと、内容が意味合いを含めて、正確に理解できなし、単語でさえも うまく聞き取れない。
よって、劇中の和訳が本映画では重要となるが、どうも訳したのが法律家ではなく、単なる映画翻訳者なようだ。
例えば、「貧困者の住居問題」「C国 大麻ランド店」といった内容が続く中で、
中盤での"道路事情"についての話題が2つ連続するが
その最初の問題では2シーン有るが、
2シーンとも、会話の結びに「verdict decree(判決)」と言う単語が発せられるが、このキーになる単語は訳されず、切り取られた口語体訳があるだけ。
単語から日本での”家庭裁判所”の警察署での分室であることが判断できるが
アメリカに住んでいる評論家なら、きちんと聞き取れると思うのだが、あえてとぼけているのか? 誤解している。
もしかしたら、純粋なアメリカ人が観ても 「敏速な市政である」と誤解をするのではないかとも危惧した。
2つ目の道路問題として、道路管理センターの場面が続くので、視聴者は勘違いするが、
前シーンは市役所交通課に与えられた現場権限ではない。
人種差別問題では「全米黒人地位向上協会(NAACP)」をNAACPとだけ記し、
対話中の市役所職員?はNAACPに対処を振ろうとしているが、NAACPを知らない日本人はそれが何かを示さねば、逆に翻訳とは言えないだろう。
そういう意味も含め 本映画は
和訳の下に会話を省かずに、そのまま きちんと英語で
'"文字お越し"してくれた方が親切で、的確だろう。
また本編にはテロップが入らないが、日本語版では文化や社会習慣説明する為の最低限な説明は必要です。
例えば、漢字でNAACPではなく
”全米黒人地位向上協会”とだけ毎回書いてあるだけでも、会話の方向性が解ります。
気に成った内容の1つはボストン市は市の貧困者0.2%を救う為には
アイルランド・カトリックを中心とするアングロサクソン系の大手大家(商工会議所 不動産会社部会)とは協力関係にあるようだが、
「立ち退き防止法」を駆使して小規模大家は干上がらせ、家賃が取れない、無実で可哀想で資本力がない小規模大家からは
市が物件を買い叩たいて、貧民に超格安で貸し与えようとする意図が4時間超という長い映画中にちりばめられていた内容で判るが
この回収して傷んだ家を市が修繕し、安定したのち、この物件は大手不動産業者に払い下げるようだ。
これは弱者救済というよりも、公金を使った淘汰社会の”露払い”でしかない。
行政が与えるものは 無料なモノや食料ではなく お金でもなく
人間の社会参加の意味でもある 仕事 です。
行政構造を改革をせずに、社会弱者を”生かさず殺さず”の食いつなぎをさせているだけでは、永遠に未来はないだろう。
"大麻ランド”問題もどう解決したか、しないのかを映画中で示さないと
「市には問題が沢山ある!」の1つを陳列しているだけで、
それは解決への問題定義でもなければ、何も生まない。
旧 州議事堂(テロップも何もないので、アメリカ人には解っても、日本人には解らない)を
何度か映す意味は 貧困層の分断 すなわち 旧奴隷制度がまだ解決していない事を言う為である事を示すべきところ
説明絵に”南北戦争”ではなく、見栄えは良いが的外れである”独立戦争”の説明絵をだす。。。
ボストン生まれであるフランス人ワイズマン監督が勝手に取り始めた問題定義映画ではなく
本作は”依頼された職業監督の映画”であることは明らかである。
この映画を観たら、「華氏 119」を観るべきだ。真の傍観者の意味が理解できており、
言われている内容さえも逆捻りしている良い社会派ドキュメント映画である。
失業率約2%(含む黒人、ラテン系)という実績を裏付ける市政は市民自身の参加が鍵となる
とりあえずラストの市長のシーン(市政の実績)を冒頭に持ってきてくれと思いました、この映画。
多分言いたいことは黒人やラテン系など、アメリカの中でも貧困層に組み込まれる人達をいかにうまく市政に取り込み、貧困者数を減らすか。そして実際にやってみた市政の結果はどうだったか。ここに集約されると思います。
正直、この辺を語るために274分も費やす必要があったのかは、よくわかりません。
他にもLGBTQや女性差別、障がい、退役軍人についても取り上げていましたが、市が彼らの意見も聞いているよということは分かりましたが、それで施策に何か反映されたのかと言うといまいちよくわからなかったです。
わかった点があるとすれば、2つ。
1つは市長も市職員も市民のために一丸となって働いていること。ちゃんと上から下まで方向性が一致していること。
もう1つは市民がちゃんと市政に参画していること。ただし、これも全てじゃないらしいと最後の住民vs◯麻販売店から理解できましたが…。
なんか今後、地方の貧乏都市からかなりの人口がボストンに流れてくるんじゃないかと、市政としては良かったんですが、ちょっと不安になってしまいました。
良質なパンフレットが非常に役に立ったのです。先に購入したほうが良いかも知れません。
放映の休憩中にパンフレットを買い、「あそういうことか!」と合点がいった項目が多々ありました。アメリカの地方自治を知らないと、なかなか飲み込みにく点も多くございました。ボストンという市の歴史、これを撮った監督、ボストン市長、それぞれに興味が湧きました。これを「アメリカのボストン市のことだから」と遠目に見たのでなく、「もしも自分の居住地だったら何の問題に相当するだろうか」とか、「自分がその境遇に置かれていたら、あんな風に行政に物言えるだろうか?」とか、考えながら観ていました。かなり後半になって、某アジアンが大麻ショップを出店する意見交換会が最も印象に残りました。多彩で深刻な感情のぶつかり合いにも見えたし、そんな中でも冷静に言葉を選んで歩みよろうとする気概のようなものを感じ取りました。そして、この激しい議論がきっとアメリカなのかもしれないと想像していました。それにしても、この映画のパンフレットは良くできているなと感心した次第です。
洗練されているとはいえ長すぎる・・・
いい悪い、面白い面白くない、そんな次元ではなく、ボストン市庁舎を中心としたボストンという街が非常に良く表現されているといった作品でした。
とはいえ、個人的に、それほど面白い映画だと思えなかったし(楽しいとかそういうのじゃないというのは分かるのですが・・・)、何よりも長すぎます。特に前半の役所の内容を詳細に捉えていた部分は、カメラありきの公的記録でしかなく、地域に根ざしていない一鑑賞者としては、正直どうでもいい事柄だらけで、何度も睡魔に─。もしかしたら、公共機関とかにお勤めの方は興味を持たれたかも─。自分は、ヤバイくらい眠かったです。ワイズマンの作品でなかったら、決して見ることはなかったでしょう。
休憩を挟んでの後半は、地域の問題や対立というのもしっかりと表現されていたようで、かなり見入りました。その問題も対立もなぜか前向きに思ってしまうのは、やはりボストンという街だからなのでしょうか。
完全でないながらもうまい具合に丸め込めながらスマートな行政運営というのを、カンペキな映像で見せられました。
にしても長い!今回の作品は特にそう思った次第。
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