「90年代前半、米国マイアミのリゾート地から離れた田舎町。 30才の...」リバー・オブ・グラス りゃんひささんの映画レビュー(感想・評価)
90年代前半、米国マイアミのリゾート地から離れた田舎町。 30才の...
90年代前半、米国マイアミのリゾート地から離れた田舎町。
30才のコージー(リサ・ボウマン)は、まわりに何もないような場所に住んでいる。
先住民たちの言葉で「草の川」、草が広がるだけのところ。
だが、ここいらではそれが普通の暮らし。
小さな子どもを抱えているが、いつか人のいい夫婦がやって来て引き取ってくれる・・・などと夢想したりもしている。
ま、それぐらいしかやることはない。
そんなある日、警官の父親(ディック・ラッセル)が酒の匂いをさせながら、やって来る。
父曰く、「追っている凶悪犯が酒場に頻繁にやって来る。その潜入捜査だ」。
が、実のところ、拳銃をなくしてのヤケ酒。
ま、いつもの注意散漫で、銃をなくしたのだけれど、そのときも一杯ひっかけていたんだっけ・・・ ハムスターの世話をしていたんだっけ・・・
父は、かつてはジャズドラマーになりたかったが、妻がコージーを妊娠したので、やむなく警官になったのだった。
一応、公務員だからね、安定した仕事というわけだ。
一方、隣町で祖母・母と三人暮らしのだらしない青年リー(ラリー・フェセンデン)。
友人が道端で拳銃を拾ったといってリーのもとへやって来る。
友人は、家には妻がいるので独り者のリーに預かってほしいという。
ま、どうにかなるか・・・という軽い気持ちで拳銃を預かったリー。
で、ある日、何者かになりたくなったコージーは滅多にしない化粧をして、「草の川」を歩いて横切って、隣町のバーにやって来る。
郡境の道路で自動車に轢かれそうになったが、それはリーの車。
偶然バーで出逢ったふたりは、リーが誘うまま、他人の邸宅のプールに忍び込み、リーがコージーに拳銃の構え方を教えているちょうどその時、家人が懐中電灯をもって現れたものだから、コージーは思いもせず引き金を引いてしまう・・・
といったところが前半。
その後、逃亡劇がはじまるのだが、監督自身が「道のないロードムービー、愛のない恋愛映画、犯罪のない犯罪映画」が展開する。
ミシェル・ウィリアムズと組んだ『ウェンディ&ルーシー』『ミークス・カットオフ』でも冴えていたカッティング・編集の上手さは、本処女作でも発揮されているが、編集担当はリー役のラリー・フェセンデン。
ほほぉ、彼だったのね。
前歯のない、見るからに負け犬然とした風貌の彼だったのね。
中盤以降、劇伴として使われるジャズドラムの演奏は、コージーの父親役のディック・ラッセル自身による演奏。
これがなかなか良い。
劇中、ドラムを叩くシーンも写されている。
結局、コージーが撃った弾は邸の主人には当たっていなかった。
殺人犯じゃなかった、逃亡犯じゃなかった、ああ良かった・・・となるのが定石なのだが、ケリー・ライカート監督は、そんな安易な決着を是としない。
一緒に暮らそうと言うリーに向かって弾を放ち、コージーはそのまま車を運転し続ける。
何もなかった町から都会へと続くハイウェイ、車の波は増えていく・・・
全編に渡って語られるコージーのモノローグで、その胸の内は語られる。
「わたしは、これまで何者でもなかった・・・」、と。
そうなのだ。
殺人犯でも逃亡犯でも、何者でもないよりはよっぽどマシ。
そう思ってしまうほど、米国においては何者でもない者の寂寞は大きい。
後の作品でも繰り返される、アイデンティティに対する虚無感は、すでに処女作からはっきりとしている。
まぁ処女作とは、そういうものなんだよなぁ。