「実物に似ている」あの夜、マイアミで 津次郎さんの映画レビュー(感想・評価)
実物に似ている
おりしも公民権運動まっただ中の1963年。マルコムXは状況に危機感を持っている。白人社会で成功した黒人の英雄たちに、啓蒙ではないが、現況の意識の共有をしようとする。
個人的にいちばん興味深かったのはサムクックとの論駁。
マルコムXからサムクックは白人たちに媚び阿付しているように見えており、そのスタンスを面詰する。
サムクックの反論はブリティッシュインヴェイジョンの冥利についてだった。
ブリティッシュインヴェイジョンとはイギリス勢がアメリカのチャートを席巻する現象で、何度かある。
じぶんが経験したのはスミスやニューオーダーやデキシーズミッドナイトランナーズが流行った時代──チョボスキー監督のウォールフラワー(2012)の時代=80年代のインヴェイジョン──である。
サムクックが話したのはビートルズやローリングストーンズが台頭した草創期のインヴェイジョン。
それによるとボビーウーマックのIt's All Over Nowのカバー権利をローリングストーンズに与えたところ、R&Bチャートの下位にしか入らなかったその曲が全米ナンバーワンを獲得してしまった。
その人気格差にいったんは消沈したものの、半年後に莫大な印税が入ってきた。
で、サムクックは黒人が書いた曲を白人がカバーしたときの構造的勝利に気づいた。
白人たちがローリングストーンズのIt's All Over Nowを大喜びで買い求めるとウーマックや権利者のサムクックに金が入ってくる。したがっておれは白人社会におもねてはいない──というのが彼の言い分だった。
ところがマルコムXは発信力のあるサムクックが黒人の立場を歌っていないことに不満をもっており、その場でレコード──ボブディランのBlowin’ in the Windをかけたのだった。
『How many roads must a man walk down
男はどれほどの道筋を歩いていかなければならないのか
Before you call him a man?
人ととして認めてもらうまでに』
マルコムXはそれを聞かせ「ミネソタ州出身の白人が何も得るものはないのに、我々の闘争や人権運動の歌を書いたんだ。闘争に声をあげるとビジネスに影響すると君(サムクック)は言ったが、なぜこれは上位チャートに入ったんだ?」と問う──のだった。
わたしはディランの風に吹かれてにそういう意味があるとはしらなかった。
四者は他にもさまざまなディスカッションをするが、基本的にマルコムXはなんとか現況を打破しようと焦燥しており──焦燥ゆえの綻びはあった。
もうひとつ印象的だったのはジムブラウンがマルコムXに述べた濃淡の見解。
「君の肌色は明るいだろ。もっとも(闘争に)声をあげているのは肌の色が明るい君たちだ。・・・ごまかさないでくれよ。おれたちは同じじゃない。たとえば白人のいないところでは、黒人の女は肌色の薄い者と濃い者に分かれている。」
とうぜんだが黒人といえども、みんなが同じ方向を向いているわけじゃない。黒人の運動をぶちこわしにするのは黒人──を示唆する描写がこの映画にもある。
ダニエルカルーヤが主演したユダ&ブラックメシア裏切りの代償(2021)はまさにそういう話だった。
ブラックライブズマターの創始者だって表向きには被差別を泣訴しながら私服を肥やし、豪邸買いまくっていた。
映画では黒人=いい奴の単純図式がしばしば使われるが、それに感化されてはいけない──という話。
が、根本に奴隷制度の悪しき腫瘍がある。冒頭のエピソードはグリーンブックのように強烈だった。
ジムブラウン(演:Aldis Hodge)が荘園主の屋敷に立ち寄る。主人を演じていたのはボーブリッジス。あの好々爺な見た目。下にも置かぬもてなし。シーズンを勝利したかれの健闘を称え、君はジョージア州の誇りだとまで褒めちぎる。──ところが家具を動かしてと家人にたのまれ、いったん席を立つ。「家具を動かす?それなら私も手伝いますよ。」と助っ人を申し出ると「黒人は家に入れない。」と言って断られる。
そんな種類の屈辱は、忘れられるものじゃない。
根が差別主義ならば、最初から唾棄してくれたほうが、よっぽどまし──という黒人の言い分がすごくよく解る。
ただ極東のわれわれ日本人に黒人問題をうんぬんする資格はない──が私的な基本見解。わかっておらず、体感もしていない者が他人の闘いに意見するのはまちがいだ。
映画はBlowin’ in the Windに対するサムクックの回答A Change Is Gonna Comeで幕を閉じる。
『俺は川のほとりの小さなテントに生まれ、
この河と同じように
それからずっと走り続けてきた
随分長く長くかかったけど
俺はわかっている
変わる時が来ると』