「中身の濃い作品」明日の食卓 耶馬英彦さんの映画レビュー(感想・評価)
中身の濃い作品
人間同士の関係はどんな組み合わせでも微妙なものだが、十歳の息子と母親となると、想像するのも難しい。自分が十歳の頃に何を考えていたのかというと、もう遠い過去でしかなく、殆ど何も思い出せない。
しかしわかりやすい考え方がふたつある。ひとつは、子供は大人と同じということ。同じ人間だから食欲はあるし、性欲もあるかもしれない。世間一般の価値観に左右されやすいから、大人以上に見栄っ張りだ。一方で怖がりであり、痛い目や怖い目には遭いたくない。そのためには嘘も吐くし、誤魔化しもする。約束は守らない。
もうひとつは、十歳にもなると人間関係に敏感になっていること。当方の記憶では、その頃の人間関係は同級生が7割、教師が1割、家が2割くらいだったと思う。それほど学校での人間関係が精神生活の大きなウェイトを占めていた。
日本の子供が可哀想なのは学校での人間関係が精神的な負担の大半を占める状態がずっと変わっていないということだ。当方も小中学校では毎日同じ顔ぶれがずっと続くことに辟易していた記憶がある。せめて科目毎に教室が変わって面子が変わるのであれば救いもあった気がする。だから学年が進んでクラス替えになるときに意味もなく期待したものだ。しかしろくでもない子供なのはお互い様で、クラス替えがあっても何も変わらなかった。
子供は大人の権威主義にさらされて育つから、驚くほど権威主義である。殆どの親は親の権威を押し付けて言うことを聞かせながら育てるのだ。子供と言葉によるコミュニケーションを充実させて信頼関係を築くのは時間的にも労力的にも難しい。だから安易に権威主義に走る。「親に向かって」などと子供に言う親は、権威による差別を子供に植え付ける。大抵の親は、子供が生まれたときから基本的人権を持つ個人であることを認識しないで、犬を育てるように子供を育てる。まともな人間は育たない。
犬は家族と自分に順列をつけるらしい。犬のように育てられた子供は人間関係に順列をつける。権威主義であり、差別主義である。当然、いじめの主役になる。加えて学校の面子に流動性がないから、いじめも固定化する。極端に聞こえるかもしれないが、日本の小中学校の現状はそんなものである。親と教師のコミュニケーション不足と権威主義がいじめを育てているのだ。
本作品の図式は、親の言うことを聞けという権威主義、成績がよかったりサッカーが上手だったら褒めるという既存の価値観への依存、それにコミュニケーション不足の3点が典型的にはまっている。子供の行動や台詞に不自然な部分もあったが、大枠は日本の子供のいまの現実そのものの描写と言っていいと思う。
役者陣は並(な)べて好演。中でも高畑充希の演技が突出して優れていた。他の母親を演じた尾野真千子も菅野美穂もとてもよかったのだが、高畑充希の演技は圧巻だった。母親役がいずれも秀逸だっただけに、子供の演技にやや不満が残った。
映画の冒頭とラストが菅野美穂のアップで、冒頭は疲れて衰えた顔だったのが、ラストでは清々しい顔になっていた。生まれたときから権威主義で育てた息子と母の関係性が、大きな試練を経て互いの人権を認めあったのである。つまり母と息子の信頼関係がはじめて成り立ったという訳だ。中身の濃い作品である。