マ・レイニーのブラックボトムのレビュー・感想・評価
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絶望と抵抗の歴史を想像する
「ブルースの母」マ・レイニーのレコーディング前後数時間の出来事から、黒人が人種差別で負った傷の根深さを浮かび上がらせる映画。
白人のマネージャーに無茶振りを連発するマ・レイニー、白人プロデューサーを利用してのし上がることを目論み面従腹背を決め込むトランペット奏者のレヴィーの振る舞いが描かれる。
経験則上、彼らは白人とまともに協力して仕事をしようという気はない。白人が自分たちの才能を欲しがるなら、そこに大いにつけ込むくらいのふてぶてしさで行かないとたちまち踏みつけにされてしまう。それを恐れてのことだろう。
陰鬱な緊張感と救われない展開だが、ヴィオラ・デイビスの迫力ある存在感と、チャドウィック・ボーズマンの魂の咆哮のようなモノローグは白眉だ。マ・レイニーもレヴィーも聖人君子からは程遠い。しかし彼らを苦しめる差別の歴史は、なり振り構わず抵抗し続けない限り彼らを飲み込んでゆく。
黒人差別はもちろん決して自分と無関係な問題ではないのだが、我が事として捉えられるほど身近に体験したことが個人的にはない。問題のあまりの根深さに、彼らの気持ちを想像は出来ても感情移入するのは難しかったというのが正直な感想だ。簡単に分かったような顔をしてよい問題でもないと思う。
それでも、レヴィーの慟哭にも似た叫びやいくつかの象徴的な描写は、彼らの思いを想像する手助けになった。新品の靴は彼の人間としての尊厳を表しているのかも知れない。そしてリハーサル室の扉は……。
「マ・レイニーのブラックボトムが映画になるまで」というパンフレット代わりのような動画も必見。
明るさと痛さを演じ分けるチャドウィック・ボーズマンが圧巻!
1927年のシカゴ。とあるスタジオで"ブルースの母"と呼ばれた伝説の黒人シンガー、マ・レイニーの新作レコーディングが行われようとしている。だが、マ・レイニーは白人マネージャーやプロデューサーに対してわがままのいい放題だし、録音に参加する自信過剰で明るいノリのトランペトターのレヴィーは、マ・レイニーの代表曲である"マ・レイニーのブラックボトム"を勝手にアレンジしようとして、マ・レイニーの神経を逆撫でする。この2人が、なぜわがままで頑固にならざるを得なかったのか?なぜ、明るくかつ自信に満ちて見えるのか?その謎が徐々に解き明かされていくに連れて、言葉にするのも憚られる当時の黒人差別の実態が浮かび上がっていく。マ・レイニーとレヴィーは表現方法こそ違え、同じ怒りを抱えつつ白人社会と対峙しようとする、不幸な似た者同士であることが。凝ったメイクでマ・レイニーを演じるヴィオラ・デイヴィスが視覚的に強烈だが、レヴィーの軽妙さと、それとは裏腹な痛々しい素顔を演じ分けるチャドウィック・ボーズマンが圧巻だ。これが遺作となったボーズマンには本作でアカデミー主演男優賞と、同じNetflixが配信する「ザ・ファイブ・ブラッズ」で助演男優賞候補の可能性が高い。故人が同じ年のアカデミー賞の2部門で候補になるのはオスカー史上初。2つの中では「マ・レイニー~」の方が有力だと思うが、さて。
マ・レイニー横柄すぎない?
当時の黒人の抑圧された感情とそこからくる苛立ち、抜け出せない環境、ブルースが救いだったことは伝わるが、それは他の作品でも多く描かれているし、マ・レイニーが横柄過ぎて少し共感が薄れてしまった。
ブルースへの敬意と黒人文化への警鐘
ブルースの母と呼ばれた伝説的歌手マ・レイニーを演じるヴィオラ・デイヴィスの迫力が凄い!きっとマ・レイニーも、心の底から音楽を愛する傲慢で高飛車な淑女だったのだろう。そしてチャドウィック・ボーズマンの遺作とのこと。まだお若いのに…。素敵な姿でした。
マ・レイニーの存在感にひけを取らない、チャドウィック・ボーズマンの名演を堪能する一作。
マ・レイニーは、「ブルースの母」として知られる実在の人物ですが、それ以外の人物、出来事は架空の物語ということです。この事実と創作の境界線の曖昧さは、『アンモナイトの目覚め』にも似た作品的特徴ですね。
もっとも本作の主人公は、終始強烈な存在感を発揮する彼女ではなく、彼女のレコーディングに参加したバンドの若いメンバー、レヴィー(チャドウィック・ボーズマン)です。彼は白人プロデューサーにこびへつらいながらも、実は白人に対して激しい怒りを抱いており、その怒りを音楽家としての立身出世の原動力にしようとしています。白人プロデューサーが上階の録音室に陣取り、階下のレコーディングスタジオにいるマ・レイニーとバンドメンバーを見下ろす建物の構造など、『パラサイト』(2019)にも通じるような、二極化した人々の格差を、かなり分かりやすく見せています。この強固な格差の構造を目の当たりにすると、当初からレヴィーの闘いが絶望的であることがはっきりと分かります。
同時にまた、レヴィーらの台詞の言い回しはまるで歌のように美しく、そのメッセージの凄惨さとは対照的に、ついつい聞き入ってしまうような魅力があります。それがまた、レヴィーの儚さをより一層際立てます。『ファーザー』のアンソニー・ホプキンスの名演はもちろんアカデミー主演男優賞にふさわしいと思っていますが、やはり本作のボーズマンの演技を観ると、やはり彼に贈られるべき賞だったのでは…、と考えてしまいます。
舞台劇が原作と言うことで、映し出される空間はかなり限定されているものの、そこに詰め込まれた要素の密度には感動すら覚えること間違いなしです。こうした作品を制作するNetflixの姿勢も素晴らしいけど、やはり劇場で観たいところ…。
チャドウィック・ボーズマンの遺作
2021年5月26日
映画 #マ・レイニーのブラックボトム (2020年)鑑賞 @Netflix
この映画は、黒人女性ブルースシンガー #マ・レイニー と黒人トランペッター の人種差別社会を生き残るための自己主張が凄い
#ヴィオラ・デイビス と #チャドウィック・ボーズマン の魂のぶつかり合いが見物の映画です
チャドウィッグ・ボーズマンの涙
アカデミー賞受賞式を見た直後にNetflixで鑑賞。
男優賞は、やはり彼に捧げて欲しかった。
何故取れなかったのか理由を知りたくて見たけれど、
ボーズマンの演技は素晴らしかった。
今から100年も昔の時代、
黒人が何とか自分の存在意義を確立しようと、苦しみ喘ぎ奮闘する様は、こちらまで辛くなるけれど、
今でもこの状況は、あまり変わらないのだから、目を背けてはいけない。
ボーズマンが涙ながらに生い立ちを吐露する迫真の表情。
生きていれば、偉大な名優になったであろうに、、
アカデミー会員のNetflixに対する嫉妬なのかと、ちょっと疑問。
差別の源流
いかにも舞台劇、戯曲の映画化で、基本は会話劇。
誰かが誰かをずっと罵っているので、精神衛生的によろしくないものの。
実在の歌手をモデルにし、黒人側から見た今も続くアメリカの差別の源流を実に端的に表現していました。
「ブルース」は19世紀後半に米国南部で生まれたものです。
いろいろな説がありますが、アフリカから持ち込まれたリズムであり、労働のためのかけ声「ワーク・ソング(労働歌)」が形を変えたもの。
己の魂を歌った「黒人霊歌」や、白人の大衆音楽「バラッド 」の影響を受けて派生し、米国英語で黒人の孤独感や悲しみを歌ったものとされると思います。
極端に言えば、一種の「恨み節」です。
ただ、これが米国の黒人社会で受け入れられ市場を形成すると、そのあとには白人の大手レコード会社が曲を作者の黒人から買い取り、白人の歌手とビックバンドでカバーして、「もともと白人の文化でしたよ」といわんばかりに、しれっと「ポップミュージック」として簒奪した歴史を、のちの世に生きる私は知っているわけで。
チャドウィックの演じるレヴィーがどんなに息巻いても、報われないんだろうなあ…
と思いながら観てました。
そして、ここまでストレートに差別を告発するように表現しては、批判的側面が大きすぎて、エンタメとしての魅力がこそぎ落とされていたようにも感じました。
病気で痩せこけていたものの、弱っていることを感じさせないほど熱演していたチャドウィックに、アカデミー章で最優秀主演男優賞を取ってほしかったと思いますが、一方でこの作品では厳しいのかもなとも思いもし。
衣装や小物の美術は素晴らしかったです。
ボーズマンの凄味のある最後の演技
チャドウィック・ボーズマンの遺作です。
アカデミー主演男優賞にノミネートされた演技は
痩せた身体からあふれ出した迫真かつ絞り出された凄味もありました。
嫌みのある屈折した男を演じるのが最後になるとは・・・
白人に対する思い、接し方は黒人一人ひとりで違うけど
根底にあるものは誰もが同じ思いであるのでしょう。
何を信じていけばいいのか、信じられるのは自分だけの人生。
未だにその状況は何ら変わっていません。
ボーズマンの演技に目を奪われがちですが
ヴィオラ・デイビスのド迫力演技はさすがの圧巻モノでした。
捉え方が難しい
アカデミー賞ノミネーション作品という前提のもと観賞したので、純粋な感想が難しいですが、作品としては個人的に好きではありません。。つまらないとかでは勿論なく、好みじゃないという意味です。
どんなに成功しても、黒人であることで、差別を受け続ける時代。マ・レイニーの傲慢さは、彼女なりの尊厳の保ち方であり、白人への主張であったのだと思います。そしてそれが自己満足であることも十分分かっていたのだとも思います。
また、辛い過去を持ち成功を夢見る野心家・レヴィーは、異なる方法で自身の向上を目論見ますが、上手くいかない。神に対する考え方や行動がとても哀しく切なかった。
ラストの展開に対しては、私には理解できない部分も多く、彼の激情から生まれた悲劇をどう捉えればいいか分かりませんでした。ただ、悲しくて悔しい。
チャドウィック・ボーズマンの痛みと希望と情熱を併せ持つ演技、不安定さや幼さが見え隠れする表情などは、評判通りの素晴らしさであり、また違う一面を見ることができました。
Higher Ground
舞台劇ベースで、同じくデンゼルとヴィオラのフェンスを想起する。どうしてもチャドウィックボーズマンの迫真の演技に目がとらわれてしまうが、後味はヴィオラが演じたマ・レイニー。
名声を得たベテラン歌手が周囲に撒き散らす異臭漂う圧と傲慢さ。不快感しか覚えない憮然とした表現の一方、純粋にブルースを語るときの柔らかい表情とのコントラストが効いている。彼女がマイノリティでなければ、こうである必要はなかったかも知れない。常に周囲と戦い、覚悟を示し続けて得た高み。隙を与えれば、ひきづりおろされる。後進のレヴィーに譲ることはない。乗り越えたければ本人が越えれば良い。その土台は彼女が既に築いている。多くは越えられずに野垂れ死ぬが、幾ばくかはより高くに手が届く。
そうして黒人は先人を乗り越えながら、高みを求めた。彼女が生きた時代から100年の時が経った。高くまで登ったが、輪廻してもまだ周囲は壁である。だから登り続けるしかない。これはアジア人も同じだ。
舞台劇を観ているような臨場感。ブラックパンサーのイメージとは全く違...
舞台劇を観ているような臨場感。ブラックパンサーのイメージとは全く違う姿をみせてくれた驚きのチャドウィック、さすがと唸るしかないビオラ・デイビス抜群の表現力。最初から最後までひとつひとつの台詞に重みがあり、息詰まる映画だった。
Netflixで鑑賞😭
きっかけは夭折した天才チャドウィック・ボーズマンの遺作と聞いて。シカゴブルーズの母、マ・レイニーの話。同じシンガーのブルーズの女帝ベッシー・スミスと同時代、1920年代の黒人たちの置かれた音楽業界事情や南部の凄まじい差別の実相もドライかつ痛烈に描かれる。当時、黒人が作った楽曲をタダ同然で白人プロモーターが買い取って白人ミュージシャンが大ヒットさせて大スター誕生😓この構図は1960年代以降まで続く負の歴史。黒人のプライドの戦いが描かれている。なんでこんなにココロがシェクシェク🎵するんだろ😹それに付けてもチャド、彼はいい役者だったなぁ😭
もし契約してたらオオスメします💩
これからの俳優さんであったのに
1920年代の人種差別をベースにボーズマンの遺作とし演技で魅せている。こうなると、若くして亡くなった事が尚更悔やまれてならない…
作品的にはヴィオラ・デイヴィスの存在感も際立っていて素晴らしい。
チャドウィック・ボーズマン
遺作と言う事もあってチャドウィックボーズマンに
どうしても目が行く。
ブラックパンサーの時と比べてかなり痩せてるけど、
目に力があって、作中のキャラと重なって自分を残そうと
してるように見えて圧巻だった。
どこにそんな力があるんだろう、
カットがかかって息も絶え絶えだったんじゃないだろうか?
とか要らぬ心配もしてしまった。
とにかく喜怒哀楽全てを残したって感じが印象的だった。
自信満々でメンバーにも喧嘩腰で突っかかって行く根底に
壮絶な黒人差別があったり、
白人に分かるわけがないと言うマと、
白人にも売って白人から金取ろうぜと言う、
構図も面白かった。
ただラスト、なんであのエンディングを迎えてしまったのか
自分には理解出来なかった。
音楽映画ではない。
舞台劇だけに役者たちによる丁々発止の名演技が見どころ。アリアのようなカデンツァのような描かれ方での彼らの独白が、怨念を絞り出すような悲しき物語であることが、心を抉る。黒人たちが、その原点に怒りを込めて振り返っている。そういう点で、これは音楽映画ではなく政治映画である。
マ・レイニーは何と闘ったか
「マ・レイニーのブラックボトム」を観る。原作は戯曲で”ブルースの母”マ・レイニーのある日のレコーディングのシーンがほとんどなんだけど、その限られたシチュエーションでブルースとは何か、マ・レイニーは何と闘ったのかを見事に描き切った映画。
そして、野心と才能に溢れたトランペット奏者を演じた、チャドウィック・ボーズマンの凄まじい演技に涙。
歌は良いが、常に空気が悪くてキツい!!
二人の主人公はそれぞれ、すぐ突っかかってきたり常にピリピリしているので、私だったら初日で胃が痛いです。たまに歌のシーンを入れてギリギリ体裁を整えていますが、基本的にずっと口論しているだけなので、もっと練習をして欲しかったです。類似作品は数多くありますが、この手のジャンルは人物が一辺倒な描かれ方なのは何故でしょうか。黒人はこんなものだ、粗暴で人間味がない等と決めつけているのではないでしょうか。
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