スペンサー ダイアナの決意のレビュー・感想・評価
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クローズアップで体感するダイアナの生々しい苦悩
周知の事実については今更説明はしないということなのか、本作では背景の注釈は一切なしに、1991年のクリスマスイブからの3日間のみを、ダイアナの精神面にかなりクローズアップする形で描いている。そうすることで、シンデレラ物語と悲劇を背負った手の届かない世界のプリンセスではなく、感情の浮き沈みや弱さを持ったひとりの人間としての、彼女の生身の姿が見えてくる。
本作で描かれた3日間の前後で、現実には以下のような状況があった。
84年に次男ヘンリーが誕生した時点で、ダイアナいわく二人の関係は終わっていたとのこと。85年頃からチャールズはケンジントン宮殿に不在がちになり、87年にはそれが常態化していた。この頃チャールズはカミラ夫人との交際を再開している。ダイアナは息子の養育と慈善事業に力を入れるようになっていた一方、89年頃からジェームズ・ヒューイットと不倫関係になっている。翌92年にはチャールズに批判的な暴露本「ダイアナ妃の真実」が公表され、同年末には二人の正式な別居が発表された。その後96年に離婚が決定している。
彼女がひとりで車を運転し、道に迷う冒頭の場面が印象的だ。従者がいないのはちょっと不自然な気もするが、この時期は既にチャールズはケンジントン宮殿に帰ることはなくなり、ダイアナが事実上宮殿の主人のようになっていたので、ああいう外出もあり得たのかもしれない。この時期の彼女の心理状態を、言葉を費やさず象徴的に表している。
ここで提示された彼女の不安と苛立ちが次第に増してゆく描写が、物語の大半を占めている。抑制された表現にはなっているが、自傷行為や過食症の場面もある。そして彼女はスペンサー家の遠戚であるアン・ブーリンの幻を繰り返し見る。
アン・ブーリンは略奪婚でヘンリー8世の王妃になったが、男児を産めず王の寵愛が離れ、婚姻後3年で姦通の罪を着せられ斬首された人物だ。チャールズ側に根深い不貞行為という非があるのに、王室の中では自分だけが疎外感を味わわされる理不尽さや息苦しさを無意識にアン・ブーリンに重ねたのだろうか。
ラストの展開だけは、ダイアナの魂を救おうとするかのような解放感がある。あの後の史実を知らなければまるで母子が狭くて息苦しい世界から解放されるハッピーエンドの物語のようだ。直前に「プリンセス・ダイアナ」を見たが、このドキュメンタリーに出てくるパパラッチの方が比較にならないほどえげつないので、誰にも追われず海岸やケンタッキーに行くようなことはおそらく実際には難しく、まさに寓話なのかもしれない。
現実には二人の息子が王室から解放されることは当然ないし(弟が結婚を機にアメリカへ渡ったことはまた別の話)、ダイアナの末路は決して明るいものとは言えない。それを思うとラストシーンの明るさと解放感が何だか儚く、物悲しい余韻を伴って見えた。
余談:「君を想い、バスに乗る」以来ティモシー・スポールが好きで注目していたが、大河ドラマを見ている影響か梶原善に見えて仕方なかった。
ジャッキーとダイアナ。重圧に抗う女性の系譜
英王室のチャールズ皇太子(現国王)と結婚し世界中から注目と憧れの的になるが、その後1996年に離婚、翌年に事故死した悲劇のヒロインとして今なお多くの人の記憶に残るダイアナ。その人生の重要な数日間を映画化する企画と聞けば、英国人の監督も女優も食指が動かないわけがなかっただろうと単純に思うが、意外にも監督にはチリ出身のパブロ・ラライン、ダイアナ役には米国人のクリステン・スチュワートが起用された。王室と王族のような絶大な存在を、少し離れたスタンスで客観的に描いたり、大胆な創作を加えて語ったりするのは、むしろ外国人のほうがやりやすいのかもしれない。 ダイアナの人生を端的に表現できる期間として製作陣が選んだのは、チャールズとの結婚から10年後、1991年のクリスマス休暇の3日間。映画の冒頭、ダイアナは道に迷った人として登場する。ロイヤルファミリーが集うエリザベス女王の私邸を目指し、ひとり車を運転していて迷ったという状況なのだが、もちろんこれは彼女自身の人生における迷いと焦燥を象徴していて、その後の会食などの場面でチャールズとの関係が冷え切っていることや、王室の堅苦しいしきたり、警護役やパパラッチから四六時中見張られている状況に、悩み苦しみ追い詰められていく姿が明らかになる。 振り返れば、ラライン監督の「ジャッキー ファーストレディ 最後の使命」も、1963年のケネディ大統領の暗殺から葬儀までのジャクリーン・ケネディ夫人の日々にフォーカスした映画だった。生涯をダイジェストのようにたどる伝記映画ではなく、その人の生きざまを凝縮したような数日間をシンボリックに描くのが得意なのだろう。ジャッキーとダイアナは、政治権力や王室の伝統といった圧倒的な存在によるプレッシャーに苦しみながらも、女性として、また母親として、自らのアイデンティティを貫こうと抗ったという点で共通している。クリステン・スチュワートの熱演も相まって、世の圧力に生きづらさを感じている多くの観客に勇気を与えるはずだ。
名優たちが演じる”名もなき人々”が味わい深い
この映画に大きな展開を期待してはいけない。ストーリー性でグイグイ引き込むというよりはむしろ観客が能動的に足を踏み入れていくタイプの作品と言おうか。それゆえ、ダイアナに興味を持ち、彼女が王族を離脱する決意を固めるまでの心理過程をじっくり見つめたい人にとっては、望みどおりの親密なる映像体験となるはずだ。本作のダイアナは聖人でもなければ悲劇のヒロインでもない。時に少女のような自由奔放さと成人女性としての毅然とした表情を併せ持ち、孤独と不安に押し潰されそうになりながら、暗闇の先の光に手を伸ばそうとする。この等身大の人間像をかつてない存在感で体現するクリステン・スチュワートが見事だ。また本作が興味深いのは、王族たちではなく、彼らのためにお仕えする”プロフェッショナルな人々”を物語の前景に立たせているところ。このアウトサイダー側の目線と言葉がダイアナの存在感と絡まり、深い香りと味わいをもたらしている。
1人の人間らしく生きた女性の物語と捉えたい
今は亡きエリザベス女王やダイアナ妃の実像に迫るとしたら、ドキュメンタリー映画という手段が相応しいかもしれない。英国王室にまつわる記録映像は山ほど残っているし、作者はアーカイブ映像を元手に個々の編集と視点を駆使して実在の人物を画面上に再構築できるからだ。 その点、作り物と見られがちなフィクションはやや分が悪いのだが、本作は、ダイアナとチャールズ元皇太子の関係が冷え切っていた1991年のクリスマスイブ前後の3日間にフォーカスすることで、散漫になりがちな人物像を深く切り取っている。そこで、クリステン・スチュワートの登場である。ダイアナのインタビューやNetflixの人気ドラマ『ザ・クラウン』をチェックすることは勿論、イギリス英語のイントネーションからダイアナ独特の話し方、首の傾け方、歩き方を習得してから撮影に臨んだというクリステン。だが、絶望感と不信感でいっぱいの元妃の目に映る、ロイヤルファミリーの冷徹さ、排他性が、演じる俳優の演技を介して観客にまで伝わって来るのは、真似事ではない、生まれながらの資質だと思う。 終始重苦しい映画には、意外に救われるラストシーンが用意されている。でも、その先には非業の死が・・・・・。とは考えず、人間らしく生きた女性のある物語として捉えると、これもありか、と納得できるのではないだろうか。
アカデミー賞ノミネートも納得の一方、ダイアナ妃のことをどのくらい把握しているかどうかで評価は大きく分かれそうな作品。
本作は、良くも悪くも「上質で本格的な映画」だと思います。 それは、予備知識となる前提の説明がなく、ダイアナ妃を中心としたイギリス王室のリアルなクリスマス前後の伝統的な3日間を行事を描いているからです。 日本では「プリンセス・ダイアナ」が本作の前に公開されていたこともあり、ダイアナ妃の半生を把握することができていたため、私は、この「断片的な3日間の映画」に入り込むことができました。 そこで、前提となる状況説明を簡単に紹介します。 舞台は、1991年のクリスマス前後のエリザベス女王の私邸サンドリンガム・ハウス。そこに伝統として王族たちが集まるしきたりがあります。 ただ、この時は、ダイアナ妃とチャールズ皇太子の関係は、チャールズには、そもそもダイアナに愛があったわけではないことなどが発覚していて、ダイアナの精神状態が壊れかけてるような状況でした。 本作では、まさに、「ダイアナがチャールズとの離婚を決意したクリスマス休暇の3日間」を描いているわけです。 クリステン・スチュワートがダイアナを演じていますが、ダイアナが女優以上に華やかさのある存在なので非常に難易度の高い役柄だったと思います。しかし、見た目も含めダイアナになりきっていて、苦悩に満ちたダイアナを見事に演じ切り、アカデミー賞の主演女優賞にノミネートされたのも納得でした。 音楽の使い方が上手い上質な作品で、ダイアナの胸中と共に「イギリス王室の伝統」の内実などを知ることができたりして、いろいろと考えさせられます。 クリステン・スチュワートの演技が光っていたことに加え、ダイアナが心を許すマギー役のサリー・ホーキンスはやはり上手いです。
アンブーリンは彼女の背中を押した。そしてダイアナは雉となった。
本作はダイアナ・フィーバーに沸く1991年のクリスマスが舞台。
皆に愛されたダイアナ元王妃が一大決心をする3日間を描いた寓話だ。
ダイアナの生家に近いエリザベス女王の私邸サンドリガム・ハウス。
今年もそこでロイヤルファミリーはクリスマスを過ごす。
古くからの高貴な伝統と世間のからの好奇な監視から王権を守るため。
そんな中、「瀕死」の状態のプリセンスがいた。
名前は「ダイアナ・スペンサー」
誰もが知るダイアナ元王妃である。
彼女は溺れかけていた。サンドリガム・ハウスから近いはずの実家も
遠くに感じるほど、苦しみの境地にいた。
王室の古く息苦しいしきたりと夫の不倫に特に苦しんでいた。
3日間とは思えないほどの息苦しくも転機となる時を過ごす
ダイアナはアンブーリンの亡霊の後押しもあり、最後は雉となって息子たちと飛び立った。
雉は綺麗だが頭が悪く、車にも跳ねられやすいそうだ。
ダイアナ元王妃の生き様は正に雉そのものだったのだ。
2023 155本目
実際にダイアナ妃本人を見事に演じているかはわからないが、王室の窮屈さや、子供達に普通の暮らしを挿せてあげたい母親の心情など、クリステンが演じていると思います。 やはり演技力は同世代の中でも抜けているなと。 どんな役も見事に演じますね
真実に基づいた寓話
決意するまでのダイアナさんのストーリーでした。 ちょっと物足りない気もしました。 その行手を誰も遮る事ができない大英帝国の王位継承第一位である大人物であるが故か、年の離れた馴染みにくい新妻を温かく辛抱強くフォローできなかったのかと。 ダイアナさんが若すぎた故、肩入れしてしまいますが、ダイアナさんの奇行の原因を改善する方向には周りの誰も動こうとしなかったのが悲劇ですね。 演じた俳優の方が斜め上に顔を上げた時そっくりでした。クリスティンスチュワートさんのwikiとかの写真と見比べるとダイアナに似せようとだいぶ努力されたのがわかります。 息子二人を大事にしていただけに現在が辛いですね。
私は悲劇のプリンセスじゃない
ダイアナを映画で描く事は鬼門だ。
2013年のナオミ・ワッツ主演の『ダイアナ』は大失敗。Netflixの『ダイアナ・ザ・ミュージカル』も大不評。
これらは描き方に問題あったと思う。例えば『ダイアナ』は、大衆やマスコミが見たそうなゴシップ的なチープなメロドラマ。本当にそんなダイアナを見たいのか…?
若くして“世紀のプリンセス”となり、世界中の人々に愛された一方、王室や当時の夫チャールズ皇太子との関係に苦悩。が、母として息子たちを愛し、一人の女性として自立。そんな慈愛に満ちた人間像や悩み多き内面の“等身大”のダイアナを何故描かない…?
その点、本作は秀逸だった。定番的な半生や安っぽいメロドラマとして描かず。
ある数日間の出来事。ダイアナが離婚や王室を離れる決意をしたという3日間。
1991年、ロイヤル・ファミリーが集ったクリスマス休暇…。
この時すでにチャールズ皇太子との関係は冷えきり、色々な噂に晒され、大衆やパパラッチに追われる日々…。
ファーストシーンからダイアナはすでに精神的に追い込まれている。
第一声に驚いた。まさかの“Fワード”。あのダイアナがFワードを発するなんて…。
でもこれは偏った見方なのかもしれない。ダイアナだって一人の人間だ。思わず声を上げたくなるし、そういう言葉だって出る。聖人君子ではないのだ。
我々と同じような目線や姿。リアルなダイアナ。
『ジャッキー ファーストレディ 最後の使命』でもケネディ夫人の内面や苦悩を描いてみせたパブロ・ラライン。本作でもその手腕を発揮。
イギリス王室御用達の私邸でクリスマス休暇。さぞかし贅沢な一時であろう。
が、ダイアナにとっては“監獄”でもあった。
古い伝統やしきたりにがんじがらめ。必ず来た時と帰る時に体重を量り、楽しんだ証として1㎏太らなければならない。何じゃそりゃ!?
3日間食事の時に着る服も決められている。
部屋はカーテンが掛けられたまま。周囲の好奇の目やパパラッチ対策。
新任の責任者の少佐。有能で、トラブルからロイヤル・ファミリーを守るのが職務。が、ダイアナにとっては常に光らせている目は終始監視されているかのよう。
そう。ここにはダイアナの自由や居場所は無いのだ。
パパラッチではないのだが、ずっと誰かの視線を感じる。抑え付けられ、息が詰まりそう。
気の休まる瞬間も全くナシ。ここに居たら、どんどん自分が壊れていきそう。
“たった3日間”なのか、“3日間も”なのか…。
象徴的なアクセサリーやシークエンス。
夫から付けるよう言われた真珠のネックレス。実はそれ、夫が愛人に送ったのと同じもの。
何かの嫌がらせか、ただ気付いていないだけなのか。ダイアナにとっては辱しめられ屈辱的。
ある会食の席で付けるが、それが気になって仕方ない。ネックレスに手を掛け、引きちぎろうと…。
ダイアナが何度も見る女性の幻影。アン・ブーリン。15世紀のイングランド王ヘンリー8世の妻で、エリザベス1世の母。ダイアナにとっては遠縁。
後にアンは、ヘンリーが別の女性を妻に迎える為、処刑されたという…。
そんなアンに自分を重ねるダイアナ。
幻影の中で、アンから忠告を受ける。「逃げて!」。
処刑なんて事はない。が、夫と愛人の間に挟まれ、自分と同じ苦しみにならぬよう…。
近くにあるダイアナの生家。生まれ育った所なのに、開幕、道に迷う。それくらいダイアナの精神は疲弊していた。
ある夜、生家に忍び入り…。そこで思い出す過去。自由に満ち溢れていた。
終盤のこのシーン。ネックレスとアン・ブーリンと生家が交わり、ダイアナは決意する…。
印象的、象徴的なシーン。
不安定な精神状態を表すような幻影も交える。
ジョニー・グリーンウッドの音楽が不穏なムードを醸し出す。
部分部分的にサスペンスやホラーのような印象も受けた。
作品は決して万人受けするものではない。重く、暗く、気が滅入りそう。
邸の中は暖房を入れず、寒い。クリスマス時期だからもあるが、邸の中も外も終始寒々とした雰囲気。それは気温だけに留まらない。集った人間関係がそれを発している。
その反面、衣装や美術やヘアメイクや映像の美しさ。何処か寓話的だ。
開幕の一節。“史実に基づく寓話”。確かに史実に基づいているが、何処までが本当にあったか、その時ダイアナが何を思っていたか、創作でもある。
だが妙にリアルさを感じ、こうであったろうと納得すらさせてしまう。
監督の巧みな手腕に脱帽。
大昔の人ではない。
今尚人々の記憶に残り、愛され続けている。
美しさと芯に秘めたもの、複雑な内面と脆さ…。
ダイアナを演じる事はプレッシャー以外の何物でもない。ナオミ・ワッツでさえ酷評された。
誰が演じられるか…?
まさかあの“ヴァンパイアの恋人”とは…!
クリステン・スチュワートの名演が素晴らしい。もう一度言いたい。クリステン・スチュワートが素晴らしい。
話し方、仕草など徹底的にリサーチ。私は日本人なので違いはよく分からないが、クリステン自身はアメリカ人だが、イギリス英語を完璧にマスターしたという。
光り輝くような美しさ。
ヘアメイクなどで似せているが、ダイアナに見えたり、クリステンに見えたり。超そっくり似せ過ぎず、絶妙。だんだん自然にそう見える。
何より複雑な内面を体現。これが本当に素晴らしい。
アップも多く、苦悩や今にも壊れそうな内面を見事に表し、驚くほど引き込まれる。
クリステンの女優人生も山あり谷ありだ。子役としてスタートし、ヴァンパイアの恋人でティーンの憧れに。一時期ゴシップや低迷。インディーズ作品で実力を示し、そんな時に本作。
オスカーノミネートは当然。と言うか、受賞して妥当だろう。私なら彼女に一票投じる。これでオスカー獲れないとは…。
残念で仕方ないが、間違いなく現クリステンの決定打。
少佐役のティモシー・スポール。立ち位置から憎まれ役だが、ただのそれではない好助演。
衣装係のサリー・ホーキンスも好助演。ダイアナとは特別な関係が…。
彼女から愛の告白を受ける。
世界中に愛されるプリンセスだが、こんなに愛を身近に感じた事はない。夫からの愛ももう…。
私はもう愛されていない。いや、そうじゃない。
一人が愛してくれる。大勢が、世界中が、愛してくれる。
ダイアナはその愛を誰に向けられるか。
世界中の人々は勿論だが、何より愛しているのは、息子たち。
この息が詰まる場でも、息子たちと過ごす時だけこそ本当の自分でいられる。
息子たちとゲームに興じる時の表情。“プリンセス・ダイアナ”ではなく、優しさと愛に溢れた一人の母親だ。
王室で自身で育児をするのは異例だったという。それでもしたかった。
未来の王妃として、この王室に、自分が生きたい世界はない。それがあるのは、息子たちの為と、王室の外…。
クライマックス。恒例のキジ撃ち。その最中に現れ、息子たちを車に乗せ、王室の外へ飛び出す。
何物にも縛られない。愛する存在と共に。
ノリノリの楽曲を歌って、ファストフードを注文して、“スペンサー”と名乗る。
自由と解放と。
この直後離婚し、その数年後にあの悲劇に見舞われるが、晴れ晴れとしたダイアナの表情に救われる。
王室の訳あり人間模様。
個々の姿、本音。
スキャンダラスでもあるが、それをこうやって映画として描けるイギリス映画界と王室に頭が下がる。
日本では…。
そんなタブーに挑む日本映画界や開けた皇室は、いつかやって来るのだろうか…?
ヘンリーおまえってやつあ
ダイアナ妃をクリステンスチュワートが演じているという映画の告知を見たとき、すこし驚いた。 (それはけっしてconsポイントではないが)スチュワートはおしとやかな感じでもなく、イギリス人でもない。 なんで英国王妃役を彼女に充てたんだろう──と率直に思った。 が、彼女の演じたダイアナ妃は批評家から絶賛された。 のみならず、じっさいのダイアナ妃を知るボディガードやロイヤルシェフから“過去にダイアナ妃を演じた俳優のなかでもっともダイアナ妃に近い”と称讃されたそうだ。 個人的には違和感のあるダイアナ妃だった。むろんじぶんは何も知らない素人だがスチュワートのダイアナ妃はなんか不自然だった。ただし、その不自然さがよかった。 ── 80年代、ダイアナ妃は海をこえて日本でも連日報道された。小か中だったわたしも覚えている。立体感のある髪型がダイアナカットと言われてはやった。極東でもダイアナ妃はアイコンだった。 が、人気だったのは成婚から数年間で、不仲になってパパラッチに追われるダイアナ妃はあまり日本ではニュースにならなかった。(と記憶している。) 映画Spencerは1991年のクリスマスを描いている。Spencerとはダイアナの生家姓だ。 チャールズとの仲はすでに冷めており、ダイアナは離婚および王室からの離脱を考えていた。 郊外の邸宅でご馳走に明け暮れるのがクリスマスの王室恒例行事になっていて、邸に来たとき体重を量って去るときまた量る、体重が増えているとしっかりクリスマスを楽しんだことが証明される──という伝統なのだそうだ。 翌26日は雉撃ちのための専用雉がいる野原でチャールズとウィリアム&ハリー王子らは雉撃ちに興じることになっている。 ダイアナはそんな慣例と規則だらけの息苦しい王室ライフに辟易している。パパラッチを避けるため籠もっていなければならず、愚痴や侍女への発言、一挙手一投足がチャールズやエリザベスに報告される。豪奢な生活だが内実は牢にいるようなものだ。そんな窮屈な生活のなか、彼女の生き甲斐かつ味方はふたりの息子ウィリアムとハリーである。 ──というコンポジションが描写されていく。多少アレンジはあるが実話をベースにしているそうだ。 前述の通りスチュワートが高貴なイギリス英語を話すのが似合っていなくて面白かった。 ちなみにわたしは英語をまったく解っていない。それでもスチュワートがダイアナ妃を模している気配は可笑しかった。 だから海外評でも、さぞかしスチュワートへの違和感が表白されているのだろう──と思った。 が、ほぼ無かった。 参照したのはRottenTomatoesだが、批評家の総意を端的にまとめると、描写はやり過ぎなところもあるが、スチュワートの演技力に支えられた──というもの。誰もが彼女の演技を称讃し、実際主要賞レースでノミネートされ幾つかは獲っている。 わたしもスチュワートの演技に文句はない。ただし彼女がダイアナ妃なのが妙だった。語頭が強くなる口調と前髪から覗くように上目遣いするダイアナ特有の仕草も真似ていて、それが上手ではあるのだがパーソナルショッパーやキャンプXレイやトワイライトのスチュワートが演じていると思って見るとやたら可笑しいのだった。いい意味の違和感だった。 imdb6.6、RottenTomatoesは83%と52%で批評家とは真逆にRottenTomatoesの一般評にはスチュワートの演技をさげる評もけっこうあった。 少なくない一般評が(彼女のセリフが)ささやきだと不平を述べていて、こちらは非英語圏だから字幕があるので助かったが、確かに語頭だけ聞こえるようなしゃべり方だったと思う。 また(一般評には)抽象表現への戸惑いもあった。Pablo LarraínはときとしてBrady Corbetのような軋み表現をするので、そのアート値が賛否を分けたと思われた。 抑圧されたダイアナはしばしば躁的な行動をとり、それを王室は歓迎せず擁護もしなかった。 あらためて年譜を見るとダイアナ妃の事故死は1997/08/31。映画はそれより6年ほど前の出来事だが、縁あってプリンセスオブウェールズになってしまった彼女のはかりしれない苦労がしのばれた。 『1983年彼女はニューファンドランド州首相のブライアン・ペックフォードに「ウェールズ王女としてのプレッシャーに対処するのは非常に難しいと感じているが、それに対処する方法を学んでいる」と打ち明けた。』(Wikipediaダイアナ妃、ウェールズ王女より) ダイアナ妃のときも離れてからもホームレス/麻薬中毒者/高齢者/若年の貧困/エイズ/ハンセン病/癌・・・あらゆる弱者や疾病にたいする基金/募金を主導する慈善事業家で、どんな人にも分けへだてなく接して、誰からも愛された。 『彼女はエイズ患者との身体的接触を嫌がらず、そうする最初の英国王室人物となった。1987年、彼女はエイズ患者の偏見を払拭するための初期の取り組みの一つとして、エイズ患者と手を繋いだ。』(Wikipediaダイアナ妃、ウェールズ王女より) 博愛な人だったのにパパラッチに追いかけられて亡くなった。英国民の怒り悲しみはいかばかりだったことだろう。
悲劇のプリンセスの実像に迫った映画
実際の悲劇に基づく寓話との、但し書きがありますが、 かなり実像に近く感じました。 亡きダイアナ元王妃の離婚の間近の3日間。 1991年のクリスマスに焦点を当てた映画ですが、 クリステン・スチュワートの 迫真の名演技により非常に優れた作品だと思いました。 連なる軍用トラックの車列。鉄材の幾つものケース。 物々しく運ばれるそれらはクリスマスの休日を過ごす王族たちの 食糧でした。 この重装備や重圧を窺わせるシーン。 ダイアナは常に感じていたのでしょう。 ダイアナが主に会話を交わすのは、お世話係のメイド。 ダイアナに好意的なシェフ。 お目付け係のグレゴリー少佐(ティモシー・スポール)。 ダイアナが友達のように慕うメイドのマギー(サリー・ホーキンス)。 離婚間近のダイアナは精神が非常に不安定で、不貞などの罪で 夫のヘンリー8世に処刑されたアン・ブーリンと自分を 重ね合わせてしまいます。 不安神経症、適応障害、過食と拒食の摂食障害。 その内面は美しい外面とは想像が付かないほど荒廃しています。 食事時間に必ず遅れる。 (30分も待たされたら誰だって怒り心頭・・・) (お騒がせのプリンセスは孤立無援です) 子供たち(ウィリアムとヘンリー)にまで、 「マミーがまた怒られるよ」と 本来なら守るべき役目の母親が、8歳のウィリアムに心配される。 不甲斐ないマミー。 カメラはダイアナの幻覚や心の中を描写していきます。 愛人カミラさんと同じパールのネックレスを貰ったトラウマから、 ディナーのグリーンスープに引きちぎったパールが飛び散り、 それを飲み込むダイアナ。 便器に顔を突っ込み嘔吐して鼻水を垂らし口を拭う。 クリステン・スチュワートはそのシーンを美しく演じるのです。 嘔吐シーンまで美しく映るクリステン・スチュワート。 (ゲボの音声は赤裸々でしたが・・・) 次のシーンではネックレスは見事に復元している。 音楽が秀逸で場面場面のダイアナの内面を活写して見事ですし、 ダイアナがクルクルと衣装を変えるシーンも、 大袈裟に盛り上げることない音楽が寄り添うのです。 幼い日々を過ごした実家のスペンサー邸。 特別な思い入れのある場所。 レースの凝りに凝った豪華なイブニング・ドレスに、 父親の赤いコートを羽織り真夜中に訪れるダイアナ。 階段の朽ち果てた屋敷。 (ダイアナの内面もまた朽ちていたのかもしれない) イギリス国民に、全世界の人々に愛されたダイアナ・スペンサー。 マスコミの犠牲者のようなその生涯。 輝きを失うことなく人々の心に今も生きる。 かなりダイアナの実像に迫った映画だと実感しました。
伝統は大切。やはり守らなきゃあ
クリステンスチュワートの真に迫る熱演だけでもハラハラするのに 被さるバロック調の音楽でサスペンス度は十二分に。 ただこの映画がダイアナ妃の心境のどのタイミングでの描写か 全くわからないので映像だけのドキドキで終わっている。 幸せの絶頂とかこのあとすぐ離婚となったのかの時系列が 見えなかったのは残念。 もちろん含めて2時間に収めるなんて無理でしょうが。 80点 2 イオンシネマ桂川 20221018
映画「スペンサーダイアナの決意」は映画「ガス燈」へのオマージュだ。
映画「スペンサー」を見た時私は直ぐにある映画を思い出した。1944年に制作されたアメリカの「ガス燈」という映画だ。イングリッド・バーグマンが主演して、アカデミー賞主演女優賞を取った。サスペンス・スリラーの傑作で、フィルムノワールとしても格調の高い映画だ。この「ガス燈」と「スペンサー」には同じようなシチュエーションが使われていると思った。 正式な心理学用語に「ガスライティング」という言葉がある。この「ガス燈」という映画が元になって作られた言葉だ。どのようなことを指すかというと、心理的虐待の一種で、故意に誤った情報を提示し、被害者が自身の記憶、知覚、正気、もしくは自身の認識を疑わせるように仕向ける手法の事だ。 例を挙げれば、嫌がらせの事実を加害者が何もなかったかのように不定して見せたり、被害者を混乱させるために、モノや行動で脅して見せたりすることだ。映画「スペンサー」の中では明らかにこの手法が使われている。例えば、真珠の首飾り、体重計、アン・ブーリンの本、そして極めつけは、チャールズ皇太子による、彼女の疑念への全面不定だ。これらの事物が、ダイアナの混乱を増大させ、取り返しのつかないところへと追い込んでいく。 2本の映画は、時代も内容も全く違う映画なのだが、主人公の味わう混乱と恐れ、自己不信は全く同じと思えるほどに良く似ている。ただ理解しなければいけないのは、このことでわかるように映画「スペンサー」はあくまでも、ドキュメントではなく創作であり、初めにクレジットされていたように、悲劇を伴う寓話、おとぎ話として理解すべきだと思う。そうでないと映画の中に潜まされた様々な比喩やメタファーを、あたかも真実であるように誤解してしまうのだ。あえて言うならば、真実と虚構の境目を不明瞭にすることによって、逆に真実を浮かび上がらせようとしているのかも知れない。とにかくそれなりの見識を持ってみるべき映画なのだ。
ダイアナの魅力とは
クリステン・スチュワートも、美しく充分魅力的ではあるのですが…。 ちょっと背が低いこともあり、 改めて、ダイアナ妃のオーラの強さを思い知りました。 王室を出る三日間の出来事だから、神経衰弱した姿は痛々しかった。 遠い異国のことで、テレビからの情報でしか知らないし、 今となっては、何が真実か判らないけど、 ダイアナ妃って、本当に人を惹きつける魅力的な人だったのだなぁ…。 だから、パパラッチもあんなに過剰に追いかけてしまう、魔力のような魅力。 でも、私が見ていたのは、無理して笑っているダイアナ妃だったのかなぁ…。
●主演女優がダイアナ元妃に容姿も雰囲気もよく似せている。これが最大...
●主演女優がダイアナ元妃に容姿も雰囲気もよく似せている。これが最大の見どころだと思う。 ●知らなかった英王室のしきたりも興味深く楽しんだ。 ●主役の感情に沿ったバロック調のBGMも○。 ●パンフレットがおしゃれでかわいい。 ▲淡々と悲劇が描かれる。ところどころで主役の心理があまりに痛々しすぎて観ていられなくなる。 ▲英国好きなら楽しめる。そうでなければ暗く陰鬱な作品という感想にとどまるだろう。隣の若い女性は早い段階から飽きてそうだった。 ※制作費…1800万ドル
ダイアナが英国内はもとより、世界中で人気を集めたことが、ダイアナにとっても王室にとっても不幸だったのかもしれない。
たった3日間の話だとは、観るまで知らなかった。 冒頭で「寓話」だとテロップで示される。 “A FABLE FROM A TRUE TRAGEDY”…真実の悲劇に基づいた寓話…だと。 ダイアナ妃とチャールズ皇太子の関係は既に冷えきっていて、ダイアナの精神状態は限界に差し掛かっていた。 クリステン・スチュワートは、時に目や鼻を赤くして、壊れそうな、あるいは既に壊れたダイアナを迫真の演技で表現していた。 観ていて心臓が痛むほどに、ギリギリの状態が伝わってくる。 ただ、チャールズ皇太子(ジャック・ファーシング)、女王(ステラ・ゴネット)、グレゴリー少佐(ティモシー・スポール)は、冷徹に見えるような演出がなされてはいるが、大人になれ、王族らしく振る舞えと、ダイアナを諭すそれは決して横暴なレベルには見えない。むしろ、ダイアナの行動が奇行に見える。だが、適応できない人にとっては、当たり前の要求も拷問と同じなのだから難しい。 実際、ダイアナは最初から王室には馴染めず、むしろ馴染もうとしなかったと言われるほどで、チャールズ皇太子はそれに辟易としていたようだ。 ビリヤード台を挟んでチャールズとダイアナが対峙する場面で、チャールズ側のその様子も汲み取れる。 決してダイアナ擁護に徹した映画ではないと、感じた。 たが、王室という我々には知ることができない閉じた世界が、ある程度奔放に育ったらしいダイアナにとってどれ程棲みにくい場所だったのかは想像もできない。 クリスマスを祝うためにサンドリンガムに集まった王族の人達が無機質に冷ややかで、ダイアナから見たその世界の違和感を示している。 映画の序盤、軍の車列が進む田舎道でローアングルのカメラが鳥の死骸を手前に見せる。 それが、王族の嗜みであるキジ射ちのために飼育されているキジだと後に分かるのだが、それが何の隠喩かを考えることがこの映画が示す悲劇を探ることになる。 馴染みの衣装係(サリー・ホーキンズ)と引き離された後にダイアナが目にする幻影、誰かが意図的に置いたアン王妃の伝記本に支配されていくダイアナが、朽ちた生家パークハウスで襲われる妄想、破綻していくダイアナの心証風景が幻想的に描かれる。 二人の王子と密かにゲームに興じたとき、戻ってきた衣装係と海岸で戯れたとき、ダイアナは健康で可愛い女性に戻っていた。 今や立派な大人となって紆余曲折を経験した二人の王子たちは、この映画を観たら何をどう感じるのだろか、はたまた観るのだろうか、と気になってしまった。 日本の皇后様も、皇太子に嫁いだ直後に体調を崩された。彼女を今も支え続けている皇太子→天皇陛下のケアと当時のチャールズ皇太子を比較して良いとは思わないが、頭をよぎることは避けられない。
クリスマスの3日間のダイアナ妃の心の葛藤
オープニング、草原の向こうに見える夕日。
よくよく見るとそこに通る何台もの車。
そして、ダイアナがひとりで車を運転するシーン。
木々の延々とつづく草原。
一本道のようだが、迷ったとフィッシュ&チップスの店に飛び込む彼女。ざわめくお客さんたち。
ピアノの落ち着いた曲が流れていて、この時ばかりは彼女は自由だった。
しかし、エリザベス女王の私邸サンドリンガム・ハウスに近づくに連れ、音楽も不穏になっていく。
軍用車みたいなのが数台邸の前に止まり、兵士っぽい人たちが10人ほど降りてきて、大きなトランクカーゴのようなものを運び入れる。
そして、その兵士たちとすれ違いにシェフが10人ほど邸に入っていく。そのトランクカーゴのようなものには食材が入っていた。
なーんだと思ったが、このシーンで不穏さがいっきに増した。
ダイアナは途中、生家のカカシを見つけて、そこまで走り、昔自分が着せたという父のジャケットを剥ぎ取る。
亡き父にすがるかのように。
女王より遅く着いては行けない、と分かっていても、心が拒否する。夫の不倫、贈られたネックレスは彼女に贈ったものと同じもの。
自分の安らげる居場所は2人の息子とマギーのみ。
3日間で朝食、礼拝、夕食など着る服も決められて、パパラッチやら家のものやらにずっと見張られているようで息が詰まる。
そして、部屋にあった、ヘンリー8世の妻だったアン、ブーリンの本に思いを馳せる。彼女は最初の王妃キャサリンの従者だったが、見初められて王妃となる。しかし不義の罪で斬首されてしまった。
先月に舞台「ヘンリー8世」を見たばかりだったので、とても身近に感じられた。
過食症を患っていた彼女は、ディナーで周りの視線のストレスからネックレスを引きちぎり、そこにこぼれた真珠をスープとともに呑み込む。もちろんこれは妄想の中だが、そこまで精神が病んでいたということなのだろう。
そんな母を気遣う息子たちもいじらしいです。
パパラッチからの盗撮を避けるために、開けられないように縫われたカーテンを切るシーンも大胆。自由に外も見れないなんて鬱にもなりますよね、、
夜、禁止されていた生家に忍び、そこにアンの面影を見る。そして思い浮かぶ過去の自分。好きな服を着て、好きなように踊る、バレリーナを夢見たが身長が高くて諦めたというエピソードも込めているのだろうか。
1番の理解者であるマギーに告白され戸惑いながらも、海ではしゃぐシーンも印象的。(パパラッチはいいのか?とも思いつつ、、)
狩猟のためだけに育てられたというキジがかわいそうだといい、息子が嫌いな狩猟をさせられていることをなんとかやめさせようとしたり、とても心優しい一面もあった。最後は狩猟場に出ていき、息子を返してもらうと、荷物をまとめて車を飛ばして、音楽をガンガン流しながら、最後はケンタッキーでチキンを食べるという、王妃ではなく、全てから解放されて自由になり、母として生きる決意をした生き方はかっこいいなあと思った。
そして何より、クリステン・スチュワートの細かな表情がとても良かった。そして美しかった。
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