サウンド・オブ・メタル 聞こえるということのレビュー・感想・評価
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究極の愛の物語
恋人同士ながら、同じバンドで活動し、2人でトレーラーに寝泊まりしながら全米をツアーする男女の話。
ルーベンは徐々に難聴に陥り、やがて会話がまったく聴き取れなくなる。
ツアーを続けたいという主人公・ルーベンと、今すぐ中止して治療に専念してほしい恋人・ルー。
ルーベンはミュージシャンとして最も大事な聴覚を失うというどん底を味わう。
なるほど、中盤くらいまでは、このルーベンの喪失と再生の話かと思っていた。
入所した聴覚障がい者の施設でも、徐々に彼は居場所を見つけていく。
ここまではまあ予想できた話だ。
しかし、終盤に至る彼の行動はルーに対する究極の愛だったのだろう。
家庭に恵まれなかったルーベンに居場所を与えてくれたルー。
そうか、彼が本当に取り戻したかったのは聴覚ではなく、聴覚を取り戻し、ルーとまた音楽をして、彼が居場所を取り戻すこと。なるほど、深い。
しかし、彼はパリを訪れた際のルーの雰囲気や生活に、そして自分の聴覚が思ったものとは違うという自覚に、彼女を取り戻すことなく、自ら身を引く。
最後のシーンはまさに彼の身上を象徴するような名シーンだった。
この映画はたった一つの愛の形を見せたものだと思う。彼はルーを通して何を観たか、何を得たか。そして、聴覚を失って彼のルーに対する愛は大きくなったのだろう。
しかし、やはり愛は脆い。彼の最後に見せた行動もルーへの究極の愛だった。
予告編の雰囲気から、自分がこういった感想を持つとは思わなかった。
しかし、これもまたこの映画の深さかと思う。
あと、内容とは別に今作の音作り。
劇場では他の作品よりやや大きい音量に設定されていたような気がする。
あの音の設定はきっと劇場レベルの音響じゃないとできないものだろう。
まさに疑似体験と言えるだろう。
あの不快な音は、自宅レベルで体験することはできない。より、主人公の不快な音を体験するのは劇場に限る。
失い、向き合った日々
これは開放か破滅か
ポスターを見る限り、タイトルの「メタル」はきっと「ヘビーメタル」なのだろうな
と思い鑑賞するも、違っていた。
テーマは「依存からの解放」だと思える本作。
本当に欲しいものが手に入らないから、代替品にしがみついてしまう依存。
そんな依存のうちに迷走する主人公は、ドラッグに始まり、ほかにも生活の至る所に依存の対象が顔をのぞかせている。
その一つが音楽だったとして、
音楽を追えば追うほど「真に欲しい物」こそ手に入らない様が、
むしろすれ違いと勘違いで失われてゆく喪失感が強烈だった。
だからして最後、しがみついてきたもの全てを手放したとき訪れる安堵と平穏は救いのようにも感じられるが、
同時に、しがみついてきたものばかりで出来上がっているような主人公にとってそれは「無」を感じさせてならず、
エンドロールが流れている間、これで主人公は本当にこで救われたのか、
救われるのか、
果たしてその逆まで行き着いてしまっただけか、とても考えさせられた。
ろうの世界を体験できる音響演出が、時々自分はちゃんと聞こえているのか、
不安にさせるリアルさ。
ゆえに音楽で煽る演出はまるでないものの、
そんなことなど忘れさせるほどの濃い作品と鑑賞する。
とにかく進むしかない
その選択が最適解だったのかは、その時はわからない。
中途で聴覚障がいを受け入れざるをえない過程をリアルに描いている
障がいを負って、その障がいを負担に思い、拒み、悩み、逃れようとするのが普通。しかし多くの場合は、病気と違って治らないから障がいとされているのであり、よしんば治す手立てがあったとしても元の状態にはまず戻らない。よって心の持ち方からはじめて、心身共に健やかな生活を送るには、障がいを受け入れる必要がある。障がいがあっても、自分で自分を幸せだと思える生活はできるのだと。「障がいは不便ではあるけれど不幸ではない」
しかし、簡単なことではない。映画はそこを描いている。できなくなること、失うものは覚悟しなければならない。それまでの積み重ねたものを一切破棄するこを強いられたりもする。そんなことをしてまで、その先の人生に意味はあるだろうか、と思い悩む。しかし、それしか道のないことをやがていやおうなしに悟る。
障がいには先天のものと中途のものがある。この軌道修正は中途の場合に強いられる。また聴覚障がいの場合、障がい者の人数が多いため、聴こえない社会、聴こえない文化というものができあがっていて、健常者の世界と隣り合わせに存在している。手話はその地の国語に依存しているが、言語が違えば文化は多少異なってくる。つまり、新たな人生のはじまりであり、生まれ変わることを強いられる。映画はそれを描ききっている。
トレーラーに住んで各地でドラムを叩く暮らしが、個人的にはそれほど魅力を感じなかったので、主人公ルーベンの悩みについていけなかった面はあるけど、本人にとっての大問題は、しょせん本人にしかわからないもの、という「孤立して闘わねばならない辛さ」はよく伝わってきた。
乗りこえたら楽になるのだろうけど、障がい以前の幸せが、大きければ大きいほど足をひっぱりそうである。戻りたかった暮らしがもう戻れそうにない感じに壊れていった点が、ルーベンには救いであったかもしれない。ときに絶望は、つぎの希望を導きもする。ルーベンは強引に障がいを打ち消そうともがいたが、前を向くことだけは外さなかった。だから最後の最後、絶望の向こう側に足を踏み入れることができた。よい終わり方だっと思う。
さすがアカデミー賞の音響賞・編集賞受賞作品。
何が聞こえるのか、が大切
見終わってわかった、ポスターの写真は術後のものだった。とにかく聞こえるようにさえなれば、愛する彼女とまた幸せな日々を取り戻せるはず・・・全てを手放して手術を受けた結果、もう元には戻れないことを悟る。不快な歪みを帯びた響きと共に。
音を失ったらそれまでの人生全てを諦める覚悟をしなければ、平安に生きられないと言っているようで、あまりに悲しく惨いと思ってしまった。せめて、愛する人の側で安らげたら良かったのに。静寂を受け入れる事だけが新たな生き方、というのではなく、現実と向き合いながらもポジティブにもがく、というのもありであって欲しい、と私は思う。
希望と絶望、これからどうやって生きていくのか、静寂のなかでなにかを見つめる姿に胸が痛む。
解釈の仕方
あるミュージシャンが聴力を失い、ろう者として生きることを迫られるのだが、その失望から外科手術によって聴力を回復しようと試みる。しかしもともと聞こえていた音とは異質なものしか聴こえなくなっていた。彼はこれからどう生きていくのか。
彼は音楽活動のパートナーである女性から、「ろう者」に言葉以外の手段でコミュニケーションをとったり、現実を受け止め互いにいたわり合うことを学ぶプログラムを受けることを勧められる。様々な葛藤を経て、施設の仲間との生活に馴染んではいくのだが、音楽への思いを断ち切ることができなかった。
聴力を失っていく過程をどう描くのかという点がこの映画の見どころである。特に主人公の音の聴こえ方を音響的にどう表すか。当事者の聴こえ方を正確に表現することは無理なことだから、イメージの世界になるのだが、映画的に言えば「不安」を音で表現するということではないだろうか。そういう観点では、うまく作られていると思う。単に音が小さくなっていくのではなく、不規則な金属的な雑音が混じりこんでくる。不安であり、不快である。
この映画をどう受け止めればいいのだろうか。素直に捉えればミュージシャンにとって音を失うということがどれほど重大なことかを伝えている。そこから延長すると、人間は自分にとって大事なものを失うリスクを抱えて生きており、それは突然現実化する。また、それは自責によるものとは限らず、他責によったり、単なる偶然であったり、運命的なものであったりする。そういうことの表現とも解釈できる。さらに考えを広げると、人間は皆、生きる過程で大なり小なり心身のハンデを抱えており、環境に脅かされているのであり、そういうものとして見た場合、人種やその他の区別を乗り越えて共感し、理解し合えることができるのだというメッセージとしても受け取れるのである。アメリカは分断社会であり、それは益々深刻化している。アメリカの映画人はその危機感を背負っている。私としてはそこまで拡大して解釈したい。
障害受容というテーマ
繊細な音の表現
主人公のルーベンは恋人のルーと共にバンドを組みトレーラーハウスでアメリカ各地を移動しながらライブに明け暮れる日々を送っている。
しかし、ある日突発性難聴を患い、ほとんど耳が聞こえなくなってしまう。自暴自棄に陥るルーベンをルーは世間から隔絶された、聴覚障がい者の支援コミュニティーに入ることを提案。これまでとは全く違う環境で、ルーベンは自らの人生を前に向けるため、ある決断をする…。
まさに音に導かれる120分間だ。
冒頭のメタル演奏のシーンから観客はルーベンが感じ取っている音の世界に一気に包み込まれる。
爆音の中、ルーとの息の合ったセッションからは逃れることができず、片時も目が離せない。
しかし、それは突然やってくる。
突如耳鳴りがしたかと思えば、そこからはジェットコースターを降るかのように音を失っていく。
今作はその『音』に深く重点を当てている。繊細な音の表現が難聴の疑似体験かの如く観客を魅了していく。
シネマート新宿さんのブーストサウンドの重低音が身体の奥の奥まで響いたかと思えば、細かな自然の音は優しく耳を撫でる。まさに極上の音像体験だ。
ろう者の支援コミュニティでのやり取りも骨太だ。彼らは『耳が聞こえない』というハンディキャップをひとつの経験として捉えている。つまり、ハンディキャップではないのだ。『耳が聞こえない?だからなんだ?』と言わんばかりの強いメッセージ性には胸が熱くなる。
また、手話のできないルーベンと被せて、敢えて手話に字幕を入れない演出はとても粋だ。
耳が聞こえなくなり、自暴自棄になった主人公が前を向き、少しずつ再生していく様子を描く本作。突如として自分の身に降りかかった現実を受け止めることの難しさや困難さは、"明日は我が身"という言葉がある通り、映画を観ている私たちも120分間疑似体験することができる。喪ったものを数えるのではなく、いま自分にできることを見つめ、まさしく五体満足の私たちが、今日、明日やれることを考えると、日々はより輝いていくのではないでしょうか。
音映画
未だ完治は難しい。。。
日本語字幕の内容、タイミング、配置、書体に、関心!
画期的な主人公の表現
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