「普遍的な苦しみを描いている」スペンサー ダイアナの決意 SP_Hitoshiさんの映画レビュー(感想・評価)
普遍的な苦しみを描いている
ダイアナ妃がイギリス王室ですごす三日間のクリスマスを描いている。
イギリス王室というとスキャンダルだらけ、という程度の興味しかもっていなかったが、この映画を観てかなり見方が変わったように思う。
冒頭で「この映画は事実に基づいた寓話である」みたいなキャプションが出てくるが、まさにそんな内容だな、と思う。エピソードの1つ1つはおそらく実際にあった事件が基になっているのだろうけど、事実を描こうとしているわけではなく、かなりだいたんにダイアナ妃の心境をふくらませて物語にしていると思った。
ダイアナ妃は生前も多くの問題行動が話題になっていたけど、王室側の視点から見る場合と、ダイアナから見る視点で全く印象が変わってしまう。
王室側からすると、「なんで普通にできないんだ」「頼むからお前のわがままで問題を起こさないでくれ」「自分の立場を自覚しろよ」ということだけど、この映画では、なぜそのような一見まともな要求に答えることが難しいのか、ということがダイアナ視点で示される。
ダイアナは多くの問題行動を起こしたが、単にわがままで破天荒だった、というわけではないかもしれない。むしろ、王室の伝統や世間体と、自分の信念や正義にうまく折り合いをつけて妥協して生きるというような不誠実な態度をとることがどうしてもできないような、不器用な生真面目さをもっていて、そのために精神を病むほどに悩んでしまったのではないか。
王太子妃になってからは、それまでの自分の過去(生まれ育ったスペンサー家)、個性、思想といったあらゆるアイデンティティを不要なものとされ、ただ王太子妃という立場としてのふるまいを求められる日々。「自分らしく生きる」「正しいと思ったことを正しいと主張する」「役割としてではなく、一個の人格として認められる」ことを剥奪されることがどんなに苦痛であるか、身につまされる。
チャールズ王太子の発言がもっとも一般的な解決法だろう。「二人の人間が必要だ」という。「やらなければいけないことはやらなければならない」のだから、それをおとなしく受け入れて役割は全うし、本当にやりたいことは目につかないように隠れてやれば良いだろう、と。
余興や伝統のためだけに、殺すための鳥を飼育して、最終的に撃ち殺す、ということにダイアナは耐えられなかったが、実はチャールズも「狩りは嫌いだ(しかしやらなければならないからやっている)」、と告白している。
ダイアナのような特殊な立場でないとしても、誰しも「自分が社会的に求められている役割り」と「本当の自分(本音)」のジレンマには苦しんでいるのではないだろうか。男らしい、女らしい、父親らしい、母親らしい、社会人らしい、大人らしい、子供らしい、お兄さんらしい、お姉さんらしい、公務員らしい、警察官らしい、先生らしい、生徒らしい、そういった「役割」としての人格・思想・行動を身につけることが正義であるという抑圧は大変なものだ。
しかもそうした抑圧を加えている側は、それを絶対的な正義と信じていることが少なくない。心の底には、「自分もその抑圧と義務に耐えているのだから、あなたも耐えるべきだ」という考えもあると思う。多くの人は、「役割」と「本音」をうまく使い分けて器用に生きているが、そうできなかったり、できても自分自身をだまして生き続けることに耐えられない人もいるのではないか。
ただ、この映画はダイアナの苦しみだけを描いているだけではなく、救いも描いている。それは、マギーからの「あなたは皆から愛されている」というメッセージ。これは単に国民から愛されている、という意味ではないと思う。
ダイアナにとって王室にいることは耐えがたいことだったかもしれないが、むしろ王室の人間たちはダイアナを愛していた、ということ。これは重要なことだと思う。ダイアナにとってだけではなく、「役割」と「本音」のジレンマに悩んでいるすべての人にとっても。抑圧を加えている人々ですら、苦しめようと思って苦しめているわけではない、ということに気づくこと。
おはようございます😃
フォロー、共感コメントしていただきましてありがとうございました😊
🎶自分の信念や正義にうまく折り合いをつけて妥協して生きるというような不誠実な態度をとることがどうしてもできないような、不器用な生真面目さをもっていて、そのために精神を病むほどに悩んでしまったのではないか。🎶
鋭い!
ありがとうございます
また今後ともよろしくお願いします🤲