「小津映画のような小品」ミナリ Akikoさんの映画レビュー(感想・評価)
小津映画のような小品
ストーリーは
1980年代、米国南部アーカンソー。
アーカンソーに移住した韓国人夫婦が、がむしゃらに働いて自分たちの農地を買った。学童期の娘と息子がいる。息子は先天的な心臓病で、走ったり運動することができない。夫婦は移民してきた5年間のあいだ、町でヒヨコの雌雄選別の仕事をしてきたが、やっとお金をためて念願の土地を買ったのだった。父親の望みは、自分の農地を持ち、そこで韓国野菜を作り米国在住の韓国人の間で流通させることだ。アーカンソーで韓国人はみな食べ物が自分たちの育ってきた国の食べ物と違うので苦労している。韓国人の要求に見合う作物を作れば事業として成功間違いないだろう。
大きな夢を抱いて購入した農地に家族でやってくる。草ぼうぼうの広い野原と、掘っ立て小屋。雨漏りはするし、水も十分ではない。電機はモーターの自家発電で使える時間が限られる。さっそく、何もかも気に入らない母親と大喧嘩だ。父親は、妻のために国から妻の母親を呼んでやることにする。畑仕事に明け暮れる両親に代わって、子育ては、韓国からやってきた祖母が担うことになる。そして祖母と孫たちとの交流が始まる。
というストーリー。
夫婦してヒヨコの雌雄判別作業を5年間した、ということがどんなショボいものだったか、想像できる。映画に残酷なシーンは出てこないが、卵から孵化したばかりの愛らしいヒヨコは、ずらりと並んだ移民たちの手で判別され、オスはベルトコンベアーに乗せられて、羽毛や手足など生きた姿のまま粉砕機に放り込まれて燃やされる。オスは肉が硬いので食べられないし、卵を産まないからだ。オスは孵化されても殺されるために生まれてきた。なんともやるせない。だからヒヨコの入った箱にいくらと決められたわずかなお金をためて土地を買ったときは、夫婦はどんなに嬉しかったことだろう。
ミナリとはセリのことで、水辺に育つ野草。匂いの強い、韓国料理に多用に使われる野菜で、どこにでも根を張り繁殖する。韓国人家族が米国に根着いて生きていく姿を、象徴している。韓国から祖母が種を持ってきて、繁殖させ、彼女が倒れた後、父親がいとおしそうにこれを摘む。
家族の喜怒哀楽が描かれていて共感できる。でもそれにしても、母親はどうして怒ってばかりいるんだろう。家がボロだとか、畑が荒れ放題なのは当たり前だったと思うけど、当たり散らして子供たちを怯えさせるのは、止めて。いったん怒るとその気性の激しさ、一歩も譲らぬ論理性、感情表現の一刻さに、彼女の子供でなくても怖くなる。
アメリカ南部の農耕地帯の田舎町で教会を通して移民家族がコミュニテイーに入っていく様子が好ましい。牧師が模範的なキリスト者の態度で、片言しか話せない移民でも仲間として受け入れる。アーカンソーの自然の大きさ。自然災害の怖さもよく描かれている。
しかし、アメリカ人にとっての韓国人とは、どんな存在だったのかが、あまり描かれていない。どんな田舎に住んでいても、当時徴兵制のあったアメリカ人にとって、朝鮮戦争とベトナム戦争には関わらざるを得ないものだったはずだ。
その国のイメージは自分の父親や祖父から直接聞いた実話から印象付けられる。アメリカ人にとって朝鮮戦争もベトナム戦争も自分たちにとっては何の利益もなかったにもかかわらず、犠牲ばかりの多い戦争だった。1960年代、韓国軍はアメリカ軍と共に参戦したベトナムで、最大時5万人の兵を送り5千人の戦死者を出している。今もなお、徴兵制のある韓国で、彼らがなぜ米国に移民しなければならなかったのか、日米関係よりも米韓関係のほうが、ずっと複雑で密接な関係があったはずだ。
リー チョン監督は小津安二郎が大好きで影響を受けたと言っていることが、うなずける。家族は大切かも知れない。でも人間は社会的な動物だから、社会状況に関わりなく生きていくことはできない。映画では、小津の映画のように、あまり大きなことは起こらない。平穏と小さな幸せ。この映画は家族の結びつきを強調するあまり、人がどんな心を抱えて、どんな社会で生きたのかが十分描かれていないのが、残念だ。小津にないものねだりをしても仕方がないんだけれども。